大好きな父との思い出を綴ります。

父親っ子の私には、数限りない思い出があります。
これも両親に感謝するべきことなのでしょう。
大切に、そして甘やかすことなく育ててくれてありがとう。



物心つく前に妹が生まれたので私のお守りはいつも父でした。
当然のように私はパパっ子になりました。
仕事にも連れて行ってもらったし、いつも父と一緒にいたような幼児期でした。

仕事に情熱があって、家族を大切にし、
私になにかあれば、自分の命を犠牲にしても助けてくれるような父でした。

まだ私が2歳の時。アンテナ立ての仕事に私を連れて行った父。
お花の前に私を座らせて「ここで遊んでいるんだよ」と言ったそうです。
しばらくすると妙に近くで「パパ。パパ。」と声がしたそうです。
みて見るとハシゴを上がってすぐそこまで来ている私。
怖がらせないように、抱き上げるまでがとても怖かったと父が言ってました。

次は、私が幼稚園の時。
ちょっとしたことで家が火事になったことがあります。
消防車を待てなくて、消火器を持って一人消火にあたった父。
消防車が来る頃には鎮火していましたが、
父は半身火傷という状態になっていました。
顔や体が包帯でぐるぐる巻きになった父の笑顔を思い出します。
その笑顔は誇らしげでありました。

私が小学校に上がると父はすぐに自転車を買い与えてくれました。
でも、言った一言は
「乗れる様になるまで帰ってくるな!」です。
今、私には来年小学校に上がる息子がいますが、
そんなことは絶対言えません。
スパルタな父でもありました。

そんな父でも私を怒らない事もありました。
小学1年の時、家にも帰らず友達の家に遊びに行って
夜7時まで帰らなかった私。
必死に探してくれた父の元に帰るのはとても怖かった思い出があります。
でも、出迎えてくれた父に怒られることはありませんでした。
それ程心配をしてくれ、帰ってきたことだけで一安心してしまったのでしょう。

中学に入り、ギターに興味が出てきた私でしたが、
ギターを与えてくれることはありませんでした。
「欲しければ、自分のお小遣いで買え。」
それだけでした。中学生の小遣いでは買える訳もなく、
高校に入ってから、私は5000円のお小遣いの中から
毎月3000円を払いながら、ギターを手に入れました。
これは、大人としての最初の父の教育だった気がします。
払い終わった時には、喜びが溢れ出ました。

そして高校1年生の文化祭でギターの弾き語りをした私を収めるため
ムービーを片手に現れたのも父です。
なんか、こう書いていると、父ってポイント押さえてる気がしてなりません。

高校卒業後、上京した私のことが心配で毎晩電話をかけてきたのも
父です。私の飲兵衛はこの頃から始まっていますから
夜、そうそう居るもんじゃありません(笑)

父に、「次電話に出なかったら、荷物を取りに行って
連れ戻すぞ!」と、強い口調で言われました。
今考えると当然ですが、怖かったなぁ。
もちろん家に居ましたよ。1週間位は効き目がありました(笑)

お勤めをして、結婚が決まり、
家に戻って家業を継ぐと言ったのですが、そのときの父の喜び様ったら
ありませんでした。

その時の父の願いは
「俺の目の黒いうちだけでいい。ずっと続けてくれ」でした。
あの頃は、父と過ごす年月が7年ちょっとだったなんて想像もしてません。

結婚して2年が経とうとしてた頃、初孫の登場です。
うちは代々女系家族で夢にも男の子が出来るとは
思ってもいませんでした。
父の抱いた息子の写真が残っていますが
とろけそうな笑顔です(*'ー'*)

年末には弓矢を、初節句には鯉のぼりを。
嬉しそうに買って来ます。しかも、高い(笑)

そんなこんなで、ワイワイしながら7年が経ちました。

急な父の逝去ですが、思う存分仕事をし、
妻を愛し、子供を育て、孫を抱き
とびっきり幸せな人生であったと思います。
あまりにも早い死以外は。

思い起こすと、父の笑った顔と怒った顔、仕事をしている顔
そして、酔っ払った顔。
どれも思い出せる私は幸せ者なのかもしれません。

最後のお別れには、そっと手紙を忍ばせました。
内容は秘密です。

父と私だけの・・・・・・・・

パパ。今までありがとう。
大好きです。

たかよ



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