「民主的方法」によるナチス独裁への道のり

<関係略年表>
 1918 ドイツ、第1次世界大戦で敗北
   19 ワイマール憲法制定、ドイツ労働者党結成(翌年ナチスと改称)
   21 ヒトラー、ナチスの独裁者となる
   22 イタリアでムッソリーニのローマ進軍(ファシスト内閣成立)
   23 ナチス、ミュンヘン一揆に失敗
   25 ヒトラー、『わが闘争』発表
   29 アメリカで世界恐慌始まる
   30 ナチス、総選挙で第2党へ。共産党第3党。
   31 金融恐慌ドイツに及ぶ
   32 総選挙でナチス第1党へ。パーペン内閣。シュライヒャー内閣。
   33 1月ヒトラー内閣成立。3月全権委任法成立、
ナチスの独裁確立。

1) 世界恐慌とナチスの台頭
1920年代後半、いったん解体しかかったナチスを結果的に「救った」形になったのは、1929年にアメリカで
始まった世界恐慌でした。これにより、ドイツ経済はアメリカ資本の支持を失い、大恐慌へ入ってしまいました。
当時のドイツ支配勢力は、ワイマール体制によってドイツに始まった民主政治を廃止するよう求めるようにな
ったのです。

(問1)民主政治の廃止要求というのは、現在の感覚では到底理解しがたいのですが、当時なぜ
支配勢力がそれを求めたのでしょうか?1つには社会民主的政策が莫大な社会政策費がかかる
ことを彼らが嫌ったことがあげられます。さて、もう1つは何でしょうか?
<ヒント>上の年表の1930年の記事に注目!

                             
(問1の答へ)

ドイツ中産階級・農民たちは、経済的な混乱に対応できない既存の中間諸政党を捨て、ナチスと○○党(問1
の答と非常に関係深い政党名が入ります)という左右両勢力を支持しました。ナチスの主張は過激なものの
ように受け取られがちですが、強大な祖国とその栄光を唱える民族主義は、以前からのドイツの国民的伝統
を受け継ぐ形をとっていましたし、一方で失業対策をたて、社会福祉の充実を約束していましたから、一般民
衆にも支持されたのです。唯一ナチスを阻止できたはずのドイツ国防軍も、ナチスが軍備の大拡張を訴え、
愛国運動を展開していたことに根本的には賛成していました。
(問2)1932年11月頃から、ドイツの金融資本家や重工業資本家らは、続々とナチス支持に
傾き出しました。その理由の1つは問1と同じですが、もう1つは何でしょうか?

<ヒント>上の黒い文字の説明の中に答があります。

                             
(問2の答へ)

2) ナチスの選挙運動
ナチスは数回の総選挙を経て、次第に議員数を増やし、最終的に政権を奪取しました。当時ナチスは、全
政党の中で最も充実した党組織を誇っていました。そしてそれを利用して、当時としては先進的な宣伝活
動を行ったのです。その具体的方法は、例えば、
@ヒトラーの演説を吹き込んだレコードを各家庭に配給
Aナチスのニュース映画を映画館に配給
B歌と音楽を利用
C飛行機をチャーターし、ヒトラー自身が各地に遊説
などでした。
(問3)この他、宣伝ビラを配りましたが、これにはある工夫がありました。それはどういうものだった
と思いますか?

<ヒント>今の日本の政党もこの方法見習うべきではないでしょうか?


                             
(問3の答へ)

3) ナチス、第2党へ(1930年9月)
これによって国内の新聞・雑誌はナチスに関して、かつての「危険な右翼政党」から「信頼できる国民政党」
とその評価を変えました。
(問4)イギリスの新聞デイリーメイルも「ヒトラーの存在は(     )に対抗する強固な壁を
つくり(    )のヨーロッパ文明侵略の勢いがドイツに進出する危険を除くことにもなる」と
書きました。この(     )内に入る国とはどこでしょうか?


                             
(問4の答へ)

4) ナチス、ついに第1党へ(1932年7月)
・ヒトラーはこの後、国家人民党(右翼政党)にも接近し、32年4月大統領選挙に出馬しましたが、現任の
ヒンデンブルグに敗れました。しかし同月末に行われた地方選挙でナチスは大半の州で大勝利をおさめ
ました。
・国防軍の実力者シュライヒャー中将(国防省官房長)は、5月8日ヒトラーと会談し、SS隊・SA隊というナチス
の私兵隊の活動禁止を解くことを条件に、新しくつくろうとしていた大統領直轄内閣への協力を求め、ヒトラー
もこれを受け入れました。
・こうしてパーペン(中央党、プロイセン州議会議員)を首班とした新内閣が成立しましたが、連合国側への
30億ドルの賠償金支払いを受け入れたことをナチスに批判され7月31日に総選挙となりました。その結果、
ナチスは37,3%の得票、608議席中230議席(それまでの倍以上)を得て、とうとう第1党となりました。
(他に社会民主党133,共産党89,中央党75,国家人民党37)
・ヒトラーはこうした情勢をうけて8月5日シュライヒャー中将と密会し、中央政府の首相、内相、法相、経済相、
航空相、プロイセン州政府の首相、内相、法相をナチスから出すよう求めましたが、大統領はこれを拒否しま
した。8月30日、パーペン内閣に批判的な中央党はナチスに協力して、ゲーリングを国会議長に選びました。
・9月12日、議会解散権を行使せんとする首相と各党との駆け引きの中で、不信任案が可決されました。

5) ヒトラー内閣の誕生(1933年1月)
・同時にパーペンの提出した議会解散令も発効して、11月にこの年2回目の総選挙となりました。この結果
ナチスは34議席を減らして196議席となりました。まだ第1党の位置を保ってはいましたが、これは大不況
下でのたび重なる選挙を国民が嫌ったこと、またナチス内部も党の資金繰りが悪化して不満が起こっていた
ことなどが背景として考えられます。
・ヒトラーはヒンデンブルグ大統領と会見し、首相の地位を要求しましたが、これを拒否されました。あくまでも
大統領はパーペンに組閣を命じようとしますが、首相の地位をねらっていたシュライヒャー中将がこれに反対、
大統領は中将に組閣を命じます。
・翌33年1月、シュライヒャーに裏切られたパーぺンはヒトラーと会見し、ヒトラー内閣樹立について原則的に
合意します。
・同月、リッペ州選挙が行われますが、ナチスはこれを「天下の分け目」と位置づけて宣伝、これに勝利したこと
でナチスの政権獲得の雰囲気を高めることに成功します。この頃、財界からナチスへの献金も行われ、一方
シュライヒャー内閣は議会の支持を失います。ヒンデンブルク大統領は最後までパーぺンの再任を望んでいま
したが、ヒトラーが大統領側近に自身への支持を得られるよう工作したこと、パーぺンが大統領を説得したこと
などによって、1月30日、ついにヒトラー内閣が成立しました。
《ヒトラー内閣のメンバー》
 
首相:ヒトラー  副首相:パーペン 国防相:ブロンベルク中将  外相:ノイラート男爵  蔵相:クロジク伯爵
 
農相:ブラウン男爵  逓相:ルーベナッハ男爵  法相:ギュルトナー  内相:フリック
 経済相:フーゲンベルク(国家人民党首)  労働相:ゼルテ(鉄兜団幹部) 
無任所相:ゲーリング
   注)赤字=ナチス党   
黒字=パーペン内閣時の閣僚

(問5)大統領もパーペンも、ヒトラーが首相になったとは言え、彼とナチスを統制することは可能と
考えていました。その理由を上の閣僚メンバーをみて考えて下さい。


                              (問5の答へ)

6) 共産党を徹底的に弾圧
・ナチスは、議会で絶対多数を得るためには、議席数を伸ばしている共産党を倒すべきと考えました。そこで
まず共産党に騒ぎを起こさせ、左翼革命の恐怖を感じさせ、ナチスが敢然とした態度でこれと戦い、国民の
支持を得ることを画策していました。
・そこに1933年2月27日、国会議事堂炎上事件が起こりました。ナチスはこれを共産党のしわざと決めつけ、
約4000人を捕らえました。

(問6)ナチスがこうしたことを容易に進めることが出来たのはなぜでしょうか?
<ヒント>ヒトラー内閣の閣僚メンバーに再び注目して下さい。

                              (問6の答へ)

7) ナチス独裁の完成
・ワイマール憲法48条には次のような大統領緊急令の規定がありました。
「『公共の秩序と安定』が危険にさらされ国家が憲法の義務を履行できなくなったとき、大統領は軍隊の援助
のもとに緊急令を強行でき、その際に身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の
自由、私有財産の保護の一部または全部を停止することができる」

・ヒトラーはこれを利用し、国会放火事件の翌日に
@上記の諸権限を制限できるA武装蜂起・ゼネストに対し
必要があれば中央政府が連邦各州の全権を掌握し(もともと各州の独立性は高かったのです)死刑も科せる

という2つの緊急令を制定しました。
この2つの緊急令を利用すれば、ナチスの一党独裁は容易になるわけですが、このことのもつ意味の深刻さ
について当時は、国際的にも国内的にも気づく者は少なかったのです。
この後、「最後の総選挙」が行われました。ナチスとしては、ここで絶対多数を獲得して、「民主的手続」を経て
一党独裁にもっていこうとしたのです。標的は共産党であり、ナチスは選挙運動中、一般市民に共産党に対す
る恐怖感をあおり、さらにそれ以外の民主主義政党の集会も軒並みSA隊員に襲われ、逮捕者は監禁あるい
は殺傷されるなど、徹底的な選挙干渉が行われていました。

・3月5日の投票の結果は次の通りです。
  ナチス党:288議席  社会民主党:120  共産党:81  中央党:74  国家人民党:52
  バイエルン人民党:18  諸派:14
ナチスは絶対多数どころか過半数も得られませんでした。ナチスに協力を表明していた国家人民党52を加えて
も、「全権賦与法」成立に必要な3分の2(ワイマール憲法の改正になるため)には達しません。

問7)そこでヒトラーとナチス幹部は、反対票を投じることが確実な共産党に対し、途方もないことを
考え実行しました。それはどんなことだと思いますか?
<ヒント>ナチスはこの当時、国内の警察権力を握っていましたし、もちろんSA隊・SS隊をもっていました。

                            
 (問7の答へ)

しかし、これだと同じくナチス党に反対の姿勢をとる社会民主党が欠席戦術に出て、法案審議自体をストップ
させる危険がありました。そこでナチスは、カトリック勢力との接近姿勢を示すことによって中央党の協力を
得て、裁決直前に改正議院規則を施行し、無断欠席議員を出席扱いにする議長(ゲーリング、ナチス党)の
裁量権を認めたのです。3月23日の国会において、全権賦与法案は、賛成441で可決され、ナチスの独裁
は完成したのです。


(問8)このようにヒトラーは、現実には暴力等を用いつつも、少なくとも表面的には民主的な方法に
従いつつ独裁権力を握ったのです。なぜ彼はここまで「民主的」であることにこだわったのでしょうか?
このページ最初の略年表からその答を読みとって下さい。

                             (問8の答へ)


◎ 答と解説

(問1)民主主義政治の進展の行き着くところは、共産党の台頭であると考え、それを恐れたため(特に資本家
など)です。


                               (次へ)

(問2)ヒトラーが再軍備を唱えているため、軍事産業がさかんになることを期待していたためです。財界要人
たちはヒトラーが社会主義を唱えてはいるものの、それは貧しい人々向けの偽装であり、政権をとれば必ず
「資本主義の道具」になる、と確信していました。


                               (次へ)

(問3)農民用、女性用、サラリーマン用、カトリック教徒用の4種類をつくったことです。それぞれの立場の人々
に応じた文言が記されていて、全体として広い立場の人々からの支持が得られるように計算されています。
例えば女性用には「ドイツの婦人よ。ドイツの乙女よ。あなたがドイツ国民の運命を左右するのである。あなた
の子供は、いつの日か、あなたが国民としての義務をはたしたかどうかを、あなたに尋ねるだろう」などと書か
れています。

                               (次へ)

(問4)ソビエト連邦です。この他、アメリカ及びイギリスの新聞の一部は、ナチス党の勝利はヴェルサイユ
条約の「非常識な苛酷さ」に対する「理解できる反作用だ、と述べています。


                               (次へ)

(問5)ごらんのように、ヒトラー内閣であるにもかかわらず、ナチス党からは他に2名しか入閣しておらず、ほと
んどはパーペン内閣時の閣僚だからです。
その意味ではこれは「第2次パーペン内閣」ともみなせるわけです。

                               
(次へ)

(問6)内相の地位を得ていることが注目されます。つまりナチスは、警察権力という「正当な暴力装置」を握って
いたのです。

                              
 (次へ)

(問7)
緊急令を利用して、共産党員を逮捕し、国会に出席できないようにしたのです。その結果、3月23日に
開かれた全権賦与法案を審議する国会では、共産党員81人全員、社会民主党員26人、諸派5人が「逮捕、
逃亡、病気」という理由で「欠席」し(させられ)ました。出席議員は535人でした。

                               
(次へ)

(問8)
1923年のミュンヘン一揆での失敗が、ヒトラーに以後、非合法活動を回避させるようになったのです。
しかし、ナチスの本音は例えば次のような言葉に表れています。
「われわれは、民主主義の教練場で民主主義という名の武器を身につけるために、議会に参加する。毒を
もって毒を制する様な方法で…われわれは国会議員になる。われわれがここに来るのは、…敵として来る
のだ。狼が羊の群におどりこむように、われわれはやってくるのだ」(ゲッペルス、1928年)

※以上の問題と答、解説は、児島襄『第2次世界大戦ヒトラーの戦い1』(文春文庫、1992年)、
ノルベルト・フライ(芝健介訳)『総統国家ナチスの支配1933年ー1945年』(岩波書店、1994年)
などをもとに作成しました。

                       
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