こんなことを見た

(このページの記事は上に行くほど新しい内容です)


その10 祖父と狸(日本昔ばなし風)  2006 08 10

 夏も盛りになってきて、テレビでは怪談番組花盛りです。
 私は幼い頃祖父母から色々お話をしてもらいましたが、怪談ってのはほとんど記憶にありません。
 それよりもむしろ、水木先生ののんのん婆と言うか、民話や日本昔話みたいなノリのものが多かったように思います。
 昔の日本では、狐や狸が化かすというのが定説でしたよね。

 祖父が生前語ったエピソードで今でも記憶に残っているのが

 ある日、祖父が山道を歩いていると、いつも片方に見える山が両側に同じように見える。
 山のドッペるさんとでも言うのでしょうか。
 ははあ、これは狸かなんかが化かしておるな、と思って歩いていると、向こうからものすごく背の高い坊さんが歩いてくる。2メートル近いような背丈です。
 狸め、ふざけやがってと思った祖父は、近づいてきた坊さんを
 「こらああ!!」
 と一喝。
 すると、一瞬にして姿かき消え、山もいつもどおりの形に戻ったとか。

 この話はその場のでまかせではなくて、祖父の定番体験記になっていまして、幼かった私は何度か同じ内容を聞かされました。
 楽しい話だったので、私にとっては年寄りの繰言というような感じではなく、聞かされるたびに喜んでいたように思います。

 内容の真偽はともかく、そういう話が違和感なく存在できた自然の残っていた、昭和の故郷が懐かしいです(遠い目♪


その9  怪談?  2006 07 26

 夏と言えば怪談ですが、私が母から聞いた話です。
 怪談と言うと普通は幽霊話ですが、これはむしろ妖怪です。いやサイキックと言うべきか。
 母が思い出してメモしといてくれたものを丸写ししてます。

 「作ったばかりのお寿司が腐る。変。なぜ?

 玄関に誰か来た。
 「ごめんくださいませ」
 出てみると多少知り合いだったBさんだった。
 たいした用もなく、すぐに帰られる。
 「さあ、食べましょう!」
 と、今造ったばかりのお寿司を、お皿に盛ろうとすると、おじやみたいになっている。どんなに驚いてみても何故だか判らない。
 不思議に思って後日、親友に話したら
 「もしかしてBさんが来なかった?
 あの人が来たら、少しでいいからあげること。
 お寿司は特に匂いが強いからはっきり判るでしょう?
 あの人が来たときは造ってるものをあげないと、すぐ腐るのよ。早く教えておけば良かったわね。
 あまりお付き合いのない人だからまさか来るとは思わなかったわ」

 以上、母が体験した話か、祖母の体験談か、不明です。今度聞いてみますね。


その8 暴走族  2006 05 03

 編集さんとの打ち合わせに行くため、バス停でバスを待っていると珍しく暴走族を見ました。
 この町に住んで20年近くになりますが、これだけの規模を肉眼で見たのは初めてです。
 晴れた日の真昼間、おでかけに備えて磨き上げたピカピカの改造バイクが100台近く
 うぉんぼぼうぉんぼぼばおばおぶおおおおお
 とか言いながら次々走っていきます。
 側面に付けられたビートのパーツは今も昔も変わりません。
 ああ、今日は天気もいいし祭日だし、みんなで遠出なんだなあ。
 オレも族でこそなかったけれど、免許取立ての若いころには交通法規無視してかっ飛んでたっけなあ。この若者達を責める資格はオレにはないなあ、などと思いながら、でもちょっとこの排気ガスは辛いものがあるなあと思って見ていると、ふとバイクの流れが途切れ、最後尾が後ろを振り返っています。
 つられて私もそっちを見ると、交差点が赤信号で、青信号側の横断歩道を二人連れのおばさんがよちよちと渡っていきます。
 その手前で族のバイク数台が、うぉんうぉんとエンジンをふかしつつ、なんと行儀よく待っています。
 えらい!えらいよみんな。ちゃんと歩行者優先してるよ!
 するとバイクの群れは信号が青になるまできちんと待機。
 法規を守って再発進していきました。
 なにやら微笑ましい春の日でした。

 彼らもほかの人も誰も傷つきませんように、と私は祈って、来たバスに乗ってでかけました。


その7 禍福はあざなえる縄の如し  2006 03 27

 と申します。
 先日某テレビ番組で、右手をほとんど指1個と少し残して無くした職人さんの話をやってました。
 その方は、事故後左手で飯を食おうとして試行錯誤したけどお箸は満足にモノが掴めない、ホークで刺身を食べてもうまくない。自分はまともにメシも食えなくなったのか悲しくなって、不自由な右手でも使える特殊なホルダー付きのお箸を開発しようと思い立ったのだそうです。
 でいろんなメーカーや福祉関係の事務所にかけあったけど、どこも相手にしてくれなくて仕方ないので2年がかりで自分で作っちゃった。
 今ではそういう障害をかかえた人たちの助けになるような製品を作る会社を運営しておられるというお話でした。
 すばらしいことです!

 で、見ててふと思ったんですが・・・
 左手で箸使えませんか・・??
 いきなりやってみたんですが、そりゃ右手に比べれば不器用ですが、とりあえず豆でも豆腐でもなんでもつまめます私。重いインクビンとかをつまみあげることもできます。
 ぶっつけでこれなら、何日か訓練すれば漫画こそ右手ほど器用には描けないでしょうが(そら無理だ)食事には不自由なくなると思います(蛇足ですが左手でも、その辺の人よりすっとうまく絵は描けます)(バカ)。
 ちなみに昔お知り合いだった武術家さんから伺った話で、左手も利き手と同じように操れるようにする訓練の一端で、左手で食事するという修行がありました。使えるようにならないと飯が食えないので嫌でも上達するそうです。

 それはともかく。
 思ったんですが、上記の職人さんはある意味で、左手がそんな器用じゃない方だったんでしょうね、きっと。
 で、その時は「なんでこんな苦労しなきゃならないんだ」と絶望や悲しみ、怒りに苦しまれたことでしょうが、結果的にはそれが発明の母となり、自分だけでなく多くの障害を持つ方々のお役にも立つことになった。
 ものごとは目先の良し悪しがすべてじゃないなと、理屈ではわかっていますが、こういう実例を見せられると改めてその意を強くいたします♪


その6  I山と祖母  2004 08 03

 私が見た話ではなく私の祖母の体験談である。

 祖母は二十数年前私が大学入試に上京している間に急死した。今生きていればとうに100歳は越える。そういう時代の人である。優しかった面影が今でも偲ばれ、なんの「おばあちゃん孝行」もできなかったことが中年になった今でも悔やまれてならない。いや私の一生の悔いである。
 今日はその祖母が幼い私にしてくれた思い出話である。少しオカルトめいているが怖い話ではない。

 祖母は若い頃バセド○氏病を患った。喉の辺りが腫れて目が飛び出したように見えてくる病気である(乱暴な解説でごめんなさい。あくまでそれはこの病気の一側面です)。昔のこととて良い治療法もなく、とほうにくれていたとき、祖母の弟がある山岳信仰の神様がご利益があると言うので行こうと言い出した。有名なI山と言えば、ははあと思われる方もおられよう。
 祖母が言うには、そこの神様は女がお嫌いで、その当時はやっと女性の参拝も許されるようにはなっていたが、あまり気乗りがしなかった。それでも弟に強く勧められ、しぶしぶ行く事になった。

 果たして山のふもとであったか神社の境内であったか、聞いた私が記憶定かならず(30年以上前のこととてご容赦を)ともかく到着し、弟が少し用事をしに席を外して祖母が一人で座っていた。
 と、突然、何か見えない手で腫れた喉のあたりをさああっとなでられ、驚いた祖母は叫び声を上げた。
 あわてて駆けつけた弟に、ああ、やっぱりくるのではなかった、あんたが行こうというので仕方なく来たけれど、やっぱりこちらの神様は女がお嫌いなのだ。私のような者がお参りするべきではなかったのだと祖母は言い、参拝もすることなくそのままI山をあとにした。

 ところがである。
 問題のバセド○氏病が、それっきり治ってしまった。
 なにがどういうわけだったのかはわからない。これを書いている私にも無論わからない。
 現代科学で解釈すれば、そもそも昔のこととて診断自体が誤りであったという解釈もあろう。強烈なプラシーボ効果というのは無理があろうか。
 私自身は特定の信仰は持たないが、けして神仏を否定はしない立場である。
 ただ、今言ったI山へは言ったこともないし無論特別の信仰もない。祖母からそういうことを勧められたこともない。祖母がその後どういうスタンスでそのI山の山岳信仰を見ていたのか、亡くなった今となっては知る由もないのだが、そういう不思議な話があったということを、ここに記す。


その5  真夏の出来事  2003 11 03

 グロい話である。
 私の見聞したことではなく私の知り合いの漫画家さんが出会った事件。お食事中或いはこれから食べようという方はお読みにならないでください。
 
 ある夏の日のこと、仕事場にしているアパート(二階建ての一階)にやってきてドアを開けると、なんだか魚が腐ったようなものすごい臭気が立ち込めている。その原因が判らない。
 よおく見ると、ちっちゃーな黒っぽい滴のようなものが仕事机にぽつんと落ちている。臭いの元はそれらしい。なんだかなーと思いながら掃除して窓を開けたり換気に努めた。
 しかしイマイチ臭いがとれない。

 変だなと思っているとまた2、3日して同じことが起こった。またすごい臭気と滴。上から落ちてきたのかと天井を見てもこれといって変化は見えない。しかしどうも上が怪しい。
 もしやと思って二階に行くと、真上の部屋は真っ暗である。留守なのか?しかし。そのまま引き上げるのも、とダメ元でその隣の部屋をノックする。住人が出てきて言うことには
 「いやー、ここ何日かすごい臭いでねー。うちもほとほと困ってるんですよ」
 「隣の人はどうしたんです?」
 「ああ、あのお爺さんここしばらく姿を見ないねえ」
 こ・・・これはもしや。
 いや、きっと間違いない。
 管理人と警察を呼んだ。

 やってきた管理人は型どおりノックするが返事は無い。警官立会いのもとドアを開けた。
 真っ暗な室内が見えると同時にドンと個体のような臭気の塊が一同の鼻を打った。
 腐っている。これは絶対腐っている。
 警官2、3人が入っていく。
 「わー死んでる死んでる。こりゃダメだー」
 「汁踏んじゃったよおれー」
 すごい会話が聞こえてくる。
 住人の老人は中で果てていてすでに何日かが経過していたのであった。
 床に腐った血や体液が広がり、階下の仕事場まで滴っていたのだ。こういうシーンとなると映画やテレビドラマでは天井に赤い血のシミが、となるところなのだが、事実は小説よりも奇なり。知り合いの漫画家氏の部屋では一見なんの変化も(天井には)なかったという。わずかな羽目板の隙間から漏れてきたのだ。

 その後押し入れの中にウジが落ちているのも発見された。
 漫画家氏の仕事場は清掃担当の人がやってきてクレンザ○だかなんだかで始末をつけていったそうだが、件の老人の部屋は色々と大変だったらしい。片付けの途中を垣間見たところ、なにか黒々とした柱のようなものを運び出していくのでなんだと思ったら、血と体液が染み込んだ敷居だったという。
 管理人氏は
 「おれ死人の出た部屋これで二回目なんだよー」
 と嘆いていたと言う。
 老人の隣人は引越しを考えると言っていたそうだ。

 色々な知り合いがいるが、これだけ身近にこういった事件に遭遇した人は他にいない。身寄りの無い老人、一人暮らしの老人が借家を探すのに苦労するとは話に聞くが、なるほどなあと思ったものである。


その4  カゴの鳥  2003 03 31

 数日前そぼ降る雨の中散歩してたら、ほころび始めた桜の花を目にしてうれしくなった。
 のもつかの間。
 ある家の前を通りかかると裏手に金網の中に入ったウサギが一匹。
 日本の狭い住宅事情を「ウサギ小屋」などと言うとおり、確かに狭いモノなのかも知れないがそれにしても狭い。ほとんどウサギと変わらぬサイズ。中でできる事と言ったらせいぜい向きを変えることくらいだろう。

 これはもう飼育という名の虐待である。雨の降る中じっと身じろぎもせず寒そうにしている(いや温度に関しては本人に訊いて見ないとわからないが)ウサギが哀れで、せっかくの散歩がすっかりブルーになってしまった。
 おそらく「夜店のヒヨコ」モードで、飼い始めの時はちっちゃくて十分動けるサイズだったのであろう。それが大きくなっても元のままの金網小屋に入れている。新調してやれよ飼い主。
 ウサギが将来大きくなるかもという想像力とそれに応じた小屋の改築をする能力のないやつは飼うなー!と心中叫んでしまった。

 実は以前もこれに似たものを見た。
 平塚にあるあるカツ屋。
 カツ自体は悪くないのだが、店内に水槽があってぎちぎちのサイズのカミツキガメ(甲羅が数十センチはある)が入れられている。動き回る余裕などまるでなく時々水面に首を伸ばしたり体の向きを変えるのが精一杯。窮屈そうなカメが哀れで、やっぱり無性に悲しくなってせっかくのメシがマズくなった。

 ペットはモノじゃないのに(法律ではモノだけど)。
 日々の散歩にも連れて行ってもらえず自転車のように放置された犬とか(真夏炎天下戸外につながれて熱射病寸前のシベリアンハスキーとか)見てると泣けてくるのである。
 最低限ペットが快適に暮らせる環境を整えてやる金と暇のない人間はペットを飼うなと私は言いたい。金持ちが言うと嫌味かも知れないが貧乏人の私が言うのである。こんなふうに飼われたら自分がペットだったらどんなだろう、というイマジネーションのない奴。許せねえ・・・って思ってるだけで何も出来ないけど(泣笑)。


その3  ある訃報に思う  (この項2003年3月30日の日記より転載)

 BBSにおいでくださるお客様のY氏から丁寧なメールをいただいた。
 私の劇画村塾(昔『子連れ狼』などの原作者である小池一夫氏が開いていた劇画塾。第一期は1977年。私や狩撫麻礼氏、さくまあきら氏、高橋留美子氏などが塾生にいた)の後輩に当たる漫画家さん(33歳!)が肺癌で亡くなられたとの報。
 以前BBSで、山本さんの後輩に当たる人が友達にいて漫画家やってるんですが今病気で休業中で、とはカキコしてくださった事があったのだが、それから一月もたたない内に訃報である。

 寂しいことである。
 きっと随分と苦しいこと辛いこと(肉体的にも精神的にも)悔しいこと心残りなこと、その他もろもろおありだっただろう。今はただ安らかにと、そのご冥福をお祈りするばかりである。私はとうとう一度もお会いすることも御作を拝見することもなかったが(何しろお名前すら存じ上げないのだ)なにやら他人事とは思えない。

 そもそも私はペシミスティックな人間で、若い頃から、ある種の無常観を抱いて生きてきた。
 人の命など「ひとえに風の前の塵に同じ」。
 自分の偉業を後世に残そうと想像を絶する金や手間ひまをかけた古代の王やら皇帝やらも、悠久の時の流れの前にはひとたまりもなく記憶の彼方へと消え去ってゆく。始皇帝の肖像画などというものは残っていても、では実際どういう人物だったかなど、知る者などはとっくにいない。わずかに歴史書の中にその断片が記されているのみである。
 まして自分など、本当に塵にも等しい。吹けば飛ぶような無価値な生き物であり、世界にとって、他の人々にとってはいてもいなくてもいい存在だ。かろうじて漫画家として生きてはいるが、それとても読者にとっては人生の「必須栄養素」などではなく、いくらでも代替品の手に入る「おやつ」のようなものである。
 それでも私に出来る唯一のことであるから、死がこの身に訪れるまでは精一杯やろう。精一杯描こう。そう思ってやってきた。

 故・黒澤明監督の映画に『生きる』というのがある。
 のんべんだらりと日々を送ってきた名もない小役人の主人公が、手遅れの胃癌に冒され、人生が変わる話である。
 あの主人公にも似た気持ち、と言ったら大げさだが、その十分の一、いやせめて二十分の一くらいの気持ちで、私は日々を送ってきた。

 朝起きて(時には夜だったりもするが)玄関を開ける。
 肌が外気を感じ、太陽が星がこの目に映る。
 なんでもないその事がかけがえのない事であり、二度とない一瞬であると、いつも思って生きてきた。自分の足で歩き、誰の手も借りずにクソをして自分の手と紙でケツを拭ける幸せを、いつも天に感謝する。こんな事は今だけなのだ。永遠にはけして続かないのだ。そう思って生きている。
 よく物語やエッセイで「自分がその立場に(事故や病気)なって初めてわかった」などという記述があるが、そんなものそこまでならずとも良く判る。だいたい寝てなんのトラブルもなくまた目が覚めること自体、一つの奇跡のようなものなのだ。

 いい案が思い浮かばないときもあれば、体調が悪いときもある。
 結果的に納得いかないことは多々あるが(いや、満足な出来などないのだが)後悔のないよう日々生きたい。私にとって生きるとは漫画を描くことである。死がこの身を訪れるまでは、悔いのないよう描き続けたい。この世に対して私に出来る唯一のご奉公である。

 拙い「あつじ屋」サイトのおかげで、本来お会いすることもかなわぬ多くの方々とご縁ができた。これも一種の奇跡みたいなものだと感謝している。
 明日は誰にもわからない。
 遠く旅立たれた某氏の黄泉路の平安をお祈りするとともに、これをお読みくださっているまだ生ある皆さまの、心体健康をお祈りする。なんか硬い話になってしまったが、お客様からいただいた一通のメールに、改めてそんなことを記しておきたくなった。今日が無事運びますように。より良い明日へつながりますように。御身の上に平安を。


その2  ヘンリー・ダーガー展 (この項2003年1月24日の日記より転載)

 渋谷のワタリウム美術館へヘンリー・ダーガー(1892〜1973)展を見に行く。
 19歳から亡くなる日まで執筆を続けた究極の一人同人誌。
 パンフの文章を引用すると

 「1973年、シカゴ、身寄りのない81歳の老人が息を引き取った。彼が40年来住んでいたアパートの部屋には訪ねてくる人もいなかったという。アパートの大家は、老人の遺品を処分しようと、この雑然とした部屋に足を踏み入れ、大変なものを発見する。タイプライターで清書された1万5145ページの戦争物語『非現実の王国で』とそのために描かれた300点余の大判の挿絵だった」

 はっきり言って画才はない。
 へったくそなシロウト画である。仕上げアシスタントにさえ雇う気は起こらない。しかしそこに込められた情念は半端じゃない。もう少しパンフを引用する。少々長くなるが私が別の言葉で説明するよりは話が早い。

 「この物語の正式なタイトルは、『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデリコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』である。物語の中に登場する「グランデリニア」と呼ばれる国は、子ども奴隷を苦しめる極悪国家。もう一方の「アビエニア」は、敬虔なカソリックの慈愛に満ちた国だが、自由のために「グランデリニア」と戦争を始めてしまう。全編を通して主題となっているのは、この二つの国を中心に4年7ヶ月に渡り続けられた恐ろしい戦争である。
 物語のヒロインは、「アビエニア」を率いる可愛らしい少女戦士、ヴィヴィアン姉妹である。何度となく敵に捕まえられ拷問を受け、死刑宣告を下されるが、彼女たちはどんな厳しい状況からも危機一髪で抜け出し、最後には、見渡す限りの子どもの死骸のなかで勝利を収める」

 「イッちゃってる爺さん」である。
 誰に見せるでもなく、ただただ自分のために60年以上に渡り、この物語を書き&描き続けたその情念はしかし、この私には他人事ではない。
 なにしろ、戦う美女がとことんな目に合って合って合って最後に勝利する物語がライフワークと言ってもいい山本貴嗣にとってはだ。
 展覧会には、その小説の内容はほとんど紹介されていない。わずかな断片が添えられているに過ぎない。見るべきはその挿絵。一枚が広げた新聞ほどもあろうか。全てはロングでとらえられ、複数の少女(大半は裸体でありまた多くは両性具有として描かれる)たちの受難と戦いの様が延々と並んでいる。作者のダーガーは中でも「首を絞められる少女」に多くの情熱を傾け、その場面が繰り返し繰り返し登場する。
 ネット上の同人サイトと同じ長所と短所が見受けられ、ある意味ではプロをも唸らせる輝きを持ちながら、一方ではある一定の自己満足でストップするため退屈なマンネリズム(踏み込みの甘さ、工夫の足りなさ。おいおいここで終わりかよ、みたいな)に陥っている所もまたある。それを責めるつもりはない。彼はこれをコマーシャリズム、他者へのエンターテインメントとは無縁のところで描いていたのだから。
 見つめた闇の深さと濃さは私などとうてい及ぶものではないが、遥か異国の地でわずかに同じ時代を生きた、もしかしたら自分も似たような道を歩んでいたかもしれない故人を思い、私は様々思うところがあった。

 ヘンリー・ダーガー展
 7人の少女戦士。ヴィヴィアン・ガールズの物語
  ワタリウム美術館(渋谷区神宮前3−7−6 月曜休館)で4月6日まで開催中

蛇足 
 新聞大の画面に展開されたコラージュの兵隊の大軍勢を見て私は思った。ああ、もう四半世紀遅ければ、この人はきっとPCとフォトショップを使っていたに違いない、と。


その1 トンボと老婦人
 2002年9月末。
 某私鉄の車内にて。
 電車は駅に止まっていた。知り合いの作家から送られた文庫本、修羅場で読めずにいた一冊を読みながら、目的地への到着を待っていた私は、いきなりの虫の羽音に驚いた。
 ぶぶうぶぶぶ。
 見ると10センチはあろうかと思われるトンボが一匹、すぐそばの窓ガラスに身を寄せている。外に出ようともがいている。
 停車した電車のドアから紛れ込んだのだろう。
 そばにいる若いアベックはこわごわと後ろを振り返り、早くどこかに行ってくれないかと言いたげである。
 どうしたものかと思った時、アベックの向こうに座っていた60代半ばから70代半ばと思われる老婦人が腰を浮かし
 「これは出してやろうねえ」
 無造作に手を伸ばしてトンボをつかんだ。一瞬の早業で、そのまま席を立ち、ドアまで行くと空に向かって手を開いた。
 何事もなかったように席に戻ると、ドアは閉まり、電車はごとごと動き始めた。
 アベックも車内のほかの人々も、すべては何事もなかったように。

 私は拍手したかった。
 心の中で拍手した。
 いろんなものが詰まっていた。
 考えすぎと笑われるかも知れないが、そのわずかな一場面に、新しいものと古いもの、何十年という時の流れが崖っぷちに露出した地層のように、すっぱりと切り分けたケーキの断面のように見えているような気がした。
 老婦人と私、若いアベックと私の間には、それぞれ20〜25年くらいずつの年齢差があったろう。
 祖母と子、孫というくらいの。
 若いアベックにとって、紛れ込んだトンボの暴れるさまは、ゴキブリとは言わないまでも、いささかグロテスクな恐怖の対象として映っていたように思う。
 私は、昭和34年生まれの私は、やはり少しばかり気味が悪かった。
 子供の頃、田舎の川岸をびっしり埋める黒い羽の小型のトンボは、良く素手でつまんだが、大型で力強いヤンマの類は、子供心に畏怖したものだ。いや、同世代でもなんとも思わなかった者も多いだろう。私は小心者だった。
 老婦人は、そんな私よりもはるかに、自然が満ち満ちていた時代の人間である。
 おそらくトンボをつかんで放す(殺さないように傷つけないように加減して、しかも逃げないように素早く)ことが、なんでもなかった世代。
 この三者の間に横たわる数十年の時、けして戻らないその歳月、失った多くのものを思って、心中いささか涙を流した。


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