「済南事件」映画チラシで81万8千3百おまけ
ネタ拾いのため、高円寺古書会館で紙屑を漁る。戦前の映画館が発行した、上映作品案内がバラ売りされているのを見る。掘り返す。こんなモノが出る。
チラシ
26日ヨリ突如公開
世界注目の済南
陸軍省後援!
決死的実写映画!
大戦乱の済南 実況
第一報
第二報
第三報
一時に上映
復興館
「済南事件」―昭和3(1928)年5月、「北伐」中の国民革命軍と、居留民保護のため出兵していた日本軍との武力衝突事件―の記録映画だ。
日本軍が済南城を制圧したのが11日、チラシの26日が5月と推定すれば、衝突から間もない上映と云える。現地で撮影された映像が、現像・プリントを経て2週間ほどで日本で上映されるのだから、劇場が「突如公開」と書きたくなる気持ちはわかる。「復興館」とあるから、関東大震災後からの復興の中で出来た劇場なのだろう。遠からず改名されたはずだ。
「兵器生活」は、2002年に、「消えた甲冑将校」と云う記事を載せている。ホームページ(死語)タイトルロゴにいる、甲冑を着けた帝国陸軍将校―第六師団歩兵第四十七連隊の金丸高秋中尉―の写真を取り上げたものだ。
金丸中尉
リンク先を読んでいただければ良いが、横着な人のため説明する。
済南事件当時に撮影された、身に纏っている甲冑が、先祖伝来のモノだったのか、当時の出版物から辿ったものである。
その時見た、当時の新聞に、大阪毎日新聞社が映画撮影班を現地に派遣、そのフィルムが、連隊留守隊で上映された記事が載っている(「西部毎日(大分・宮崎版)」5月25日付)。その中に、金丸中尉の甲冑姿もあったと記されていて、「見てみたい」と書いた。それから20年以上経って、当時撮影された映画―同じ映画かは不明―のチラシが手に入ったのだ。世間様には、時代がかった描き文字―キッチリしていないトコロが楽しい―の紙切れに過ぎないが、主筆には嬉しい「掘り出しモノ」。読者諸氏も喜んで下さい。値段も高くなかったのだ。
(おまけの余談)
20年前は使えなかった、「アジ歴」の公開資料を漁ってみると、「山東派遣第六師団済南事件戦闘ニ関カル経験」(第六師団司令部)と云うモノが見つかる。スッカリ抜けた「ミリタリ成分」を補充する意味で、少し紹介しておく。
「山東派遣第6師団済南事件戦闘に関する経験提出の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07090558700、陸支普大日記 第5冊の3/4 第5号の3/4 昭和3年(防衛省防衛研究所)
「本書ハ昭和三年五月山東派遣第六師団ノ支那軍ト衝突セシ場合ニ於ケル戦闘ニ関スル各種ノ経験竝意見等ヲ蒐録セシモノニシテ将来戦竝軍隊教育上ノ参考タルヘキモノアルヲ思ヒ茲ニ之ヲ上梓シ配布スルコトトセリ 昭和四年二月 第六師団司令部」との序文が記されている。今後の参考のため、そこでの経験をまとめた資料である。
内容は、「編成、装備」、「戦闘」、「陣中勤務」、「築城」、「工兵作業」、「自働車」、「飛行機」、「鳩」、「支那軍ノ素質 竝 之ニ対スル戦法」、「将来教育上ノ参考」、「其他」と多岐に亘る。「鳩」(伝書鳩)が項目にあるのが興味深い。
この資料自体が、大きなネタ元みたいなモノだから、深入りはせず、ミリタリファンが興味を持ちそうな記述を、一つ二つ紹介して余談とする。
機関銃隊の自衛武器として、拳銃が装備されていたのだが、各分隊「二銃宛携行セシノミナル」のは、戦闘、宿営時の警戒に際し手薄である、と述べられている。さらには、携行していた二十六年式拳銃は、「威力少ナク安全装置ナキ為」、「将来速ニ優良ナル自動拳銃ニ改メルルノ要アリ」の提言もなされている。
また、「支那軍隊ノ性質上重砲ノ配属必要ナリ 暴徒ノ如キ劣等軍ニ対シテハ(略)其ノ精神上ニ及ホス効果偉大ナルヲ以テ一門タリト雖モ重砲ヲ附スルヲ有利トス」と云う記述もある。脅しのため重砲一門持ち込んで使うのに、どれだけの人員が必要なんだと怒られそうな話だ、中国軍を格下に見る意識が現れている。それが今では中国軍の脅威と、国防の拡充が叫ばれているのだから、世の流れは面白い。
個人的に興味深かったのは、以下の記述だ。
「城壁攻撃ニハ鉄兜防弾衣(重要部の掩護)ヲ使用セハ有利ナリ 特ニ突撃実施ノ際斥候及伝令等ニ於テ然リトス」、ヘルメットとボディーアーマー装備の提言である。城壁攻撃に先立つ「斥候」と云えば、「甲冑将校」金丸中尉だ。これを提言したのが、中尉が属する「歩四七」(歩兵第四十七連隊)なのである。彼の勇姿を思い出して書いたのか。もはや知る由も無い話ではあるが、嬉しい。
(おまけの残酷な現実)
今回、金丸中尉の話を久しぶりに読み返す。書いた当人が云うので説得力は全く無いが、面白い。これを書いた20年前が、書き手としてのピークだったのか。そう思うと、そこからの20年って…。