2005年 7月4日 更新
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その13 何が最強か論 (2003 09 26)
武術や格闘技の話をしていると必ずどこかで出てくるのが「どの武術(あるいは格闘技あるいは流派、門派)が最強か」という話である。
見ていて思うのは、この手の発言をする人物には2パターンある。
一つは自分の流派(○○空手とか××拳とか)の看板をしょった師範、老師、あるいはその組織に属して自分の組織や責任者などに心酔している弟子など。
もう一つは、完全に外野で、見世物でも見るような軽い気分でそういったことがらを「見物」していて無責任に批評する、ちょっと好きであちこちマスコミの報道(テレビ、雑誌、新聞etc・・・)を聞きかじり見かじりした半可通である。
前者に関しては、その組織の「責任者」の場合、組織を運営していくためのやむを得ない事情もあったりするし、その弟子たちにしてもそう信じて入門していたりするから無理もない。
この人たちが言うのは仕方ないところがあるし、何よりいざとなれば自分の発言を自分の体で責任を取らなくてはならないわけだから、私は別にめくじら立てない。そもそも立てる立場にもない。
問題なのは後者である。
何が最強か、などと論じる以前に、世界中にどんな武術があって表に出ている人、出てこない人、成り立ち歴史、現在の状況等々をどれほど把握しているのか。
大半は「なにもわかっちゃあいない」と思われる。
「知らないことは語らない」のが賢い者のあり方だと思うのだが、知らない連中に限って語りたがったりする。そもそも自分の知識がどの程度なのか自分が何を知らないかを理解していないので、自分が何を言っているのか自体わかっていない。
朝のワイドショーで見たアイドルの話でもするのと同じ感覚で「何が最強か」などと気楽にしゃべっている。
いや、「なにが最強か?」と末尾に「?」が付いていればまだいい。
猫の額のような知識をもとに「○○が最強」などと断言してしまうシロウトすらいる。
愚の骨頂とはこのことである。
おいおい偉そうなことを言ってそういうおまえはどうなんだ?と外野からツッコミが入りそうだが、この山本貴嗣、いくら馬鹿でもいまだかって「○○が最強」などというたわごとは言ったことも書いたこともない。
拙著『セイバーキャッツ』の中で、八卦掌を武術の進化の一つの究極と書いたことはあるが、それとこれとは別の話である。
長年の取材の中で自分なりの意見はあるが、あえて語ろうとは思わない。語らないのが賢明だし、また実際に武をたしなんでもいない文弱の徒が、語る資格はないと思っている。そもそも実践している方々に失礼である。
「○○が最強」と言うことは、それ以外の武術、門派を学んでいる方々に対して「あんたらの学んでいるのは二流のもんだよね」と言ってケンカを売ることに等しい。
自分で実際にやっている方は、「じゃあ証明してみせてくれよ」と言って、かかってきた相手を叩きのめして証明するなり叩きのめされて恥をかくなり結論が出せる。
しかし後者(外野)の場合、そもそも自分の発言に責任がとれない。そもそもとる気もないのだろうが、とれない発言はしないがいい。身内が何人か集まった酒の席とかいうならいいのだが、公式の場ではやめておくのがマナーであろう。
前者のおもしろい例としては、私の知り合いの某師範代が昔、ある国の武術(というか格闘技)の師範と弟子2〜3人と飯屋で隣り合わせ、その一行が「うちこそ最強」とか「お前のやってるものなんか役に立たない」など言いたい放題言いはじめ、某師範代がさすがにハラにすえかねて「じゃあやってみますか?」と言ったところ、相手の弟子の一人が襲いかかってきたので物も言わずに飯屋の床に叩きつけた。
弟子の師匠が出てくるかと思いきや、師匠は「いや、うちの国には他にも△△や◎◎など強い武術があって・・・」と、とんちんかんな言い訳を始めたという(笑)。
この話題に関してどうしても書いておきたい例がもう一つある。
「何が最強か」と言うと「いやあ、所詮『誰が最強か』だよ」と一見もっともらしい思考停止のフレーズで話をたたんでしまう人がいる。一理あるのだが、間違ってもいる。
ジェット機がロケットと速度を競えないように、どうしても越えられない持って生まれた限界のようなものも武術によってはあるようだ。
ただ「当たっている」面もある。
私の知り合いにお父様がある有名な剣術の達人の人がいる。
息子さんは別の剣術を学んでいる。
失礼を覚悟の上で匿名として述べるが、私の知る限りでは息子さんの学んでいる剣術の方が「高度な」ものである。それぞれの達人が戦えば、息子さんの流派が勝つと思われる。
ただお父様の腕というのが尋常ではないので、いくら息子さんが「高度」な剣術をやろうが、死ぬまでかないそうにない腕の差がある(それは息子さんも良くわかっていて、自分でもそう言っておられる)。
ある日、息子さんはお父様の剣術の奥義というのを見せてもらって、自分の学んでいるものと比べ、思わず
「なんだーレベル低いなー」
とお父様に言った。
と、お父様は笑いながら
「そりゃそうだよ○×流だもーん、はっはっは」
あっけらかんとしたものだったという。
いい話である。
息子さんもお父様も、全てわかった上で「事実のみ」を語っている。
息子さんの剣術がお父様の剣術より高度なものであることは息子さんもお父様も認めている。息子さんがお父様にかなわないことも二人互いにわかっている。そもそも息子さんはお父様の腕を認め尊敬した上での「発言」なのである。その上でのこの会話である。
何が最強かなど外野は語るだけ馬鹿馬鹿しい。
その14 名と実 (2003 11 19)
聞いた話であるが、日本の武術界というのは、なんと言うか「巻物」つまり「伝書」を持っている者がエライと言うか、正当な宗家であるという所らしい。
極論すると、他にどれほど腕も立ってその流派の真伝を会得している者がいようとも、「伝書」を持っている者が、たとえどれほど弱くいい加減な技術しか身につけていなくとも「正当な伝承者」として認められる(らしい)。
そう言えば名前は明かせないが、ある有名な日本武術研究家(と言うか宗家)の某氏は、金に飽かせてあちこちの伝書を買いまくり、いく流もの宗家を名乗って著作も幾つも出している。私も持っている本があるが、まあ幾つもの流派について鳥瞰したような、全てを会得し比較検討はお手の物と言った(しかし私のこれまで取材させていただいてきた武術家方のお話からするとどう見ても間違っているような)内容があちこちに見受けられる。しかしご本人の書きっぷりは、我こそは真の伝承を心得る者であり学びたいものあらば我が門を叩けと、自信たっぷりな書きっぷりである。
この某氏。
昔某局の「○レビジョッキー」とかいう番組の「ガンバル○ン」に武術家としてゲストで登場、たけ○軍団の若い者に稽古をつけるところが逆襲されていい恥をかいたらしいのだが、惜しくもその回は見逃した。どなたかご覧になった方はいらっしゃらないものか(笑)。
その15 セクハラ (2004 03 24)
マジメな武術のページにいきなり下世話なネタが出て驚かれた方もおいでかも知れないが、人間の関わることである以上、無縁ではすまされない。
セクハラ(セクシャル・ハラスメント)と一言で言っても、異性セクハラと同性セクハラがある。
近ごろは、後者で社員から訴えられる会社重役がニュースになったりもするご時世である。
武術家も人の子。その持てる技術の優劣とは無関係に、人格高邁な方もおいでなら品性下劣な人もいる。
原則として己より圧倒的に強い師匠に入門するのが武術の世界であり、そこでいったん「性的嫌がらせ」が発生すれば、場合によっては大変なことになってしまう。それこそ「嫌がらせ」などとは言葉のあやで、そんな範疇を越えてしまう。
多くの道場生が集まっての合同練習ならば人目もある。
しかしマンツーマンの秘密練習や個人レッスンの場合は、何が起こっても抗いようがない。相手は師匠。戦力において勝りようがないのだ。
伝統的な武術には、見込みのある限られた弟子にのみ人払いをした上で内密に特定の技を伝授するということは日本中国を問わずあることで、それを拒否していては先に進みようがなくなる場合もある(無論健康のためのカルチャーセンター通いレベルのものであれば要らぬ心配であるが)。
昔とある捕縛術の名人に入門した人が、マンツーマンで手ほどきを受けていて、一瞬にして身動き取れない状態に絡め取られながら
「ああ、もしこの先生が男色趣味で今変な気を起こされたら俺は終わったな」
と思ったそうである。幸いそういうことはなかったので、ただの笑い話になっているのだが、業界にはそういう趣味の達人もいて、しばらくは入門していたのだが内弟子にならないかと言われてどうにも怖くて道場をやめてしまった人もいるやに聞く。
誤解しないでいただきたいのであるが、私はゲイ批判などするつもりは毛頭なく、この種の問題は異性愛同性愛を問わず発生するということの例として並べているだけである(この項を最後までお読みいただければお分かりいただけると思うが)。
私の知り合いに学生時代柔道をやっていたお嬢さんがいる。
小柄で均整のとれたスタイルにハリウッド女優のアシュレイ・ジャッド似の美人で、大層素敵な女性なのであるが、その人が学生をやめてから、とある古流武術の道場に入門した。先生は熱心でいい人だったらしいのだが師範代格の人が問題ありで、実に漫画のようなと言うか絵に書いたようなセクハラ男で、師匠の目の届かないところで指導にかこつけて体のあちこちをさわる。元々が柔道をやっていたお嬢さんであるから組み合ったり姿勢を直されたりということには十分に経験があり、まったくのシロウトがまともな指導を勘違いしたというような話ではない。結局堪え切れなくなって道場をやめてしまい、その人は武術から遠ざかってしまった。
そんな「趣味の道場通い」なんてやめてもいいんじゃないかという意見もあるかも知れないが、ここで問題にしているのはそういうことではない。
せっかくの武術との出会いがこういうくだらない、しかし当事者にとっては不愉快極まりないことのためにだいなしになるのはなんとも惜しいと思うのである。
だから私に何ができるわけでもなく、そういう例が一つでも起こらぬことをただ天に祈るだけである。
またこれから武術を志そうという方は、ごく稀にそういう危険もあるということを心に留めておいていただければと思うのである。
その16 金的 (2004 09 03)
金的への攻撃について少し。
洋の東西を問わず、男子の股間への攻撃は強烈な効果を生むことはご存知の通りである。
が、頭に血が上った人間を必ずしも沈黙させられるわけではないし、そもそもシロウトが狙ったからといって、そう確実に命中させられるものでもない。
武術や格闘技なんか知らなくてもイザとなったら金玉蹴って逃げるからいいとか気楽に言うやつが子供の頃いたが、かえって相手を逆上させて合わなくてもいいひどい目にあったりもしかねない。
かの『空手バカ一代』には、異常に発達した太股の筋肉を合わせて金的攻撃を防いでしまう敵役が登場したが、そういう人もいるであろう。
一部の沖縄空手や中国武術には腹中に睾丸を納めてしまう技術もある。
知り合いの若い頃の話、いや正確には知り合いのお友達の若い頃の話であるが、相当な猛者(といっても高校生当時)であった某氏は、ある日空手部と相撲部の人間二人から同時にケンカを売られ、高価買い入れしてしまい、二人とも倒したものの本人もズタボロになって帰宅。
家の玄関を開けて「かあちゃんただいまー」と言ったまま気を失って倒れた。
空手部の蹴りを股間にくらって陰嚢が破れていたのだ。それでも最後まで闘って相手を倒したのであるから恐るべき闘争本能であるが、さすがに玄関で気力が尽きた。
夏休み始めの事件であって、傷に布団がさわるのが辛く、真夏だと言うのに電気炬燵を組み立ててその上に布団をかけて休みの間は寝ていた(無論電源OFF)そうである。
こういうとんでもない例もあるので、金的攻撃必ずしも万能とはいかないのが実態らしい。
ただ、それはあくまで特殊な例であって、たびたび言及しているXクン始め、様々な人々が多くの敵を股間への一撃で沈黙せしめているのもまた事実である。
特殊な例としては、知り合いの武術の老師が(あえて名は伏せる)聞き分けのない反抗期の息子(成人)を叱っている最中、蹴りが股間に命中。病院に運び込まれた息子の蹴りつぶされた片方の金玉は手の施しようもなく、あわれ摘出手術となった事件がある。老師には息子さんを殺す気など無論なく、十分手加減したためそれくらいで済んだのである。良かった良かった。
その17 夏目房之介先生とのやりとり (2005 07 03)
2005年6月中旬、BBSのお客様より評論家の夏目房之介先生が拙著『セイバーキャッツ』に関して触れておられる中に気になる点があるとカキコをいただき、拝読して見過ごせず抗議のメールを差し上げた。
以下はその顛末を先生がご自分のブログで書かれたものであるが、この際先生の了解を得て私もこちらに転載させていただくことにする。この件はひとまずこれで一段落とするが、先生の影響力を考えたとき、その書かれた内容を鵜呑みにするファンも少なくないことから、あえてきつい表現で抗議させていただいた。
誠実にまた迅速に対応してくださった先生には心より感謝の意と敬意を表する。
休暇旅行に出る直前の05年6月14日付ブログに「『セイバーキャッツ』と「たかがマンガ」」という文を書いた。「たかがマンガ」の意味を語るために、まくらとしてたまたま再読した『セイバーキャッツ』の感想を述べたのだが、この記述に関して直後に作者・山本貴嗣さんからメールをいただいた。
僕が書いた〈技術的にのみ技を解説していて、それはわかりやすいんだけど、たとえば後ろから組みつかれた相手をどう倒すかの解説は、じっさいにそれを使おうとしてもまずできないだろうと思う。とくに体格の大きい相手だったり心得のある奴だったりしたら、まず無理。そんな技を、いかに賞金稼ぎをしてる少女とはいえ、ちょっと教えて使えるわけがない・・・・というのが、まぁつまりマンガだからそれでいいんだけど、なまじに知ってるとリアリティを感じない部分だったりする〉という部分についての反論とお怒りであった。
山本さんの指摘は、メールから抜粋すると以下のようである。
〈あれは基本的な身体運用も忘れた21世紀後半人類(実は現代人)の代表でもあるチカへの「入門」「呼び水」としてのスクネの座興であり、けして、あれを学べば今日から君も格闘家というようなたわけたレクチャーをしてるシーンではありません。
〉
〈私は少なくとももう二十年近く武術家の方々に取材を重ねてきた(まあ多少は自分も体を動かしつつ)身であり、どう間違ってもそんなたわけたエピソードは描きません。
お座敷芸と実戦の区別もつかないほどの愚か者ではないつもりです。
あれをリアリティのあるなしで語られるとは私はとてもとても悲しいです。
〉
『セイバーキャッツ』を読んでいないと、
ここで語られている内容を理解しにくいと思う(もし未読で興味のある方は一読をおすすめする)。簡単にいえば後ろから抱きつすくめられるようにされたとき、やや腰を落としてこごみ気味にして片足を後ろにさげ、〈相手のワキに腰をすべらせて 反対側の腕をのばし 上体をひねる〉(『セイバーキャッツ』1 角川書店91年刊 102p)ことによって、腰を支点にして足と手をテコのように働かせ、相手のバランスを崩し、後ろにひっくりかえす技を、主人公の中国武術の使い手の青年が自ら投げられることで、賞金稼ぎをしている少女に教える場面について書かれている。
もちろん僕は「修練をつんだスクネが武術素人の少女にわざと技をかけさせることで技の原理を教えている場面だ」と理解していなかったわけではない。ただ、少女が「魅力的なマンガ的美少女」キャラであり、華奢な、重心の高そうな体で軽やかに動いてみえたため、そこを「マンガ的な誇張の範囲内で技術的な解説をした場面」とだけ読んで、感想を書いたのである。
〈リアリティを感じない〉という部分は、僕のつもりではマンガの内容を離れ「その技術だけを再現すれば力が発揮できる」かのように読めた印象に対して「これ、武術的な体ができてないと使えないよなぁ」と感じ、不用意にそれを書いてしまったのである。ただしマンガの描写そのものを「知らないくせに描いてるんだな、こんなん使えるかい」と思ったわけでは、じつは全然ない。逆に『セイバー』の武術的な描写がかなり正確らしく(僕も初心者なのでよくわからないが)、そのためにアクション・マンガとして不利になっているように見えたので、むしろ「作者はマンガ的な誇張表現と、正確な武術的表現とのせめぎあいの着地点として技術的説明を選んだのかな」という推測をしていた。ただ、そこまではブログの早書きの範囲では言及していない。
もっとも、この印象の背景には今自分が馬貴派八卦掌でやっと実感しつつある「功夫」(長く地味な修練によって獲得する武術的な体と、その能力)の重要さの感得があった。だから、よけい「使えない」ために「リアリティ」を感じない、という書き方になってしまっているのだと思う。山本さんが〈心外〉だと感じられたのは、この部分だろう。
もっといえば、ただたんに「技術的」に型を教わっただけでも、それが有効に機能することもありうる、と山本さんはメールで指摘されている。この部分の僕の理解が武術に関する「知ったかぶり」を露呈させていることも、山本さんの不快をよんだろうと思う。このあたりの武術観については、山本さんのメール原文を読んでいただくと、その武術観を理解することができる。いろんな意見はあるだろうが僕には深い理解に思える(少なくとも僕などよりは)。また、こまかいところだが僕は「格闘技マンガ」といういいかたをうっかりしていて、まるで「格闘技=武術」のような印象になるが、山本さんの指摘のように、この二つは似て非なるものである。
山本さんは、この件に関して2度メールをくださり、僕もそのつど返信した。その過程でわかったのだけれど、僕の想像をはるかに越えて山本さんは武術に詳しく、またそのことのマンガでの表現に繊細な注意を払ってこられていた。「使命感」をもって、正確な描写を志向されていたのである。そのことは二度のメールを読めばわかるし、また山本さんのサイトにある「武術のこと」という文章を読むとさらにわかる(メールの応酬と山本さんのサイトに関しては、あとのほうに原文をのせ、その中にURLも書かれている)。
それを考えると、僕の文章は不用意すぎたといえる。自分では、けして『セイバー』の武術描写をおとしめたり、侮蔑したりする書き方はしていないつもりだったが、理解が浅かったことは認めないわけにはいかない。武術初心者がつい「知ったか」になって、山本さんに対して無神経な無礼な書き方をしてしまったようだ。山本さんに〈侮蔑〉ととられるような理解の浅さで書いてしまったことについては、ここで深く陳謝し、またブログの読者に対しても説明する責任を果たしたいと思い、この文章をアップする。
武術の世界に関心のない向きは、あるいは山本さんの反応を「過剰」と思われる方がいるかもしれない。しかし、この世界にはやたらと知識を振回し、無神経に人を皮肉ったりする人も多いのである(いや武術の世界にかぎらないけれど)。山本さんが、過去にもずいぶん嫌な思いをされ、それが今回の怒りにつながっていることも、何となく理解できる。メールには、こんな記述もある。
〈実のところあの作品は一部の熱狂的なファンも得た反面、多くの誤解に基づく悪口雑言も山のように受けました。
私にとって半ばトラウマと言ってもいいほどで、以後武術マンガから大きく遠ざかることにもなりました(商業的な問題も無論あります)。 〉
事実、この作品を読んでいたので馬貴派八卦掌に入門された方もおられるほどだ。が、それだけに山本さんの気持ちに反比例するように誹謗中傷のようなものもあったのだろう。そういうことが、いかにもありそうな分野ではあるのだ。ただでさえ党派性の対立が激しい世界で、それぞれがお山の大将みたいなところもあるので、深くコミットするとそれだけ傷つくことも多いかもしれない。が、山本さんがいちばん嫌うのは、それらの情報を半可通に収集しているマニアが無責任に語ることである(上記した「武術のこと」などにある)。僕も、広い意味ではそういうことをしていて、その「お気軽さ」が山本さんの怒りをさらに深めたのであろう。
僕も、そのあたりのことを感じて「武術マンガは難しい」ということを書こうとしたのだけど、ブログという性格もあって「お気軽」であったことは否めない。文筆商売をしてエッセイや日記なんか書いていれば、しばしばこうしたことは起きてしまうにしても、謝るべきだと思えばそうしなければならない。
山本さん、すみませんでした。
メールで直接いってきてくださった勇気に感謝します。何度かのやりとりで、これ以上のつまらない誤解や確執を生まないですむ結果になるのであれば、山本さんの率直なお怒りによります。
また「やまもとあつじ」を「あつし」と誤記してしまい、重ね重ね失礼いたしました。
今後とも、面白いマンガを読ませてください(一ファンとして)。
2005年7月3日 夏目房之介
以下に、ブログの読者のために、上でふれたブログの当該記事、山本さんのメールと僕の返信を、多少削った形でのせます。もちろん山本さんのご了解をえて。
『セイバーキャッツ』と「たかがマンガ」 6月14日 夏目房之介の「で?」
山本貴嗣(あつし、と読むらしい)『セイバーキャッツ』』(角川 全5巻)を読み直しましたよ。
いやあ、はじめて読んだときは太極拳はやっていたけど八卦掌はチンプンカンプンだったので「???」と頭に点滅しながら読んだんですが、なるほどよく調べて描いてあります。やっとわかりましたぜ。しかし一般の読者が読んでも地味すぎて何がそんなに凄い武術なのか全然わかんないでしょうなぁ。技とかは忠実に再現しようとしてるんだけど、マンガ的なハッタリがあまりないので格闘技マンガとしては迫力がないかもしれない。それでも中国の先生が「ああ京劇だね」といったと書いてあるように丁々発止の手の数をふやしたり、それなりに誇張してるんだけども。もちろん面白いんですけどね、未来SFだし。
昔読んだときに何か違和感があったのもなぜか理解できた。要するに
技術的にのみ技を解説していて、それはわかりやすいんだけど、たとえば後ろから組みつかれた相手をどう倒すかの解説は、じっさいにそれを使おうとしてもまずできないだろうと思う。とくに体格の大きい相手だったり心得のある奴だったりしたら、まず無理。そんな技を、いかに賞金稼ぎをしてる少女とはいえ、ちょっと教えて使えるわけがない・・・・というのが、まぁつまりマンガだからそれでいいんだけど、なまじに知ってるとリアリティを感じない部分だったりするわけですね。
この場合、必要なのは鍛錬によってできる武術的な体そのものであって、それを基盤にしなければ通用しない技術なんだけど、そこまでマンガではなかなか描けないわけです。だからどうしても技術だけの解説になって、何か軽い感じがしちゃったというのが僕の初読のときの違和感だったんだろうと思います。
じっさいに武術を知らない人でも、この程度の技術が何んでそんなに凄いものとして描かれるのか判らないってことはあるだろうな。そういうとこが格闘技マンガの難しいとこだと思う。リアルに描こうとすればマンガとしてはつまんないものになっちゃうし。そういう意味では鍛錬そのものを描いている『拳児』のほうがまだリアリティがあるといえるかもしれない。もちろん、そうなったらなったで専門家には余計色々アラが見えてしまうから、このテのマンガは専門家に高い評価をされることはまずない、と考えたほうがいいのかもしれない。格闘技だけじゃなくて、専門的な世界、料理とか金融とか何でもそうかな。
だけども、ここが肝心なとこで、そういうモノだからこそ多少乱暴にでもあらゆる世界、領分を描いて娯楽にすることができるわけで、それこそが「たかがマンガ」の凄さなんですね、僕にいわせれば。
潜水艦バトルマンガとしての『沈黙の艦隊』が、設定に日米安保関係を選んだことで(見かけ上の)「結果」として「戦後日本とは何だったか」という主題を含んでしまい、だからこそきわめて時代的にビビッドな作品になった(この場合、作者かわぐち本人が「本当はどう思っていたか」は、あまり関係ない)。でも、この作品を評価するとき、やっぱり大衆娯楽作品だということはキチンと押さえないといけない。かわぐちかいじは、そのへんの「たかがマンガ」と「されどマンガ」の微妙な関係をよく知ってる作家だと思いますね。
この「たかがマンガ」の凄さは、今でもじゅうぶん機能してると僕は思います。
以下、思わず筆がすべって「たかがマンガ」問題にいってしまいます。[以下略]
6月15日
拝啓 夏目先生
初めまして。
漫画家の山本貴嗣(やまもとあつじ)と申します。
突然ぶしつけなメッセージを差し上げまして申し訳ありません。
先ごろ私の公開サイトのBBSに先生のブログにセイバーキャッツが取り上げられてましたとカキコくださったお客様がいらっしゃいまして、それをたどって先生の文章を読ませていただきました。
先生には実は以前一度だけお会いしたことがあります。 [略]
ところで、ブログの「セイバー」についての記事ですが、ひとこと申し上げたいのですが、
スクネがチカに最初簡単な手ほどきをするくだりを「ちょっと教えて使えるわけがない・・・というのが、まぁ、マンガだからそれでいいんだろうけど、なまじ知ってるとリアリティを感じない」と書かれておいででしたが、これはいささか心外です。
あれは基本的な身体運用も忘れた21世紀後半人類(実は現代人)の代表でもあるチカへの「入門」「呼び水」としてのスクネの座興であり、けして、あれを学べば今日から君も格闘家というようなたわけたレクチャーをしてるシーンではありません。
ほとんどスクネは指導にかこつけてチカをからかってるようなシーンです。
あそこをそういう読み方をされる方がおいでとは思いもしませんでした。
私は少なくとももう二十年近く武術家の方々に取材を重ねてきた(まあ多少は自分も体を動かしつつ)身であり、どう間違ってもそんなたわけたエピソードは描きません。
お座敷芸と実戦の区別もつかないほどの愚か者ではないつもりです。
あれをリアリティのあるなしで語られるとは私はとてもとても悲しいです。
実のところあの作品は一部の熱狂的なファンも得た反面、多くの誤解に基づく悪口雑言も山のように受けました。
私にとって半ばトラウマと言ってもいいほどで、以後武術マンガから大きく遠ざかることにもなりました(商業的な問題も無論あります)。
今回も夏目先生ほどの方にかかる誤解をうけることから考えて、巷にひしめく一知半解の人々(夏目先生よりも知性においてはるかに劣るある種の人々)に正しく意図するところを伝えることがいかに難しいかを改めて思い知らされたような次第です。
もっともセイバーの当時は私も若く、「俺のマンガは判る奴に判ればいい」というバカのきわみで突っ走っていた頃でした。
40代の現在は、これでもお客様の楽しみを最優先に考えるよう日々努力しております(笑)(それが実を結んでいるかどうかはともかく)。 [略]
なにより申し上げたかったのは新聞記事やもっと古くはご著書において拙作をお取り上げくださった(読みきり漫画「オデュセウスの夜」だったでしょうか?)(もうお忘れかもしれませんね)(笑)ことへの心よりの御礼です。
なお私の本名は「あつし」ではなく「あつじ」と読みます。
なにとぞよろしくお見知りおきください。
乱文申し訳ありません。身体健康。敬具。 山本貴嗣
敬具
6月30日
山本様
大変にごていねいなお手紙で恐縮のいたりです。
まず、私の『セイバー』に関する「読み」ですが、作家の方は敏感になられるのを承知の上ながら、ブログで軽く書いてしまい申し訳ありません。山本さんが武術をきちんと取材されて描かれておられるのは充分にわかりますし、設定まで読み込んで意見をいっていなかった当方の批評家としての「甘さ」ですね。つまらない文章で余計なお気遣いをさせてしまい、もうしわけありません。
私が書きたかったのは、なまじに少しおぼえると腰のできかた、落ち方がないと使えない技が気になってしまい、ちゃんと描いた作品であればあるほど妙なリテラシーが発揮されてしまう、というようなことだったのです。そこにたとえば『グラップラー』とかのマンガだと、かえって気にならないけど・・・・というような補助線を入れるべきところ、ブログの気楽さで早書きになっています。
山本さんの意図まで忖度できていないところは未熟のいたりです。ご容赦ください。また、山本さんほど正確に描ける方も多くはない、というかほとんどいないので、できれば有象無象の意見は気になさらず、また描いていただければ読者としてはうれしいのです。何しろ読者というのは基本的に無責任で勝手なものですから、作家は「気にしない」ほうが健康にいいのだと思います。まぁ難しいんでしょうけれども(笑)。
私はかなり以前から山本さんのマンガは好きで読まさせていただいています。自著にも何度かふれせていただきました。[略]ですから、こういう形でもご連絡をいただいて光栄です。
ネットは、[略]感情の行き違いを増幅するところがありますが、山本さんのように直接にいってきてくだされば、あまり余計な感情のもつれを作らないですむのだろうと思います。今回のこと、私の書きようの未熟でお心を騒がしてしまい、本当にすみません。ブログとはいえ、批評家を任じる者の書くことですから慎重に・・・・とは思っているのですが、どうしても少し考えナシに放言しがちになります。
おまけにお名前も間違えてしまい、かさねて失礼もうしあげました。お怒りごもっともと思いますが、どうか「たかが批評家の戯言」とご放念いただきますよう、お願い申し上げます。もしお許しいただければブログ上にて山本さんのご意見も引用しながら訂正したいと存じます。[略]今後とも山本貴嗣さんらしいマンガを描いていただけますように。
失礼もうしあげました。
夏目房之介
7月1日
拝啓 夏目先生
ご丁寧なお返事ありがとうございます。感激です。
実は2.3付け加えたいことがあったのですが、お返事がいただけるかどうか待ってからにしようと思っておりました。少し長くなりますが、お許しください。
まず
> 私が書きたかったのはなまじに少しおぼえると腰のできかた、落ち方がないと使えない技が気になってしまい、ちゃんと描いた作品であればあるほど妙なリテラシーが発揮されてしまう、というようなことだったのです。
とのことですが、これはまったく的外れなご意見です。
件のシーンではチカは単なるシロウトであり、足腰などできていないのが当然です。
スクネはわざと「かかってあげて」いるのですから、あそこで足腰ができている動きをチカがしていたらそちらの方がよほどリアリティのないおかしな描写でしょう。
前後の脈絡を無視した偏狭な教条主義的なご判断です。
そもそも武術の中でも、特に柔術系の流派には、弟子に技の基本を体得させるため、師匠や兄弟子がわざと技に「かかってあげる」稽古があります。
本当に実戦で使えるように「刃(やいば)を研ぐ」稽古以前の、「刃つけの初期段階」とでも言うのでしょうか。
ほぼ同格の弟子同士が技を掛け合う稽古にもそれがあり、たまに「わかっていない」者が、ムキになって相手の技にかかるまい、かけさせまいとしたりしますが、これはその稽古の意味、目的を履き違えた愚か者で、師匠からたしなめられます。
もっとも「かかってもらっている」方の初心者も、自分が強くなったと勘違いして「今日からオレはぽんぽん人が投げられる」とか「兄弟子や師匠の関節が極められる」と思い込んだとすれば、それは狂気の沙汰でしょう(まあそんなたわけは普通いませんが)。
件のチカとスクネのシーンはまさにこのような稽古であって、二人とも「分別あるオトナ」である以上、そのような誤解は存在しないと思われます。
ただ武術には「型」の持っている強さ、というものがあります。
正しく精密にポイントを押さえた「型」には、その「型」の持つ最低限の強さ、シロウトとは異なる強さがあります。
以前、格闘技雑誌の記事で、合気道の故・塩田剛三師範が道場を訪問したリポーターの姿勢を直されただけで、その技の効きが全然異なったという話があったように思いますが、これなども「正しい型」の持つ強さを示す好例だと思います。
無論一度習っただけでその「型」あるいは「動き」を精密に習得できる人間は、限られた天才だけですが、たとえその何割かでも覚えられれば、それは心得の無い素人相手には大きな力を発揮します。
チカがスクネに習った技も、心得のある相手には通用しなくとも、心得の無い素人には十分有効な部分があるはずです。
武術の真の功夫[コンフー 鍛錬によってえられる体の基礎能力(夏目)]は、小手先の技の収集ではなく、手間隙かけて作られた体と体能にあるというのは、私もよく存じておりますし、一つの真理ですが、それは広大な武術のほんの一面に過ぎないと思います。
世の中にはハードとソフトがバランスよく合わさった流派もあれば、ハード偏重でソフトがおそまつ、あるいはその逆とといった流派も存在します。
体や体能は二の次で、技の百貨店、ワンポイントアドバイスの羅列のような某流「ちっとも強くなれない」と外人弟子から訴えられたという話もありました。
しかし、ではその流派が意味の無い全くのインチキかといえばさにあらず。
他流をある程度修めたり、基本的身体(パソコンでいうならハード本体と基本OSを含む)ができている人間が学ぶと、ブースター効果抜群の宝の山のような流派でもあるようです。
このように、武術は、それを使う人間、使われる人間、使われる状況様々な要素によって、異なる意味や結果の生じるデリケートなものであり、それらを吟味せずに軽々に是非を判断できるようなものではないと思うのです。
私が先生の記事を拝読して大変悲しかったのは、私の、僭越ながらあえてこう申しますが「血の滲むような取材や思考の積み重ね」を、実に「気楽に見下げられた」ことです。
あれは私に対する「侮辱」です。
きつい言葉で恐縮ですが、こう申し上げない限り、私の憤りや悲しみはご理解いただけないと思うのです。
「なまじに少し覚えると腰のできかた、落ち方がないと使えない技がきになってしまい」云々というのは、自分にはそこが見えているがこいつ(この場合は私・山本)には見えていないという決め付けではありませんか。
いったいいかほどの修行と功夫を積まれたのか存じませんが、何を根拠にそういう判断が可能なのか、私には判りかねます。
>どうか「たかが批評家の戯言」とご放念いただきますよう、お願い申し上げます。
そう笑って見過ごすには先生はあまりに大きい存在であり、その権威や影響力を考えましても、洒落ではすませられません。
>もしお許しいただければブログ上にて山本さんのご意見も引用しながら訂正したいと存じます。
そうしていただければどれほど幸せでしょう。
キツイ物言いをしましてご不快かとも存じますが、私が求めるのは「共通の(完全にとは行かないまでもある程度の)理解」であり、「曖昧な和解」や「気分」ではないからです。
先生に対する尊敬や感謝の念は変わるものではありませんが、これはこれとしてきっちり思うところをお伝えしたくメッセージを送らせていただきます。
乱文をおゆるしください。身体健康。敬具。 貴嗣
7月1日
山本さま
感動しました。いや、おためごかしではなくて、僕は本当にちょこちょことかじっただけの初心者ですから、武術的なご指摘に関して、やっと納得がいきました。ハードとソフトの比喩で語られたこと、じつに深いです。勉強になりました。じつをいえば、本格的に武術としての修練を始めたのは今回の馬貴派八卦掌がはじめてといってよく、今のところとにかく老師を信じて丸のみでやっているので、一般的にはかなり偏狭な見かたになっているのかもしれません。ご指摘のようなことは、リクツで何となく推測はしてましたが、やはりそうなんですね。[略]山本さんのご指摘は武術に関してはるかに先輩の言葉だと思いました。
ただ、くりかえし申し上げますが、僕は『セイバー』の描写を「気楽に見下げた」つもりはないのです。マンガ的な「わかりやすい」表現とじっさいの技の表現のせめぎあいとして読んだのだのですが、そこは誤解をされたような気がします。何せチカの体やコスチュームはどうしてもマンガ的な「魅惑的」なキャラクターのそれですから。むろん、今回の文章を読んでそうではないことがわかりましたが、そういう意味ではたしかに「気楽」に書いてしまったことは否定できません。
「気楽」は認めますが武術的にみて「見下げる」つもりは、少なくとも僕の中にはありません。そう読まれてしまったのであれば、謝るしかテはないのですが。
またくりかえしになりますが文の主意は、マンガにおけるリテラシーの違いというのが様々な印象をもたらす、それが読者という存在でもある、という点にあります。このことは歴史好きとそうでない者が『風雲児たち』や『虹色のトロツキー』を読んだときの印象の違い、少女マンガを昔から読んでいる女性とあとから読み始めた男性の違いなど、今の僕の関心の領域にある問題だったのです。
僕は、『セイバー』の武術描写が全然なってないからダメだという書き方をしていないように(自分では)思っています。そうではなく、マンガで武術的なことをきちんと描きながら、なおかつマンガとしてのわかりやすさ、面白さを保証するのは、読者の側のリテラシーの違いなどが作用してむずかしいんだなぁ、ということをいいたかったのです。
僕はずっとマンガ表現論というのをやってきて、それは自分のマンガを描く実感にもとづいたものだったので、むしろ作家よりの論になりがちでした。でも、マンガを成り立たせる一方の読者という存在は、作品をいかようにも読んでしまう可能性のあるもので、そのことをくりこまないとマンガ論としてはこの先を歩いていけないと考えているので、ついブログでもそういう角度からのみ、書いてしまったということでしょうか。いずれにせよ作品は作家とも読者とも独立したものを必然的にもってしまうので、誤解も曲解もうまれますが、それがまた「面白さ」でもあったりするのだと思います。
僕が、武術的なことのストリー設定上での表現にまで気がまわらなかったのは、たんに不用意であったことと、多分ひじょうに未熟な武術体験者だからだろうと思います。チカは相当素質のある者で、一応賞金稼ぎとして活躍しているくらいだから、ちょっとおぼえた技が素人相手に効く可能性があるのは、たしかにそうだろうと思います。それに、本気でかけると本当に危ない技であるらしいことも老師の動きを見てわかってきたので、山本さんのご説明は納得できます。けんめいに考えれば、そのことは推測できたかもしれませんが。
ですが、さすがにそこまで深く考えて考察すると長文の評論になってしまうでしょうし、そんなつもりの文章ではなかったので、お怒りをかう結果になったといえるかもしれません。
問題は、ここでやりとりされたような内容が、一般の読者にはあまりよくわからないだろう部分かもしれないということですが、少し釈明のしかたを考えてみます。
それにしても、これほどの理解をされている山本さんが武術ものを描かないのは、やはりひじょうにもったいない気が(読者として)します。[略]
最後にご理解いただきたいのは、僕が「気楽」に書いてしまうときがあるのは、昔はそれこそが僕の売文業者としての「売り」だったからです。今でも、どこかでその部分を保証することが自分のモチベーションになっています。
最近は「夏目さんが書くと影響が大きいから」とかいわれますが、それを気にしすぎると僕は逆にロクなものが書けなくなっていくと思います。ですから、こんなふうにお怒りをかったり、傷つけたりしたときは、謝るしかないのです。これからも、そうでしょう。僕は自分が偉くて影響力があるという想像ができませんし、類推できてもそれで言葉をあまり選ぶのは自縄自縛だろうと思います。
そんなわけで、本当にもうしわけない書き方をしてしまいましたが、今パソコンの前でぺこぺこしていると思ってください。
何か、かえってお怒りを増幅するかもしれませんが、気持ちはご理解いただければさいわいです。
夏目房之介
7月2日
前略 夏目先生
再びご丁寧なお返事ありがとうございます。
お気持ちよくわかりました。
私の過激な文章に辛抱強くおつき合いくださいまして恐縮感謝です。
「ここでやりとりされた内容が、一般の読者にはあまりよくわからないだろう」<まったくおっしゃるとおりで、そこが悲しいところでもあるのですが・・・。
先生のサイトでどうお書きになるかは先生におまかせします。
以前武術雑誌のインタビューを受けたときにも言ったのですが、私は武術の伝道師、宣教師を自任しております(笑
自分が奇跡を行なえるわけでも神でもないのですが、自分が目にした神とそのみわざを少しでも多くの人に伝えたい。
武術マンガを描く時はそういう気持ちで描いています。
蛇足ですが、いわゆる格闘技と武術は似て非なるものだと思っております。
以前雑誌で、ある武術家がうまいこと書いておいででしたが、スポーツはアピールすることが必要である。
しかし武術は、己の意図するところを「色に出し」てはならない(命がかかっていますから)。
と。
この一点を取り上げても、二つの立場の違いがわかると思います。
武術マンガ<また描けるといいのですが。
時が満ちるのをじっと待っています。
ではお元気で。草々。 貴嗣
7月2日
追伸
私の公開サイト「あつじ屋」で雑文コーナーというのがあるのですが、ここの「その5」の中に「武術のこと」というのがあります。
今「V」まであるのですが、私の武術に対する考えをご理解いただけると思うので、もしお気が向かれましたらご覧ください。
身体健康。 貴嗣
7月2日
山本貴嗣さま
お忙しいところまことにご迷惑をおかけしました。
「武術のこと」読ませていただきました。いや、面白くって、何でこれ本になってないんだろうと思います。山本さんの絵と写真が入ったらじゅうぶんいけると思いますが。
それ以上に山本さんのミッションの意識を感じ、本当に無礼をもうしあげたと、あらためて思いました。もうしわけありませんでした。
僕は自分で知らないうちに「知ったか」になってましたね。もともとそういう人間ですから、ときにこういう失礼をして痛い目にあいます。そうでないと増長するのでちょうどいいのですが・・・・。
ブログにのせるものについては、まとまったら一度見ていただきます。
やはり、多少削ってもこのお手紙や僕の答えのやりとりを(必要なら注釈を入れて)のせ、さらに僕の初出のブログ文をのせた上で、謝罪の文をつけたいと思っております。
よろしくお願いします。 [略]
これにこりず、今後ともよろしくご教導お願い申し上げます。
夏目房之介
その18 私の武術に対するスタンス(補足) (2005 07 04)
「私は武術の伝道師であり宣教師である」、という私のスタンスは、ともすると誤解を生みかねない表現でもあると思い、少し補足させていただく。
「自分が奇跡を行なえるわけでも神でもないのですが、自分が目にした神とそのみわざを少しでも多くの人に伝えたい」
というたとえは、ある種の狂信的な思い込みと自己批判能力の欠如いったものをイメージされる方もおいでと思う。
が、私が武術に魅せられた最大の要素がそのリアリズム(本当はこの技効くはずなのにいいいい!とか勝手に思い込んでも効かないものは効かない。そこを支配するのは冷徹な現実のみ)であるように、私は冷静に現実と向き合うのが好きである。
「神を疑うな」とは、いくつかの宗教に見受けられるルールであるが、私は疑う。
それが真実であれば、いかに疑おうと試算を繰り返そうと同じ正解にたどりつくであろうし、正解にたどりつけないとすればそれは何かが間違っているのだ。
もっとも言葉どうりの「神」や霊的な問題となると、また色々注釈抜きには語れないのでここでは置く。あくまで武術の話である。
私が武術との関わりを振り返ってラッキーだったと思うのは、特定のある流派の師匠に偏らず、複数の異なる流派、門派の武術家とコンタクトを持っていただけただけでなく、それらを鳥瞰しそれぞれの長所短所を冷静に語れる方とも懇意にしていただけたという点である。
20年近くの間には、修正された見解もあるし、新たな発見やそれに伴う訂正もあったが、その全体を冷静に見渡す姿勢は忘れないようにしたいと思うもののひとつである。
改めるべき点は改め、見直すべき点は見直して、より正確な真実を見極め、それを読者に伝えられればと思う。