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相変わらずしゃべりのプロの言い間違いも増加の一途。
退屈な毎日にささやかな笑いを届けてくれる今日この頃である。
その27 それは地球人じゃない 2006 10 11
妻の親戚のおばさんでそそっかしい人がいて、昔
「○○さんが交通事故でね!頭の肋骨折れちゃったのよ!」
と興奮して話していたそうで。
妻は「頭の肋骨ってなんだ」って思ったそうですが、私は即座に、スタートレッ○のクリンゴ○人を思い浮かべました。いたのか地球に。
蛇足ですが、先日テレビ東京で『マイアミバイス』の再放送を見ていたら
「おれの彼女、低気圧でさ」
みたいなセリフがありました。
そう言えば、機嫌が悪いことを「低気圧」という表現は最近まったく聞かなくなりました。20年以上も昔のドラマはセリフが違うなーと妻に言ったら
「そう言えば「不経済」って単語も聞かないよね」
そう言えばそうだなー。「不○罪」はもっと聞きません。
その26 「全然〜〜ある」は間違いにあらず 2006 05 03
近年、若者の間で「全然〜〜ない」と本来は後ろに否定形を持ってくるべきところを「全然〜〜ある」というように肯定をもって終わる文章が一般化している。
嘆かわしいという意見があちこちで聞かれ、学校の先生などもそういう意見を述べていたりするようで、かく言う私も最初は同感であった。
しかし、ある時、
いや、昔は「全然」を肯定文にも用いた。文豪と言われる作家の文章にも事実その例があり、けして間違いではない、という学者の意見を目にした。
ふーん、そりゃいっぺん見て見たいものだなあと思っていたら思わぬところで目にすることができた。
『永遠の大道』G・カミンズ著/浅野和三郎・訳(潮文社)
の中でである。
この書は、いわゆる霊界について霊媒が語った内容を記したもので、その真偽はさておき、訳者の浅野氏は明治7年生まれ。
東京帝国大学を卒業し(在籍中は英文学をかの小泉八雲について習った)、当時流行だった美文(擬古文)で作品をいくつも書いていたという文才のある人である。
その人の書いた文章に、「全然」の用例があった。
たとえば
「粗雑な情勢などは全然問題にならないのである」
と、今と同様否定で終わるものもある一方、
「そんなものは地上の光景と全然同一である」
と、思い切り肯定で終わっているものもある。
氏は前述のとおり、当時としては一級の教養人である。しかも文学を専門に学んだ人である。
これが単なる筆の誤りとは思えない。おそらく、私が聞いた学者の説のとおり、かつての日本では「全然」が否定肯定どちらの場合にも使われていたのではあるまいか。
というわけで私は今、この用例を耳にしても一切目くじらを立てないことにしている。
その25 テレビが滅ぼした正しい日本語 2006 04 30
軽薄なマスコミが滅ぼしてきた正しい日本語は幾つもあるが、近年その最たるものは
「号泣」と「激怒」
ではないかと私は思う。
本来「号泣」も「激怒」も激しい悲しみや怒りに付随した行動であり、感情表現であった。
泣き叫んだり激しく怒るのが正しい意味であったはず。
それがここ何年も、視聴者の関心を引きたい一心で、些細なことにまでテレビ、マスコミはこの表現の誤用を執拗に繰り返してきた。
「○×さん号泣」とか「△□激怒!」みたいな見出しで、客を釣り、蓋を開ければなんのことはない、ただめそめそしているだけの○×さんとか、ちょっとムッとしただけの△□くんとか、そんな「六尺の大イタチ」みたいな番組ばっかであった。
いつ改まるかと思ったが、おそらく金輪際改まることはあるまい。
これから、単語本来の意味を知らない若者が増えていくのではないか。
マスコミは視聴率のためなら(つまりは金のためなら)文化の破壊などなんとも思っていない。
嘆かわしいことである。
ああ、なんか「爺い放談」みたいになっちゃった(泣
やっぱどうにも歳ですかな〜〜私も;
その24 「しゅみれーしょん」はもはや既成事実か 2006 04 30
これまでも、この「言い間違い」コーナーで二回取り上げてきたシミュレーション(simulation)のいい間違い「しゅみれーしょん」。
もはや現代日本では既成事実になってしまった感が強い。
例えて言うなら、他国の領土に居座って無理やり実効支配を続けている内に、いつの間にかなしくずしに自国の領土にしてしまったような・・・;
なにしろ、テレビのナレーションや会話を聞いていると、きちんと「シミュレーション」と言う人よりも、「シュミレーション」と間違って言う人のほうが圧倒的に多いのである。しかも教養のないタレントとかばかりではなく、科学番組の解説に出てくる有名大学教授とか、世界を股にかけて跳びまわり英語ペラペラの世界的名医とかまでが言っている。
テロップには「シミュレーション」となっているのに、ナレーションは「シュミレーション」と連呼していたり・・
日本人の口には「シミュレーション」と言うよりも「趣味れーしょん」と言う方が、たぶん言いやすいだけの理由ではないかと思うのだが。言えないんなら使うなよそんな単語、とか思う私。
だが大勢はとうに決しているのである。
もはや私のような無名漫画家が何を言おうとゴマメの歯軋り。
以後二度とこの話題には触れぬか、せめて一太刀新聞に投書でもするか。
悩むところであるのである;
その23 敬語の死 2004 12 26
今年のオリンピック報道を見ていて、つくづく思ったのが「敬語は死んだな」ということ。
メダルを獲得した選手のインタビューなどを見ていて
「応援してくれた皆さんが」
などと言っている。
ははあ、こいつは肉体ばかり発達して基礎的教養の無い運動バカかと思っていると、出てくる選手出てくる選手みな異口同音にこの種の発言をする。
「応援してくださった皆さん」
と言っていた選手は一人くらいしか見かけなかった。
もはや例外的な「言い間違い」ではなく、これがスタンダードになっている世代が台頭してきているのだなと痛感した。昔なら選手が一度そういう物言いをしたとしても、後でコーチなどが注意して、その後の会見では直っていたりしたものだと思うが、何度インタビューを受けても変わらないところを見ると、もはや注意する関係者すらいないらしい。
同様の物言いは「言葉のプロ」の側にも広がっていて、報道番組でキャスターがゲストを紹介する際
「○○知事が来てくれました」
などと言ったりする。
無論時にはあえて「タメ口」な物言いをすることで、親しさを増す場合もあるが、原則として他者への敬意は払うのが当然とする私の感覚はもはや過去の常識になりつつあるということか。
昨今はまともな敬語を使えない年寄りも増えていて、若者の手本自体が崩壊しつつあり、あれでは後継者が育たないのも無理は無いかも知れない。
中には「敬語」と言うと、年寄りが若者に(或いは地位が高い者が下の者に)ヨイショされるためのものくらいに誤解している人もいるが、私は年配者が若者相手であっても「敬語」は使われてしかるべきと考える。若者に向かっていきなり見下げた物言いやタメ口で話しかける年寄りは無礼ではないか。
敬語と言えば、ニュースなどにおける皇室関連の報道。
見ていると最近は、文章の最後にしか敬語を使わない。
「天皇陛下は、○○を見たあと、どこそこへ行かれました」
などと言っている。
「見たあと」
じゃなくて
「ご覧になったあと」
だろが。
例えて言うと
「△■先生はご飯を食って、お休みになりました」
とか言うのと同じ無茶苦茶さである。国語のテストなら減点ではないか。
皇室報道ではこの種の言い方は昔なら「始末書」モノの言い間違いだったのではないか(もっと昔なら「不敬罪」か?)と思うが、あちこちのニュースで軒並みやっているところを見ると、もはやどこからもクレームもつかないのだろう。
もしかすると、敬語は文章の最後だけに使うという横並びの取り決めでもあるのかもしれない。
そう言えば驚くべき話を聞いたことがある。
知り合いの子供が、学校で友達にはタメ口、先生には敬語を使っていたら、知り合いが先生から
「おたくのお子さんは陰日なたがありますね」
と言われた。
「友達相手と先生相手とで言葉遣いが違います」
・・・・・・・・。
そ、その教師は本当に教育者なのか?それとも近ごろは指導要領が変わったのか???
この分では、我々の世代が「そうろう文」が書けないのと同じように、世の中から敬語が絶滅し、「古文」の一種となる日もそう遠くないのではあるまいか。
その22 今風の話し方二点 2004 06 11
言い間違いとは少し異なるが、ジャンル上ここに入れる。
先ごろ亡くなられたわが国国語学の巨星、金田一春彦氏を偲ぶ番組が2004年5月23日NHK教育であった。
画面は見ずに(と言うより原稿にかかりっきりで見ていられない)音声だけ聞きながら私は仕事をしていたのだが、ふと面白い話を聞いた。
晩年の金田一氏のインタビューの中で、今時の「ら」抜き言葉(見られる>見れる)をどう思うかと問われ、あながち否定すべきことではないと言った意味のことを言っておられた。そもそも言葉は時と共に変わるものであるし、何より、正しいとされる「見られる」という「ら」付きの言い方だと、「ご覧になる」といった意味の「尊敬」の「見られる」なのか「誰かに見られる」というような場合の「受身」の「見られる」なのか「見ることが出来る」という「可能」の「見られる」なのかわからない(わかりにくい)。
しかし「見れる」と言うと「見ることができる」という意味以外に間違いようがない。
そもそも「書ける」という言い方だって昔は「書かれる」と言ったものであり、関西の人の「書かれへん」といった言い方はその名残である。
とか。
また昨今の平板な言い方。なんでも抑揚のない言い方にしてしまうことも、昔からあったことだとか。
外国から入ってきた品物などが「価値のある」内は抑揚をつけて言うが、それが普通のものになると平板な言い方に変わってくる。例えば「ピアノ」のことを昔は「ピアノ」とアクセントをつけて言っていた。ピアノがまだ高級な特別なものであった頃のことである(そう言えば私・山本もそういう言い方をしていた時代が幼少時かすかに記憶にある)。
たぶん「バケツ」なども日本に入ってきた最初の頃はもっと抑揚をつけて発音していたのではないかと。
さすが碩学の言われることには含蓄がある。
別に権威主義的に「えらい先生の言っていたことだから」納得したわけではなく、なるほどもっともだと思えたのである。後者のなんでも平板に「カレシ」とか言う言い方は、いまいち肌に合わないが(例:「えなじー」は「えなじー」が正しいアクセントだろーがよ!)前者の「ら」抜き言葉は、その方がかえって意図が明確に伝わるという実にメウロコな有用性を教えられ、従来は反対の立場であった私であるが、逆に推進派に回る決心をさせられた。
老いても客観的で柔軟な思考を忘れなかった氏の生き方にも教えられるものがあった。ご冥福をお祈りします。
補足 上記の「見られる」は、私の記憶で書いたもので金田一先生が上げられていた例とは異なるかもしれません(「話される」とか「来られる」とか別の単語だったかも。何しろ録画して確認したわけでもなく仕事中一度聞いただけなもので)いや、おそらく異なるでしょう(汗)。ただ大意はこのとおりだったと思ってください。先生の名誉のため補足いたします。
BBSのお客様のご指摘で気づいたのですが「見られる」とは普通言いませんね尊敬表現として(私が言う場合でも「ご覧になる」を使います)。仕事明けのボケた頭でツメの甘い記事をアップしてしまい面目ありません。(ってまだボケたままですが);これからは「休日」を挟んで更新しよう・・・;とほほ。
その21 重複表現 2003 01 18
文章は原則としてすでに提示されている情報を無意味に重ねて語らないものである。
例えば
「美しい美女」
とは言わない。「美女」に「美しい」という意味が含まれているからだ。
この失敗を表す端的な例として、若い頃知り合いの編集さんから聞いたものに
「いにしえの昔ある武士の侍が馬から落ちて落馬して腹かき切って切腹した」
というのがある。
言い得て妙である(笑)。
で。
テレビのアナウンサーなども最近このミスを犯すようになってきた。
先日イヌアッチイケーのニュースの中で、女性が暴漢に
「後ろから羽交い絞めにされて」
と言っていた。羽交い絞めというのは後ろからするもので、前からやる方法があったら教えて欲しい。天下のイヌアッチイケーからしてこのていたらくである。いわんや民放をや。
かくて「言葉」は乱れていく。