「国産車」の夜明け

『国策と国産自動車』本文で81万9千400おまけ


 古本屋から大枚払って取り寄せた、『国策と国産自動車』(東京トヨダ自動車販売株式会社)。読みづらい文章なのだが、戦前日本の自動車状勢を少しかじっておくと、なかなか味わい深い。


表紙と裏表紙

 冊子文末に「昭和11(1936)年7月」と記されている。これは、外国自動車メーカー排除を明確にした「自動車製造事業法」施行の月にあたる。
 その頃、日本の自動車市場を押さえていた、米国二大メーカー(フォード、ゼネラルモータース)は、日本国内に工場を建てていたが、取り寄せた部品を組み立てるだけで(品質を維持するため)、日本工業界への貢献は無きに等しいものがあった。彼らを国内から締め出し、空白となる市場を、大量生産体制を整える前提で、トヨタ、日産の二社に与えたのである。しかし、フォード、GMの日本での自動車生産は、昭和12(1937)年の支那事変勃発後も、規模は縮小されながらも続けられ、フォード・シボレー(GMのブランド)のトラックは、戦地の日本軍から支持を寄せられていたと云う。

 日本軍が使った車両を、戦車装甲車から、機関車、リヤカーまでも広く紹介する、『日の丸の轍』(古峰文三、ワン・パブリッシング 2024年)の、「フォードトラック」の一節を引く。

 故障の多い国産車で中国大陸の広大な戦線で孤立、落伍すればそのまま敵遊撃隊の好餌となる危険があり、フォードトラックを割り当ててもらえるか否かは命の懸かった問題だったのである。

 当時の国産自動車の信用の無さが浮かび上がってくる。「世界のトヨタ」になるとは、当時の関係者も想像出来なかったであろう、大量生産の体制を整えようとしていた時期に書かれた宣伝文章は、読者(見込客)の愛国心に訴えるしか無かった。

 と云うわけで、以下本文を挙げる。例によってタテのものをヨコとし、仮名遣いなど改め、読みやすいよう、改行から句点替わりの空白挿入まで施してある。原文が句読点を殆ど使わず、文章が連綿と続くのを、無理に切り分けているトコロもあり、読者諸氏には申し訳なく思っている。長文を読むのがメンドーな人は、青い文字を飛ばしちゃって下さい。
 国策と国産自動車

 近頃一般に 輿論の声が著しく 重要国策の確立に真剣味を帯び来たり 既に過般の臨時議会に於いて 其の傾向予想外に高まりつつありし状勢は 時勢の推移を反映したるものとして 大に注意せねばならぬ次第であります、然り 而して自動車工業も亦 吾が国に於いて最も肝要の重大国策の一つであって 最早生活必需品とも申すべき此自動車を 何時迄も此儘海外よりの輸入に仰がねばならぬ事は 時代錯誤の甚だしきものとして絶対に許すべきものでなく 当然自給自足を計らねばならぬ次第であります、

 「生活必需品」となった自動車が、輸入に頼っている現状を憂い、「自給自足」の確立が訴えられる。近代日本が、西欧の文物を取り入れることは、国産化=「自給自足」することでもあったのだ。船舶・鉄道同様、自動車も、そうならねばならない。

 之を単に経済上より見ましても 一ヶ年一億円にも達する此巨額の国帑を 毎年海外に支払らわせる事は 実に堪難き苦痛であります、さなきだに 我が日本は 国際貸借上毎年巨額の輸入超過に苦しみつつある状態で 殊に晩近国際経済競争は益々尖鋭化し 世界各国何れも高率なる関税障壁を築きて 自国産業の保護を露骨に実行して居ります、
 之を換言すれば 日本の商品は買わぬ故に輸入は禁止する、然し自分の商品は日本の市場に売り度いという様な勝手な申分であります、之では日本も黙って居る訳に参らぬ 御承知の如く昨年日本商品に禁止的重税を課した加奈陀(カナダ)に対して 通商擁護法を適用して五割の報復関税を課し 今又豪州(オーストラリア)に対しても同様の状態になって居ります、又米国と雖も 可なり苛酷の重税が設けられ 我が商品は誠に哀れむべき虐待を受けて居る様な訳で 之が現在の国際経済戦争の真相であります、既に本年の如きも 上半期六ヶ月間に実に参億円以上の輸入超過となって居ります、
 此輸入超過となった原因は 如何なる理由に基づくかと申しますと こちらから売る商品は 故意に禁止的高関税を課せられ売れない様にされ、反対に彼れの商品は大拡張で日本市場に殺到して売込まれる結果であります
 此状態に直面して誰が憤慨せぬものがありましょうか、又何人が切歯扼腕せぬものがありましょうか、

 「自給自足」を目指していながら、実の所、日本では輸入超過が続いている。世界恐慌後の国際貿易は、自国産業保護の名目で、「ブロック経済」と化し、高関税の掛け合いをする「経済戦争」となっている。日本が売りたいモノは売れない。しかし、買わねばならぬモノ(資源や工作機械)の輸入は停めるわけには行かないのだ。憤慨もする。切歯扼腕だってする。
 現在でも電網のインフラ、パソコンやサーバの根幹を外国企業が握り、エネルギー・食糧と輸入に頼っているのだから、国内の外国人排斥以前にやる事はあるんぢゃあないか(無理だけど)? と思わぬでもない。

 更に之を国防上から見たらどうでありましょう、自動車は 交通上最も重要の部門に属する事は敢て専問(ママ)家ならずとも何人も首肯出来る次第であります、それだけ軍事上にも大切でありますが 此大切なる自動車が 何時迄も外国の輸入にのみ任せて置けるか置けぬか位は 敢えて考えて見る迄もなく 極めて簡単明瞭に判断が出来なければならぬ筈であります、
 斯様に切迫した実情でありますから 一部の人の云う様な国産自動車と云っても左様に急速の発達は望まれぬ 漸進的に発達するを待つべきであるなどの そんな悠長な議論などに耳を藉す必要はないので 一路自給自足の域に達すべく邁進しなければならなぬ事と思います、既に政府が重要国策として議会に自動車製造事業法案を提出し 議会も亦満場一致之に協賛を与えたのも 誠に当然の事でありまして 此国策の貫徹に 吾々は忠実に最善の努力を払い 日本民族発展の為にも大に務むる義務があると思うのであります。

 トドメは「国防上」である(笑)。軍隊の移動に自動車は欠かせない。艦艇・航空機・戦車が国産で揃えられるトコロまで来ていて、なんで自動車だけは輸入に仰がなければならないのだ。そんな思いが見て取れる。
 「国産自動車」の急速な発達は期待出来ぬ、との慎重論は、「国策」「日本民族発展の為」排斥されねばならぬと云う。自動車産業国産化の号令がかかったのだから、国民も応えなければならぬ。つまり、今すぐ、国産自動車を買いましょう、と云うコトなのだ。

 国産自動車の性能
 そこで国産自動車が出来ると致しまして 其品質でありますが 先ず第一日本人に フォードやシボレーと同品質 又はそれ以上優秀の自動車が 完全に出来るか出来ぬかの問題でありますが 私は必ずこれは立派に出来ると確信して差支ないと思います 否輸入車より以上 日本の国情に適合した優秀且つ堅牢の品が 間違なく出来ると信じて居ります、
 彼の難しい化学工業(ケミカルエンダストリー)ですら今では立派に成功して どんな品種でも出来ないものはなく 只今では逆に先進国の外国へ多量の輸出さえ致して居ります、此見地から見れば フォードやシボレー位は必ず出来ますが、次に来るべき問題は値段の点であります、御承知の如く 彼れは一ヶ年百万台以上も作る多量生産、吾れは僅かに年産六千台の少数では 其の原価に及ぼす影響も少なくないことは当然のことであり 甚だ残念でありますが 然し日本には日本の長所があり 特異性もありますから 其点もそんなに憂うる必要はないと思います。

 自給自足の確立に邁進する、と口にしてすぐ、「国産自動車が出来ると致しまして」の仮定で話が進む(笑)。可愛いなぁ。書いてる人も、早々に高品質なモノが大量生産が出来るとは信じていないのだ。
 フォード、シボレーと同等かそれ以上のモノが造れるのか? 出来る。化学工業が成立しているのだから。自動車の性能・品質が舶来品並になるのは、戦後に持ち越されることになるが、それは達成されたと見て良いだろう。価格については、生産数が比較にならない事を認め、原価に差が出る―多く作れば安くなる―ことも隠さない。しかし、売価が高くなることには口をつむぐ。そしてあるのかドーか怪しい、「日本の長所」「特異性」を持ち出して、話を有耶無耶にしている。なんとかなるでしょ、と云う事か。

 曾て約四十年前 米国よりピアスという自転車が初めて本邦に輸入販売されましたが 其当時の感想を告白すれば 斯様の精巧なる機械が 若し我が日本にて出来る時代が来たとすれば 蓋しそれは二三十年後の時代であろうと申しました事がありました それが一九一七年の欧州大戦争の時には 極めて多量の立派な国産自転車が 逆に英米其他の国に輸出されて居ります、只今では世界に於ける自転車製造国と云ってもよい位 素晴らしい発達を致しました。こんな例はまだまだ沢山他にもあります、要するに 我が日本の工業知識は 絶対に欧米人に劣らぬ事を断言するも 決して過言に非ざる事を信ずるものであります。

 自転車だって、立派に国産化され、輸出もされる商品に育ったのだ。日本人の科学力は欧米人に劣るものではない。此の意気やヨシ! とは云うモノの、『日の丸の轍』の「軍用自転車」の項を見ると、日本の自転車が海外で人気があったとは云えなかった、と冷めた見解が示されている。

 尤も 従来製作されて居ない 経済大衆車の如き自動車を初めて作るのでありますから 其試作中の六七ヶ月位の間 即ちテスト期間は 種々様々の故障や不注意の点が起こるのは止むを得ないので 之を以て 直ちに国産自動車の品質を非難するのは 甚だ其の当を得ぬ次第と思うのであります、
 其一例を申しますと 日産のダットサンを御覧下さい、最初の作品と今日の品と比較して 実に雲泥の相違があり 今日のダットサンは世界に対しても自慢し得る程 完全の品質を具備して居ります、又トヨダのトラックも其の通りで 最初の作品は種々の点に予期せざる欠陥の生じた事は事実でありますが 其都度研究し改良し 如何にせば最も短き期間内に完全なる自動車を製作し得るや との不断の努力が傾注されたので 豊田氏の如きは 実に寝食を忘れて涙ぐましい奮闘を続けられたのでありますが 其努力の結晶空しからず 今日殆ど完全無欠のトヨダトラックが出来上がり 使用者は皆満足を致して居ります、近々市販されるトヨダ乗用車の品質も 亦此理由に依り遂に成功する事は 些かの疑を入れぬ次第であります。

 ダットサンも、トヨダのトラックも、最初は不具合があったものが、改良されて今に至ると云う。ゼロから(実際は米国車を分解して参考にしている)造り上げたトヨダのトラックは、今では「殆ど完全無欠」となったとある。「殆ど」と書いてあるのが執筆者の良心で、ほんとうに「完全無欠」の自動車が出来ていたのであれば、戦地でフォードのトラックが有り難がられる事はなかったろう。

 あなたは日本人であります?
 前述の如く 経済上国防上何れの点より見るも 国産自動車 就中経済大衆車の要望は全国に漲り、一日も早く輸入車を駆逐し 国産車を以て完全に自給自足の域に達せねばならぬのであります、
 仮に現在使用自動車が全部国産自動車であったとしたら 其製造にたづさわる職工、下受、其他間接、直接に要する人員は蓋し幾万という夥しき多数に上り 既にそれのみにても国家経済に裨益する処多大なりと信ずるものであります、
 それ斯くの如く 国産自動車が国家存立上 必要欠くべからざる事実に直面して居るに不拘(かかわらず) 尚且つ躊躇逡巡して其使用を依然として舶来車に求め 又は故意に品質に疑念をさし挟み 国産車の進出を喜ばぬ者あるは 実に慨歎に堪えざる次第にして、それでもあなたは日本人でありますか と御尋ねしたい位に思って居ります、
 どうぞ国家の緊急事として 日本の要望する国策の一たる自動車の国産化を 一日も早く完成せしめ 年額壱億円の海外支出を喰止め 国家経済に貢献する様御盡力あらん事を切望する次第であります。

 国際収支、国防の両面で国産の「経済大衆車」―陸軍の仕様で作られる六輪自動車ではなく、民間で使われる安価なトラック・乗用車をさす―が求められている。その数量は膨大なモノとなるから、自動車メーカーを頂点に、一大産業が形成される。現代日本での、自動車工業の立ち位置を思い起こせば頷けよう。貿易収支の改善、国防整備面の安心、産業と雇用の創設と、日本民族の明るい未来が開けたのである。カタチだけは。
 それなのに、国産品への不安から「国産車の進出を喜ばぬ者」があるなら、「それでもあなたは日本人でありますか」と云いたくなる。これも強烈な殺し文句だ。これが、自動車だけでなく、国家の方針、日常生活など、あらゆるトコロに蔓延した先が昭和20年の敗戦なのだ。
 「トヨタ自動車75年史」を見ると、日本の国策が米国車の排斥に向かうと見た、日本GMの神谷正太郎は豊田自動織機に転じ、トヨタ自動車の販売網を、日本GMにならって構築していったとある。GM本体も、シボレー販売店が日本車販売に鞍替えするのを黙認したと云う。今まで輸入車を販売していた人達が、国産自動車―文中で、いつのまにか「国産車」になっている―を買ってチョーダイと熱烈・切実に訴えている事になる。これを面白がれなかったら、人生何処に楽しみがあると云うのか(笑)。

 商売上より見たる国産自動車
 自動車工業は国家として既に特別の保護を加えられ 之が発達を計らねばならぬこと程 左様に困難の事業でありますが、其計画は着々進捗し 現にトヨダトラックは完全に成功し、乗用車も近く市販せられんとして居ります、更に聞く処に依れば 日産方面の大衆経済車製造計画も非常に順調に進展し 是亦近く試作品の発表をなさるる迄になって居るとの事であり、国家の為誠に慶賀に堪えぬ次第であります、斯くの如く 今や国産車は舳艫相衒んで進み輸入車を迎撃せんとする陣形になって居ります 此場合需要者の態度こそ誠に注目に値する次第であります。

 自動車工業は国の保護下に入った(国の思惑に振り回されるようになる)。トヨダのトラックは出来上がり、乗用車も近日発売となる。「75年史」を読むと、豊田自動織機での自動車研究は、もともと乗用車で始めていたところを、商工省と陸軍から、トラック・バスの製造も求められ、トラックが先行して製作・発売されたとある。日産の発展を「慶賀」しているのは、先行している側の余裕と云うものか(ともに『国産自動車の雄』と売り出した時、ドー差別化していくのだろう)。
 輸入車迎撃の準備は出来た(と云うことにしている)、「需要者の態度」は如何に? 売れなければ客に愛国心が無いと云うヨーなもので、商売の姿勢としては如何なモノか。

 そこで国産車側の希望を率直に申し上げますと 日本人は日本人の手にて作れる自動車を使用して下さい と申しましても、何も役にも立たぬ粗悪品を 無理に買って下さいと云う意味ではないのであります、又御買い下すった後の責任は知らぬと云うのでもありません、只国策に順応して 極めて甚大の犠牲を省みず敢て其困難に身を投じた 国産車側の苦衷に御同情下すって 率先して国産車を御使用願いたいのでございます、
 値段も勉強致しましょう、買っていただいた後の責任 即ちサービスも 輸入車以上懇切丁寧に致しましょう と云う訳で 少しも国産車に不安心の点はなく 決して無理の御願いを致す考えはないのであります

 今度は泣き脅しだ。「値段も勉強」(安くします)、「サービスも(略)懇切丁寧に」とまで書く。「世界のトヨタ」も、最初はこんなだったのか(販社発行の宣伝パンフレットだけど)と思うと、感慨深く、そして面白い。

 こう云う事情の下にありましても 従来からの行掛かり上 又は情実上国産車を喜ばぬ人もありまして、曰く 困難なる自動車工業が半年や一年で フォードやシボレーと同等品など出来るものでない と誤断し 先天的に舶来崇拝の錯覚に陥って居る日本人もある位で 近頃製作のトヨダトラックやバスの性能が 実際使用の結果 其品質の優秀顕著なる事が分かり 初めて驚いて居る者もあります、
 何は兎もあれ 斯様の初期の揺籃時代にある国産車に助力していただく最上の方法は 御使用下さると云う事が此上ない好都合であります、御使用してからの御批評は喜んで傾聴いたしますが 他の実績を見てから使用するなどの 輸入車崇拝者に対し如何に御説明致しましても 実績以上の説明は出来ぬからであります、
 次に商売上の立場から 輸入車販売員が心にもなき虚偽の非難を 国産車に浴びせるものあるを耳にいたしますが、それが不思議に日本人であります 如何にパンの為とは云え 同朋の作品に偽りの攻撃は少しく恐れ入る次第でありますが 之等は澎湃として押流す国産車の潮流に 何れは溺れざる(を)得ないと思って居ります。

 東京トヨダ自動車販売株式会社
 昭和十一年七月

 「東京トヨダ自動車販売株式会社」の社長は、シボレーの販売店をやっていた人と「75年史」にある。
 「自動車製造事業法」施行以前の自動車販売店は、文字通り「パンの為」(喰うため)に「舶来車」を売っていたのであるから、この時点で国産車販売に転じたものも、今なお「虚偽の非難」を行う者も、日本人による自動車の大量生産を、ある時期までは、同じように懐疑的に見ていたはずだ。
 未だ国産車に価値を見出さない、かつての仲間(商売敵でもあったろう)を、「不思議に(同じ)日本人であります」と非難しているわけだが、戦地の兵隊さんが、舶来のトラックに乗れることを(命が懸かっているゆえ)有り難がった事を思うと、この時点で正しかったのは、むやみに愛国心を振りかざしたりはしない、「従来の行掛かり」「情実」「パンの為」、国産車に手を出すのはまだ早い、と様子見をしていた側だったように思えてくる。
 これらの人達も含めて、日本人は戦争の大潮流に溺れてしまう。「東京トヨダ自動車販売」は戦後に再興されることはなかったとある。
(おまけのおまけ)
 冊子表紙の片隅を拡大する。


 昭和11年の「日本」だ。台湾・朝鮮・南樺太・千島列島が、本土と同じ白抜きされている。こう云うトコロを見るのも、昔の紙切れの面白いトコロだ。

(おまけの、そうは云ってみたものの)
 宣伝は難しい。
 「兵器生活25年!」と、ホームページの更新を続けているのに、世間様の目を惹かない。ほめられもせず 苦にもされぬ。右から叩かれる事はないが、左から評価されることもない。
 それは、宣伝していないから。そして、行き当たりばったり・ゴッタ煮なウェヴサイトは宣伝のしようも無いからである(笑)。

 今回の『国策と国産自動車』は、国産を謳い(実際のトコロは米国車を大いに参考にしている)、読者(見込客)の愛国心に訴え続けている。
 米国車より優れている、と云えるレベルに無い。値段も(まだ)安くならない。サービスしますと云っても、競合が追随したり価格勝負に出たら勝ち目は無い。唯一の取り柄が、国策のおかげで、舶来車はいづれ立ち枯れる事だけなのだが、今日明日使うクルマが欲しい人には関係はない。つらいトコロだったろう。

 映画・小説・マンガのような創作物から、マンション、政党・政治家まで、世に宣伝・広告は蔓延っているわけだが、現物があるモノなら、感銘したトコロを具体的に記してお薦め出来るが、今作っている最中、これから作ろうとしているモノはドーすれば良いのか?
 作り手の過去の仕事を褒め上げ、この人だから大丈夫。具体化はしていないが、構想・青写真を見て、これなら期待が出来る。と、眼前に示された手がかりに基づいて態度を決めるしかない。
 世に出てない人など、期待の手がかりが無いと、「寝食を忘れ涙ぐましい奮闘を続けた」的な、お涙頂戴「感激物語」の押しつけか、「それでも日本人でありますか」と、客に責任を押しつけるヨーなシロモノになってしまう。ならざるを得ない。宣伝としては悪手だ。

 読者諸氏が、今回の記事をお楽しみいただけたかは、知る由も無いが、冊子本文(読みづらくて申し訳ない)を書き写すことで、万金払った分くらいは、モノを思う事は出来た気はしている。
(おまけの参考読み物)
 本文で言及した、『日の丸の轍』(古峰文三、ワン・パブリッシング 2024年)の「第三章 モータリゼーションの黎明」で紹介されている自動車は、以下の通り。

 九四式六輪自動貨車
 フォードトラック
 T.G.E.−L型トラック
 御料自動車
 「アツタ」号
 シトロエン装軌自動車
 九五式小型乗用自動車(くろがね四起)

 戦前の日本の自動車工業が、国家保護(外資の排除)があって成立出来たことが、軍用トラックなどの解説記事から読み取れる。ミリタリ趣味も捨てたモノではないなぁと思わせる読み物。上田信のイラスト、胃袋豊彦の三面図―「リヤカー」、「猫車」まであるーも楽しい。