島の歴史
「ラパ・ヌイ」(Rapa Nui)はテ・ピト・オ・ヘヌア(te pito o henua)(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。
正式名はチリ共和国自治区パスクア島(Isla de Pascua, Republica de Chile)
(パスクア、スペイン語: Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味する。
イースター島の中心はハンガロア村(Hanga Roa)
民族構成
イースター島の人口の70%はラパヌイ人、3%が外国人。残りの大部分はチリ本土から来たチリ人。
宗教
島民のほとんどはローマカトリック教徒
面積
約166km2(日本の香川県小豆郡の小豆島とほぼ同じ面積)
人口
5034人(2011年推計)
1722年4月6日、オランダの提督ヤコブ・ロッヘフェーンはガレー船から小さな島を発見し復活祭の日に見つけたのでイースター島と名づける。
この時期の島民は数千人いたとされる。
すでに多くのモアイが倒されていた。
同行していたカール・フリードリッヒ・ベレンスが1738年に『経験豊かな南方人』を出版した。
この時期の島民は褐色の肌の者もいれば白色の肌の者もいたとされてる。日に焼けたように赤い肌の者もいたとされる。
その風貌は耳が肩近くまで長く、装飾として白い玉を飾っていたという。
島民の習慣は石像の前で焚火をし跪いて祈りを捧げていた。
1770年10月10日にペルーの港から出航したフェリベ・ゴンザレス率いるフリゲート艦が島に6日間滞在。
スペイン国王に因み、「サンカルロス島」と命名、スペイン領と宣言。
この時、島の酋長たちが公的文書に署名した文字はロンゴ・ロンゴの文字であったという。
1774年、フリゲート艦でジェームス・クックの率いる一行が上陸する。
この時、島民の人数は6〜700人だったといわれている。
すでに多くのモアイが倒されていた。
1788年フリゲート艦でラ・ペルースが訪れる。
クックもラペースも巨石はもっと古代の遺物と認識した。
1838年、デュペチ・ツアル提督が訪れた時には巨石の9つ以外の全てが倒されていたとされる。
のち全て倒され、石切り場で埋没した巨石のみ変らず隆起していたという。
石像が最後に記録されたのは1838年で、1868年の記録には立っている像はなくなっていた。
モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、
相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。
その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続いたとされる逸話がある。
1862年、ペルーの海賊による襲撃を受け奴隷商人に連れ去られた。
タヒチ島に住みついてた司教テバノ・ジョッサンによりイギリス・フランス両国の政府へ訴えられ
数百人が帰途に天然痘により100人のうち15人が生残り島に戻ったが島じゅうに蔓延した。
最初の宣教師としてエジエン・エイロが訪れたときは貧困を極めていたとされる。
この時点ですでに111人のみが生存していた。
冒険者デュトル・ボルニエにより宣教師は追われ、統治が始る。
この政権時にタヒチの農園経営者が人集めに訪れ、島民たちをタヒチ島の農園で働く者を募った。
圧制を強いていた暴君は島民の誰かにより殺害され、宣教師たちが島に戻る。
古い習慣となってもはや遺物となり果てていたコハウ・ロンゴ・ロンゴという文字の書かれた板が焼かれ、
キリスト教を布教した。
1888年、イースター島はチリ領土となる。イースター島の旗は前記述とは異なる。
1897年、畜産会社の経営者により巨石を支える台座を壊し、その石板で家畜小屋を作った。
コンティキ号で訪れたノルウェー人考古学者トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)がモアイを発掘、再建。
彼の考えたモアイの建て方でモアイが立つかどうか、実験したモアイは。ホツマツア王のモアイ(Hotsumatsua)と名付けられた。
コンティキ号は1947年4月28日に5人の仲間と1羽の鳥のオウムと共に出航し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。
日本の香川県高松市に本社を置く株式会社タダノが、
1992年、島南部のアフ・トンガリキにある15体のモアイ像の復元・修復などを行い、使用後のクレーンなどをイースター島に寄贈した。
チリ海軍が協力した。
これはTBSのテレビ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』で、1988年の秋にイースター島を特集した際、
「クレーンがあれば、モアイを元通りにできるのに」という知事の声を放送したところ、
テレビ番組の出演者である黒柳徹子が「日本の企業が助けてあげればいいのに」という内容の発言をし、それをタダノの社員が見ており、社長が話に乗ったのがきっかけである。
日本の大阪万博のチリ大使館でレプリカのモアイが設置された。
1985年に奈良県天理市の市庁舎が完成し「わかくさ国体」も同年に開催されチリ国のラ・セレナ市から市庁舎へ記念としてチリ国で作られたモアイが送られた。
そして観光地として訪れる人が後を絶たない島には畜産の他、土産物などの産業が盛んになった。
「エンパナーダ」(empanada)(empanada gallega)というインド料理のナンとサモサの中間のような同等のパンが主食となってる。
半円形、もしくは折り畳んで食す。
他は各種シーフード料理やマグロ料理。