2006年5月29日 更新
高島野十郎という人をご存知でしょうか。
以前テレビ東京の鑑定団に作品が出て、それがきっかけで興味をひかれた方もおいででしょう。
私は先日同局の番組「美の巨人たち」で、その人となりと作品を見て感動したクチです。
ひとことで言って「孤高の天才」。
絵はいわゆる写実画なんですが、見た途端、その対象の外側だけでなく、その向こうにある本質、実在、生命の息吹のようなものまでも再現したような鋭く澄み切った作風に魂をわしづかみにされました。
己を虚しゅうして徹底して対象を捉えることで、その対象のすべてを描ききろうとする。それが結果的に高島画伯の人となりを浮かび上がらせもする。この一見相矛盾する二つの要素が一枚の絵の中に存在しているようです(世の中の真実というのはえてしてそういうものだと思いますが)。
見ていて涙があふれてきました。
なんだこりゃ?
こんな画家がいたのか。
この人の目には(肉体的な目だけでなく心眼には)いったいどれほどのものが見えていたのか。
一応絵を描く人間の末席を汚している自分としては、戦慄するものがありました。
人物画は少なく、そのほとんどは風景、静物画です。
青黒い夜空にぽんと置かれただけの満月の絵。
たったそれだけの絵なのに胸に迫ってくるのです。まるで「祈り」のような絵です。それも、何か欲望の混じったぎらぎらの祈りではなく、真実の高みに至ろうとする強く静かな祈りです。
はんぱじゃないと思いました。
さっそくネットで検索しました。
あ、展覧会が・・・わー!あったけど遠くて行けない、しかも終わってるー;
http://fpmahs1.fpart-unet.ocn.ne.jp/cont_j/topics/topics_det2_8.php?TOPICS_ID=59
あっ、でも図録(『没後30年 高島野十郎展』朝日新聞社刊)があるぞ。やったあ!!
さっそく取り寄せて見ました。
感動。涙ぼうだ。
想像以上の人でした。
生涯のあらましはテレビの番組でも見て知っていましたが、深く仏教に心酔していた方だったんですね。
画伯に関する記述を同図録から幾つか引用します。
「ときには、彼は作品に仏教的な意味づけを与えたりもしている。たとえば月とは慈悲へ至るために穿たれた天の穴だと解釈していた。この「慈悲」という言葉は、彼の仏教的な考えのなかで特別な位置を占めていたようで、たびたびこの言葉を口にして物事を解釈していたという」
画伯曰く
「写実の極致、やるせない人間の息づき それを慈悲といふ」
「全宇宙を一握する、是れ写実/全宇宙を一口に飲む、是写実」
「天体までのきより(論者注:距離)は言語を絶する/眼前の一尺のきよりも又然り」
これは・・・もう求道者ですね;
この人にとっては執筆は一種の行だったのではないでしょうか。
画伯の言う「慈悲」は、西洋で言う「アガペー」にも通じるように思います。だからここまで胸を打つのではないかと。
同図録の中で川崎浹という人がこのように書いておられます。
いささか長くなりますが引用します。
「画家が独学なので「遠近法を知らない」と初歩的な批判をくわえた人さえいる。私の友人で「絵に迫力がない」と評する者もいた。だが高島さんのメモ帳にはこうある。「芸術は深さとか強さとかを取るべきではない、<諦>である」また「冥度(土?)への一路とは、芸術の真諦」(疑問符は川崎)ともある。諦(てい)とは明らかにする、見るという意味で、真諦とは真理のことである。野十郎の「諦」とはかれの世界観とも重なるもので、私が数言で説明できるものではない。
美術や骨董品の目利きだったある教授は「高島さんの絵は細部にこだわりすぎる」と評した。これも野十郎のメモ帳をめくると「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事。神と見る事・・・それは洋人キリスト者には不可能」とある。キリスト教の世界は神→キリスト→人間→動物の階層によって成立しているので、アッシジの聖フランシスコのような例外を除けば高島さんの言っていることは、そのとおりだと思う」
画伯は生涯に渡って幾つもの蝋燭の絵を描きました。
画面に一本の短い燃える蝋燭が描かれています。
落語の「死神」ではないですが、まるで人の「いのち」のようです。
1890年福岡に生まれ1975年85歳で亡くなるまで、風景を描き、月を描き、太陽を描き、闇さえも描き、そしてその向こうにあるものを描こうとして、一生を名誉も栄光も無関係に生きた天才画家。
こういう人物に死後きちんとスポットが当たり、作品と人となりが知られるようになったことは、世の中まだ捨てたもんじゃないなと思います。
来月(2006年6月)には三鷹市美術ギャラリーで展覧会があるようです。
私は遠いし多忙で行けそうにありませんが、ご近所で、興味のおありの方は、一度覗かれても損はないと思います。
補足
「かれ(高島画伯)によれば地球上でおこなわれていることはすべて「慈悲」の結果である」
これは画伯の言う「慈悲」が何を意味するか、最も判りやすい一文かと思いました。