2006年8月15日に思う
今年(2006年)もまた終戦記念日がやってきました。
昭和34年(1959年)生まれの私は、直接には戦争を知りませんが、太平洋戦争というと思い出すのは、亡くなった祖父母と伯父のことです。
いささか長い話ですが、この機に書き記しておきたいと思います。
明治生まれの祖母は、三人の子どもに恵まれました。
男が一人と女が二人。
最初の女の子は幼くして病死しました。二番目の女の子が私の母です。
男の子は母の兄で、私には伯父に当たります。
名を敏彰(としあき)と言いました。大正12年生まれ。
敏彰伯父は幼い頃、医者の誤診から死に損なったものです。昭和元年ごろのことでした。
麻疹としょう紅熱を取り違えた治療を受け、脳膜炎になって小倉の記念病院に入院しました。
「親ってバカよね。黒目も動かなくなってるのに、まだ助かると思うのかしら」
と近所の人が囁き合ったそうです。
その頃は、今のような健康保険制度もありませんから、貯金の減り方はものすごく、個室に入って生死の境を彷徨う我が子の傍らで、付き添いするだけでも並大抵ではなく、不眠に食事もノドを通らない日々にお金の心配で、祖母は本当に倒れそうだったそうです。
もう、これ以上どうにもお金の工面ができないというぎりぎりで、伯父はなんとか退院しました。
学校に上がる前に知能テストをするので来てくださいと言われ、病院に言ったら、テストを終えた先生が
「よくこんなに育てましたね。
頭は普通のお子さんに劣る点はありません。大丈夫です。ただ、体力が無いので学校も一人では往復できないでしょうから、気をつけてあげてください。勉強しなさいなどと決して言ってはいけません。大事に育てれば10歳までは生きられるでしょう」
体育の時間はいつも見学でした。
学校からの帰りは、祖母が迎えにいくと、土手に腰掛けて肩で息をしていたそうです。
家庭では一切勉強の予習も復習もしない。
でも最初の通知表を持って帰って驚いた。
体操と図工以外は全部甲(今で言うABCのA)だったそうです。
世の中は段々暗い方向に向かっていました。
日本が、あの泥沼の戦争に踏み込んで行く時代です。
ある日、子どもの伯父が父親(私の祖父)に向かって
「お父さん、ボク大きくなったら軍人になりたい」
と言いました。
日常生活も不自由な伯父が軍人。
祖父は驚いたことでしょう。
馬鹿を言うなと叱るか笑うか。でも、祖父は笑いませんでした。
「よし、わかった」
そう言うと、伯父が体を鍛えられるように、鉄棒の両端に石の錘を付けたバーベルを、特注で作ってやったそうです(私が子供の頃は庭に実物が残っていました)。
伯父がどれほど頑張ったのか、その過程は知りません。
筆舌に尽しがたいものがあったと思われます。
成長した伯父は、なんと、多くのハンディを乗り越えて(文字通り乗り越えて)陸軍士官学校に入学しました。
10歳までも生きられないかもと言われた息子の成長に、祖父母も伯父も、さぞうれしかったことでしょう。
敏彰(としあき)伯父は無事、士官学校を卒業。陸軍中尉となりました。
平たく言うと戦闘機乗りであり、また戦闘機乗りの教官でもありました。
職業軍人というと、何か厳しくいかめしい、好戦的な人物を想像される方もおいででしょうが、伯父は穏やかな人でした。世が世なら、軍人などにはならなかったかも知れません。
自分の部下を指導するのに、けして暴力を振るわなかったそうですから、当時としてはかなり変わった人だったと思われます。
戦争中は「千人針」という物がありました。
無事の帰還を祈って、何人もの人が手縫いで作った物を出征する兵士に渡すのですが、伯父はその作製を断ったそうです。
私は無宗教ですが、わが家は代々浄土真宗でした。
家を出る時、伯父は
「ボクはこれだけあればいいよ」
と笑って数珠だけ持って出かけたそうです。
生きて戻るつもりはなかったのかも知れません。
最後は間もなくやってきました。
昭和20年4月7日。
「硫黄島のP−51戦闘機が初めて東京上空に姿を現した日であった。午前10時過ぎ、マリアナ基地から発進したB29重爆撃機30機が西から埼玉県上尾市上空に飛来し、それに対して攻撃した山本中尉は後尾の飛行機に体当たり撃墜するとともに、落下傘で飛び出したが、傘が開かずに墜死した。
山本敏彰の享年は、22年2ヶ月。陸軍少佐に昇任」(「56期 特別攻撃烈士 銘々記」紫鵬会・発行より)
パラシュートの紐が戦闘中の火災で焼き切れていたとも言います。愛機は2式単座戦闘機の鐘馗でした。
伯父の墜死した地には、石の碑が立てられました。今でも残っているかも知れません。
愛する息子を失った祖父母の嘆きは、言葉では表わせぬほどだったようです。
身も心も削るようにして、死の瀬戸際から救い戻し、大事に育てた子です。
意気消沈ぶりは大変なものだったと母は言います。
しかし、その時祖母は言いました。
「私はアメリカさんを怨んじゃいないよ」
と。
「私らだって、あちら(米英)の息子さんを殺めているんだからね」
血を吐くような言葉だったと思います。
でも祖母はそういう人でした。
人を怨んだり憎んだり呪ったり、復讐することをしない人でした。
これは当時の戦争責任がいずこにあったかとかいう話ではありません。理屈や大義はどうあろうと、愛するわが子を失った一母親の、心の中の話です。
昔祖母が商売をしていた頃(祖母は商売が好きでした)、ある店員がお店のお金を持ち逃げして、行方をくらましてしまいました。
本来ならば、警察に訴えるか、見つけ出してとっちめてお金を取り返すか、するところですが、祖母はそれをしませんでした。
そればかりか、そのドロボウ店員が、しばらくして暮らしに困り、住むところにも難儀していると聞きつけ、呼んで来てうちの離れにタダで住まわせ、先行きの見通しが立つまで数ヶ月、あれこれと面倒を見て送り出したそうです。
祖母はけして、自分の何かを自慢するということのない人でしたから、これらは後年、私は母から聞いて知ったことです。
祖母が見返りも賞賛も求めず、人にしてあげたあれこれを総計すると、家が2〜3軒建つくらいにはなるらしいのですが、まあ随分人のいいことでした。それを黙って好きにさせていた祖父も、同じく人が良かったのかも知れません(笑)(別にうちが取り立ててお金持ちだったわけではありません。と言うか、そういう祖父母でしたから、私が物心ついたころには、貧乏公務員の両親の稼ぎで回っているだけの、ただの普通の家庭でした)。
祖母は生涯、浄土真宗を篤く信仰していました。
聖書など一行も読んだことは無かったでしょうが、日々の行いで
「汝、裁くなかれ」
「汝の敵を愛せ」
を体現した人でした。
私は漫画家が商売ですから、これまでも何度か、この話を作品化しようかと思ったことがあります(ここに書ききれなかったエピソードもあります)。
しかしフィクションとしてこれを描いても、素直に受け止めてもらえるとは限りません。
「戦争の悲惨さも知らない戦後生まれが、勝手な空想でこんなキレイゴトを描きやがって」
などと思う人さえいるかも知れません。
だから、フィクションではなく、事実は事実として書き残しておきます。
私の中で思い浮かべる祖母は、いつも笑っています。
くったくのない祖母でした。
少なくとも晩年、愛するわが子を奪った米英を、憎んだりはしていなかったようです。
西部劇映画も好きでしたし、私が好きだったトム・ジョーンズのレコードを、元気があっていいからかけてくれとせがまれたこともありました。
1977年春、私が大学入試で上京し、合格の報告電話をして喜んでくれた数日後、私が帰省する前に、あっさりこの世を去りました。
まるで愛する孫の行く末に安心して、旅立ったかのようでした。
身の回りのつまらぬトラブルから、隣国との対立、遠い国々の戦争などを見るたびに、私は祖母を思い出します。
私にとって、祖母の生き方は、どんな道徳の授業より、偉い先生の説教より(祖母はけして説教などしない人でした)深く魂に響きます。
イエスや釈迦やマザー・テレサやガンジーなどに次いで、敬愛する人物なのでした。
アガペーとか仏の慈悲とか語るには未熟すぎる私ですが、祖母は一つの手がかりです。
こんな日なので、それを口実に、ガラにもない話を書いておきます。
ガラにもないついでに、大好きなアッシジの聖フランチェスコの祈りをおしまいに。
「憎しみのあるところに愛を
諍いのあるところに許しを
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
過ちのあるところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
悲しみのあるところに喜びを」
そして
「慰められるよりは慰めることを
理解されることよりは理解することを
愛されることよりは愛することを」
「私たちは与えることで与えられ、許すことで許され、死ぬことで永遠の命をいただくのですから」
地には平和を