最終更新 2006年8月14日
-はじめに-
これは、私が日々考えたり見聞したりした、精神的な問題、物理的でない問題に関してのメモページです。
元々子供の頃からそういうことを考えるのが好きで、大学も哲学科の心理学専修でした(デカンショにはほとんど興味が持てませんでしたが)(笑)。別に何か悪いものでも食べて急に回心したとかではないので、誤解なさらないでください。私は子供の頃から今に至るまで、ずっとそうです。
ジャンルの関係上、時には形而上的な話題にも言及せざるを得ないのですが、最初にお断りしておきますが、私はいかなる宗教も信奉してはいません。
以前俳優の中井貴一さんだったと思うのですが、「自分は無宗教の有神論者です」とおっしゃってましたが、まあそういったタイプです。と言っても特定の宗教の神様を信じてご利益を願っているとかいう意味ではありません。
見えざる無形の存在に日々感謝して暮らしているだけですので、何かの宗派の勧誘や神学論争には一切加わる気がありませんのであしからずご了承ください。
話の中に、何かの聖典の引用(例えば聖書とか仏典とか)が出てくる場合もありますが、それは私がたまたまその言葉に共感したからで、その聖典を使用している特定の宗教とは関係がありません。
有名な聖人の言葉だからとか、有力な宗派の言葉だからという、短絡的な権威主義で引用するものではなく(いくら有名だろうと有力だろうと共感しないものはしないわけで)、私が同様に感じたことが、自分のオリジナルでなく、世界にはとっくに存在していた場合(まあたいがいはそうなのですが)より良く判りやすい表現を書いたほうが良いと思うからです。
唯物主義の方にせよ何か信仰をお持ちの方にせよ、私はその方々の思想信条を尊重します。
私が何を思ったからといって、他の方々にその考えを押しつけたり他の方々を非難したりするものではけしてありませんので、どうかくれぐれも誤解なさらないでください。
また、当然ですが私は不完全な人間ですから、自分の考えが絶対正しいなどとは思っていません。ここに書いたことはあくまで長い人生の七転び八起き七転八倒、試行錯誤のプロセスの一つです。昨日と今日は違うかも知れません。今日と明日も違うかも知れません。そこでタイトルも「備忘録(メモ)」といたしました。
補足
聴魂備忘録というタイトルですが、武術に興味のおありの方はご存知かと思いますが、「聴勁(ちょうけい)」というのがあります。
敵と接触した部分(たとえば相手の攻撃を受け止めた腕の接触点とか)の感覚を鋭敏にして、相手が次にどう動くかを瞬時に把握する(そして対応する)わけです。
これができるようになると、たとえば映画『マトリック○』で主人公が両腕でアタックしてくる敵を片手で受けて、相手を見もしないで動きを読んでさばき反撃するとかいう、ああいったマネが実際できるようになるわけです(映画はいわゆる「早回し」でしたが)(笑)。
これは机上の空論ではなくて、私も実際に武術家さん相手に、打ち合わせ抜きで試させていただいて実見しております(師匠と弟子同士だと「やらせ」の可能性もありますが)。
と言うか、まあある程度心得のある方には常識的な現象なわけで、「聴勁(ちょうけい)」という言葉自体は中国のものですが、日本の剣術などでも、刃と刃が接触したところから、相手の動きを読んで機先を制することは達人ならばみんなできるわけで、その一つと言えるでしょう。
これには、自分の体に力みがあっては、相手の微かな動きを「聴き取れ」ないわけで、いかに己を虚しゅうするかが成否をわけます。
虚しゅうすると言っても、ただうつろになってボケーッとしてたら、やられるだけで、己の心身は不動に(ただし「居つかず」)保ちつつ、無用の力や思い込みを抜くわけです。
本当に全身から力を抜いたら、糸の切れた人形よろしく地面に横たわってしまいますから、その辺のバランスと言うか中道を行くことが大切なのは、別に武術などなさらなくともスポーツの「リラックス」などからも、想像できることと思います。
で、話は戻りますが、
この感覚は己の心や魂と向かい合う時にも、非常に大切なのではないかと。
拙著『セイバーキャッツ』に
「魂は嘘をつかない」
というセリフがあります。
あれは実は私のつまのセリフなんですが(笑)、魂の外側を覆う「心」は時々刻々あらゆる刺激に反応し、喜怒哀楽に流されて変化します。しかしその根本の魂(そういう表現がお嫌なかたは「超自我」とか「理性」とかに置き換えて解釈していただいてもけっこうです)は嘘をつかない。
魂の声を遮っているのは、人の心であり「小我」だと思います。
心理学ではともすると、人の奥にはダークな衝動が蠢いていて(大脳生理学などでもそうですね。この辺は爬虫類の脳、とか)、人間など皆一皮むけばケダモノだ、みたいな面ばかりが強調されます(そういう意味のことを描いた娯楽作品も多数あります)が、実は、人間は自分の奥底でネガティブなものへの扉とポジティブなものへの扉と、いずれにもアクセスできる。
前者へのコンタクトは、心が荒れ狂っていてもた易いのですが(と言うよりそういう時にこそたどり着いてしまうと言うべきか)後者へのコンタクトは、心の嵐を静めて、穏やかに魂の囁きに耳を澄まさねばなりません。
それは「魂の聴勁」とも言うべきものでしょう。
なかなかそういう境地にいつもなれるわけではありませんが、そこを目指して歩んでいます。