ダッと投げ売り損をした?

クルマにゃ乗らない41000おまけ


 思えば、自動車と云うモノに縁の薄い人生であった。親父は新聞屋の通信員として高度経済成長たけなわの豊田市(まだトヨタ市になる前だったか)に駐在していたと云うのに、自動車には乗らず、ベンリィ90か何かを走らせていたくらいなので、自家用車などと云う気の利いたシロモノはとうとう持たずじまいであった。

 私も親元同居を二十数年続けていたので、自動車の必要性など感じていなかったし、ましてや現在の在所で自家用なんぞを持とうと思ったら、総督府の家賃以上の駐車場賃借料を払い続けなければならない。そんな真似をするくらいなら、もっと広い所に引っ越すか、資料置き場を借りた方が利口と云うものである。


 大日本帝国をやっていた時期の日本人と云うのも、今の私と同じで、自家用車には縁遠い生活を送っていた。しかし商業用、軍事用としての自動車の有り難みは世間に知られていた事は確かであって、軍用自動車保護法などと云う産業振興を行っていた事は有名である。
 まあ自動車産業史を語る事は、主筆の手に余るので、とっとと今回のネタ紹介に走ってしまうのだ。

 「国際写真新聞」(同盟通信社)の広告である。昭和13年1月5日号。南京制圧を敢行し、ある意味帝国日本が一番調子の良かった時期であった。
 要は、中国との戦争が泥沼化する前には、こうやって自家用車の雑誌広告が掲載される程、日本は豊かだった、と云うだけの話である。戦争が終われば自家用車が売れる、とふんだわけだ。

 お嫁入りの箪笥代わりに

 坊やのお寝言

 この部分だけ見ていると、まったく戦争と云うものを感じさせない。調子に乗らなきゃあ万博にオリンピック、そして自家用車の時代が30年近く前に、すでに手が届いていたのである(除プロレタリア)。

 こちらは昭和13年6月20日号のもの。郊外、といってもこの時代であるから、東京で云えば中野か三鷹あたりを想定しているのだろう。俸給生活者の夫と妻、そして子供二人「まあっかあなー薔薇とー白いーパンジー」と、つい歌い出したくなる光景である。

 応接室に”国際写真新聞”といったようなものです!

 と広告掲載紙におべんちゃらを使う事も忘れていないのも立派なものである。

 ところが!昭和13年7月5日号になると、いきなり

 ガソリン節約の国策線上を走る

 と云う時局対応型広告に早変わりしてしまうのであった。「郊外生活に…」とあった次の号でコレでっせ!本誌の前号の特集が「夏山の魅惑」だったのが、この号では「代用品時代」と云う変わり身である。これだからマスコミは信用ならんのである。
 その理由は簡単で、支那事変の切り上げ時が判らなくなってしまったため、シビアな国家体制を確立する必要が出てしまったからである。まだ武漢三鎮は陥落していない。


 ちなみに当時の値段が「値段の風俗史 上」(朝日文庫)に掲載されている。
 ダットサンの17型と云うタイプが、昭和13年で2400円。ちなみに昭和12年11月の「アサヒカメラ」の広告に出ていた、コンタックスのゾナーF2付きは1345円である。昭和11年のダットサン15型が1900円なので、舶来カメラ+国産高級カメラで、国産小型乗用車が一台買える勘定になるわけだ。

 「値段の昭和史」によると、昭和13年にやきとり一本が10銭で買え、12年に都心で天丼を一杯食べると40銭。10〜15年にオールドパーの水割り(シングルかダブルかは不明)が1円30銭であったそうな。ちなみに第一銀行の昭和12年における大卒初任給が70円。ヒマな人は、今の貨幣価値に換算して遊んでみるのも一興であろう(今回は、なんてタメになるページなんだ!)。

 蛇足ではあるが、永井荷風大先生が、名作「墨東綺譚」の原稿料として、朝日新聞社から昭和11年11月17日にもらった小切手の額面が2400余円である(「「断腸亭」の経済学」吉野 俊彦 NHK出版)。小説一本でダットサン一台、高いのか安いのか…。

 ここで終わっても、充分ネタなのだが、先日河口湖自動車博物館に出かけた際、ダツトサンの実車が展示されていたので、おまけのおまけとして掲載する。

 河口湖自動車博物館のダットサンコレクションの一台。こんなクルマと「墨東綺譚」の原稿料がほぼ同じ、と云う事は覚えておいてまったく得は無い(笑)。

 同コレクションより。これがアナタやきとり10000本ですよ…。

 あなたの坊やが寝言で「だっとさん…」などとオソロシイ事を云い出さないうちに本稿を終了する。ああ独身でよかった…。

これが嫁入り道具、お父さんも大変だ