これは「スニーカーソックス」ぢゃあないか! な58万5千おまけ
「猛暑」にも厭きた。
クーラーの無い(註・2011年8月現在。来年こそは『冷房ナシで一夏過ごしたなんて、今ではウソのようである』てな事を書いてみたい)総督府で日中過ごすのは、命を削るのに等しく、さりとて靴を履いて出歩く気力もないので、素足に草履ひっかけ近所のファミレス・喫茶店で「避暑」に行き、夕方から「暑気払い」の自堕落な暮らしぶり―会社が休みの時だけですよ―をしている。それでは毎月のネタに困るので、デパートの「夏の古書市」には、ちゃんとクツ履いて出かけておくのである。
そこで買ってきたのが、 「福助足袋の六十年」(福助足袋株式会社、昭和17年)と云う本、『社史』ですね。
3千ナンボと手頃な値段―見返しに『350』のラベルが貼られていたが―だったのと、中を見たら「別珍の足袋」―山本夏彦が、向田邦子の体感していた『戦前』を語るさい、必ず出てくる(※1)―の話が書いてあったので、ツイ手が出てしまったのだ。
足袋商人から身を起こし、足袋製造の機械化によるコストダウン・大量生産の確立、堺と云う地域から、九州・関東はては朝鮮・中国まで販路・製造拠点を展開するまでになった『社史』は、創業時の苦労、震災、天災への対処と商戦への工夫が記された、とても面白い読み物になっている(その後2003年に倒産したものの、新会社として再生し、ブランド自体は健在)。
そこにちょっと驚く記述があったので、それを今月のネタのあてにしようと云う次第。例によって仮名遣い等をなおしてある。
男子の白足袋の流行についで、おもしろい風俗が現れた。それは、深さが本当の足袋の半分よりもない、アンダー足袋を穿いた人々で、十四年(註・大正)の夏頃から、二三年つづいて、毎年夏になると、このアンダー足袋姿が、町をヒラヒラと行くのであった。
アンダー足袋は、もと福助足袋会社が、他から権利を譲受けたもので、本来は、文字通り「アンダー」―足袋の下穿きに用いるもの、アンダー足袋を先に穿いて、それから足袋を穿くと、脂足の人などのためによく、又足袋の耐久も倍加するという便利と経済から生れたもので、独立して穿かれるつもりのものではなかったのである。しかし、流行の力は物凄いもので、これを下穿きとせず、アンダー足袋だけを穿いて、足を上半分現し、よくいえば涼しそうに見える、素足がわりの足袋として用いられたのである。
「妙な足袋が流行りますね」
「あまり品のよいもんぢゃありませんね」
こんな噂が屡々聴かれた。しかし一部の人々に限られつつも、万里同風、全国到るところ、このアンダー足袋の流行の波紋は拡がりわたったのだった。
「深さが本当の足袋の半分よりもない」と云う記述を読んで驚いた。
「スニーカーソックス」―くるぶし丈の、若者と若者の格好を好む人がスニーカーからチラリのぞかせている靴下―そのまんまではないか!
「スニーカーソックス」がどんな理由で、何時から売り出されたのか調べる手立てが無いので、両者が本質的なところで同じものなのかは解らぬが、風俗としての有り様は等しい。
「アンダー足袋」とは、何の芸もひねりも無い名前だが、どう呼べと云うのかと問われれば、やっぱり「アンダー足袋」としか答えようのないところが、(やや軽侮を含めた意味で)「モダン」である。
余所から買ったパテントが、知らぬ間に風俗を作ってしまう(本文を読む限り一時の流行で終わったらしい)ところも現代的で面白い。
(※1) 手もとにあった、「誰か『戦前』を知らないか」(文春新書、1999年)では、
「福助アンダー足袋」(実用新案第七二七三二号)
(略)常には妻は亭主の靴下を電球にかぶせて穴かがりをしている、家(うち)では別珍の色足袋をはいている
(略)金持は別珍の色足袋なんぞ穿かない。
と語られている。主筆は「昭和元禄」の生まれなので、このへんの機微が全然わからなくて困る。
(おまけのおまけ)
先に引用した部分の手前では、「白足袋の流行」が語られている。
男子が礼装に白足袋を穿く事は以前から常識となっているが、明治年間には、男子でもふだん穿きに白足袋姿がよく見受けられた。ところが、大正に入ってからは、稀に商店の人々の間に見受けるだけで、一般には、男子は「紺」と限られるようであった。殊に東京では、紺キャラコが最も通人好みとされていた。繻子足袋が出るようになって、黒と紺と二種があり、関西では、この黒繻子が一番喜ばれていたが、流行は繰り返される、大正も末になってから男子の白足袋がまた街頭に目立ち始めた。基地は大阪、やがてそれは全国に拡がった。
福助足袋の広告は、ここぞとばかり「男子方に白足袋が流行る」と打って出た。果して益々白足袋が目立ってくる。大正十一年から十二年にかけて男子の白足袋は清楚と人柄と、洗濯が利いて経済という特色を称えられつつ素晴らしく流行った。足袋が白だけにこの流行はよく目立った。その大部分が福助足袋だった事はいうまでもない。広告課では、
「あの白足袋が、一目みて福助だとわかるようなしるしは、つけられないものだろうか」
などと、冗談のような、本気のような話をしていたものである。
尖端足袋商人は、今日のスポーツ用品メーカーが出している、「商標のワンポイントを付けた白Tシャツ」の、すぐ近くまで来ていたのであった。
「大正モダン」侮りがたし。
(おまけのおまけのおまけ)
別珍足袋の「流行色」について、「福助足袋の六十年」は以下のように綴る。
昭和六年から、百貨店からの好みによって、薄色物が出るようになった。百貨店のこの好みは、婦人の半襟の好みから割り出したものであるが、半襟の色の流行と色足袋の流行色が一致して行くという事も、自然の勢いか、百貨店のつくる好みか、何れにしてもおもしろい移りかわりである。
(略)昭和九年には、別珍足袋の底が、今迄のような白底から、共底に変わってしまった。足袋の底は前から白でなければならないようになっていたが、大衆の要求は遂に共底―表の色と同じ色の底―にしてしまったのである。
地味な色しか無いんだろうと思っていたら、さにあらず。
別珍足袋の色見本