黄色の研究

「汲取便所」で64万おまけ


 古本と、古い建造物は良く似ている。
 どちらも年月を経ているのは当然だが、内容だけでなく見た目の美しさでも評価される。たとえボロボロでも「現存する」こと自体に価値が見出されるものもある。天災人災で失われる。まだ使えるのに持ち主の都合で廃却される所も同じだ。
 しかし、動産・不動産の差は大きい。古本は持ち主を替え、あるいは図書館・美術館・研究機関に引き取られ、補修を受け後世に引き継がれるが、建造物の多くは余程のことがなければ、あっさり更地になってしまう。「いつまでもそこにあるとは限らない」のは、古本屋の本も同じか。

 古書店で手に取って読める程度の古本なら、奥付を見ればいつ頃のものなのかを掴むことが出来る。しかし、目の前の建造物がいつ建ったのか、通りがかりの人間が知ろうとすると、かなり難儀なことになる。
 著名な建物は、それ自体が観光名所と化しているし、そこまでの大物ではなくとも、門前に案内板があったり、「路上観察」の対象物として本や雑誌に取り上げられるものなら、それが何で、いつ造られたのかを知ることが出来る。しかし、そこからもこぼれ落ちる古商店や古住宅、古医院など、市井に息づく建築物が何歳なのか、道行く人の年齢を言い当てるような困難がある。
 商店、医院など商売をしているところであれば、掲げてある屋号の文字の向きを見たり、近所の、ものの本に載るような建物を参考にしてアタリを付けることも出来るが、そう云うものが無いと、「戦前に建った古い家」と「昭和30年代に建った古い家」の区別がつかない。

 自分が住むわけでもないのに、年代を気にして何が良いことでもあるのですか、と尋ねられても、気になるんだから気になるんだ、としか答えようがないので困る。

 そんな思いを抱きつつ、街歩きをしているうちに思い当たったのが、玄関の電灯である。


都内某所

 今時であれば外に一つ、中に一つと電灯を惜しまぬところを、一つの電灯で、玄関の外と中とを照らす、倹約(ケチ)な仕掛けだ。これが備えてある家の外観は、概して古い。

 しかし、古住宅を色々見て廻ると、見た目は時代がかっているが、この仕掛けを持たぬものも多い。戦時中、昭和18(1943)年刊行「戦う国民住宅」(宍戸 修、聖書房)には、

 (略)現時局下に於ては、従来のように居住室及び生活室の各室に十分な電燈の設備をなす事は到底不可能で、燈数の減少は不可避である。(略)燈数は小規模の住宅では一戸一燈又は二燈程度として、間仕切壁の一部に明かり取り窓を設けて他室に兼用を計り、便所玄関等は無燈で辛棒(ママ)しなければならない。

 と、スゴイ事まで書いてある。

 昭和19年刊「住い方の研究」(佐藤 次夫、乾元社)で紹介されている、『臨時日本標準規格第246号』の「第二号住宅」(三畳・四畳半・炊事場・便所)、「第三号住宅」(三畳・六畳・炊事場・便所)では電灯設備は一灯のみで、「第四号住宅」(三畳・三畳・六畳・炊事場・便所)、「第五号住宅」(四畳半・四畳半・六畳・炊事場・便所)で、電灯は二つになるとある。部屋数マイナス1と云うことか。


第二号住宅(四戸建)


第四号住宅(二戸建)

 どちらも、便所に電灯がないので、隣接する三畳間に付けられた明かり取り(図で白抜きされたところ)を使うようになっており、夜中に大便する際、ひじょうな不便を強いられることになる。
 これでは「玄関上の電灯」どころではない。しかし、戦時中の住宅規格と云うものの存在を知ることが出来た事は、古建造物見物道楽上、大きな進歩だ。あとは現物を見つけるだけぢゃあないか。
 と云うわけで、そう云うものがありそうな所へ、行き当たりばったりにあちこち歩いてみた。古くて小さい住宅は探せば案外見つかる。


都下某所


埼玉県某所


都下某所

 休日を使ってあちこち(日帰りできる範囲で)歩き廻ったものである。おかげで「兵器生活」本編更新に支障をきたしてしまい、今回のネタとなったことは、ここだけのヒミツだ。
 しかし、これらがそう云う住宅なのか、正直良く解らない。

 これではラチがあかぬので、行く古本屋を替えることまでする。
 そこで見つけた、「新建築」昭和17年10月号に、戦時中(さきにふれた『臨時日本標準規格246号』制定以前)に建造された『労務者住宅』の写真を見つけ、小躍りして買う。


東京市板橋労務者住宅



相模原神奈川県営住宅2号型外観

 似てると云えば似てる、違うと云えば違う。何より、戦時中の建築雑誌に掲載された写真には、「臭突」―便所付近の地面から突き出している、汲取便所の臭い抜き―が無い。
 戦前「臭突」が無かったわけではない。手持ちの資料には「ベンチレーター設備」「臭気抜管」等のことばではあるが載っている。
 この雑誌には、「労務者住宅」の便所などの図面が掲載されている。


両用便所図面

 両用便所詳細である。
 。『汽車便所』とも呼ばれる大小両用便所(『一穴式』とも称される)だ。竪板張り部分の中央、床面「.30」(30センチ)の高さに『きんかくし』(和式便器)が据えられる。床下に埋められるのが『下須瓶』(屎尿を受け、貯蔵する瓶)である。見ての通り『臭突』は描かれてない。


 便器の下、点線で描かれているのは『汲取口』だ。当時はバキュームカーが無いので、ここから柄杓を差し入れ瓶に溜まったモノを汲み取る。「汲取便所」の由来である。屎尿の側から見れば「貯留式便所」なんて呼び方をする。と云うわけで、汲取口は便所の壁面に開口することになる。

 ところが、さきにお見せした現存古住宅(臭突装備)の汲取口は、




 ご覧の通り、地面と平行に配置され、蓋のカタチも円形だ。汲み取り口が便器の外側に存在している、と云うことは、糞尿溜まりがそれだけ大きいことを物語る。なぜ大きくなるのか?


 キーワードは「改良便所」だ。
 「和洋図解 住宅建築と其の設備」(昭和14年、時事新報社)収録「日本便所の改造法」(高野 六郎)では、日本の便所がこう語られている。

 従来の吾が国では便所を大部分放任の有様で、不衛生と云う前に、まず不愉快な場所と云う観念が先に来る位です。試みに便所へ行って―見なくとも誰も気づくように、臭気は絶えず漂い、汚物は上から全る見えで、蛆の蠢動がそれと手に取れる有様です。

 (略)米国に長く住んで居る日本人から来た手紙の文中に「日本国民は清潔を好むなどと云われて居るが、実際は世界一不潔な国民と思います。其の証拠には日本人の便所を見れば解るではありませんか(略)

 ここまで云われる汲取便所は、早く西欧列強の大都市同様、水洗便所に改めたい、しかし下水道―汚水処理まで含める―が整備されぬまま川・海に垂れ流しでは、かえって疫病のもとになる。農村部では屎尿を肥料にするメリットは捨てがたい、そんな想いの中で生み出されたのが「改良便所」なのだ。

 「新らしい構造図解 台所浴室及便所設備」(昭和13年、増山 新平、大洋社)には、そんな「改良便所」のいくつかが図示されている。

 これは大東商会が20円内外で売り出したもの。
 糞尿溜を上に延ばして便器と密着させ、汲取口も鉄蓋で密閉できるようにしてある。「臭突」を差すの穴も備えてあり、便器に蓋さえしてあれば、臭いが部屋に漏れてこないと云う仕組みである。

 これなら「不愉快」は解消されようが、使用者の排泄物に含まれる病原菌・寄生虫卵は、生きたまま汲み出され、「畑のこやし」になる危険が残る。そこに踏み込んだのが、「城口式大正便所」だ。俗に云う「大正便所」がこれである。


 この特長は、排便管を細くして、便器下方からの風の通り抜けをなくし、便槽を便所の外側まで拡大し、かつ溜まった屎尿を汲取ライン(『汲取』と書かれているところ)までしか取らぬようにしている。出したモノが大きい便槽に滞留しているあいだに、糞便の腐敗液化、病原菌・寄生虫卵の死滅を計るのだ。設置費用150円程度。

 「便所の進化」(昭和16年、高野 六郎、厚生閣)と云う本では、

 十二指腸虫及び総ての病原菌を撲滅す
 汲取は三月目毎に一回位にてよし
 便所内より冷風の上昇する事絶対になし

 等の、当時の宣伝文句が載っている。
 しかし、汲取人が底まで浚ってしまえば、大東商会の便所と大差がないし、「上澄み」を取る際に新しい―危険な―糞便も一緒に掬ってしまうこともある。そこを改良して出来たのが、「昭和便所」である(註:この図版は『便所の進化』掲載のもの)。


 排便筒を湾曲させて糞便を溜める「トラップ」とし、新しい屎尿が汲み取られないようにしている。よって「大正便所よりは一段と衛生的である」(『便所の進化』)。


 「文化住宅」「文化包丁」は良く知られた名前だが、「文化便所」も実はある。


 富澤工業所製。

 大正便所とその趣旨は同じであるが、ガラス板を以て汚物落下の方向を片寄せて跳ね返しを防いだことと、上部より汚物が見えにくいように工夫したことなどが異なっている。

 「改良便所」もこのように色々種類があるが、真打ちは、内務省直々に考案・普及をはかった便所―「内務省式便所」だろう(註:この図版も『便所の進化』掲載のもの)。


 さきほどから名前の出てくる「便所の進化」の著者、高野六郎その人が、考案者である。

 大正12年に内務省衛生局に入り、「日本の消化器伝染病と寄生虫病を一挙に解決する策は汲取便池の改良の外に途がないと信じ」糞便中の病原菌・寄生虫卵が、春夏秋冬それぞれ何ヶ月で死滅するものか研究を重ね、おおむね三ヶ月を経過すれば、死滅するとの結果を得る。
 これに基づいて便槽の大きさを定め、古い糞便だけが汲取槽に流れていくよう、4枚の隔壁を設けた便槽を考案したのだ。隔壁により寄生虫卵等は沈殿し、「汲取られる液体は外観的にも清らか」になる。
 「新らしい構造図解 台所浴室及便所設備」の記述によると、昭和2年4月に内務省防疫課からパンフレットの形で発表され、汲取便所を衛生面から改善したとされる。

 この内務省式便所、カラクリを読む限りいいことずくめなのだが、工期・費用が、瓶・壺一個埋めてオワリの従来型便所よりもかかるだろう事はシロウト目に見ても明らかである。しかも、実用が進むにつれて怖ろしい欠点が明らかになって来る。
 これについては、「便所の進化」中の考案者自身の言葉を引こう。

 便池は密封され、(略)蠅も光線も風も入らぬようになって居るのである。唯汲取マンホールだけが、必要の際にのみ開かれるという構造なのであるが、段々此の便所を実用に供して見ると、何分便所の内には屎尿の外に紙片や綿片や色々のものが落下し、此等のものは必ずしも容易に分解液化しないで、或は沈み或は浮かび、それが漸次量を増し、液状流動の余地を少くする傾がある。即ち有形物を以て便池内を占領することとなると、便池の効果が減ずるのみならず、甚だしくなると便池内が梗塞し、詰まってしまうことになる。便池が文字通り糞詰りとなったのでは始末がわるい。よって、常時汲取用のマンホール以外に、非常用の掃除口が必要となった

 内務省のエライ先生が考案した便所だから、と真っ先に飛びついた先進的衛生思想の持ち主が、一番大きな迷惑を蒙ったことになる。
 便器側からも、汲取口からも手の出せぬ詰まりの原因―脱脂綿(今日の生理用品)、おむつ(もちろん布製だ)を取るには、便槽の天井・隔壁を壊さねばならぬのだ。

 改良便池を作って見て最大の支障は便池のつまること、従って汚物が便器の方へもれ上がって来ることであった。殊に第一室が比較的狭く、そして落ち込むものに綿や襤褸片などが多い場合には可なり屡々迷惑を感ずるのである。よって今後の便池改築には、適当の位置に必ず非常掃除口を設けることを忘れないようにしたい。煙管だってやにで詰まるのであるから、便池がつまるのは当然である。

 内務省式改良便所発表から、すでに10年以上が経ち、相当苦情が(それなりの立場の方々から)寄せられたのだろう。高野センセイ、完全に開き直ってます。

 城口式大正便所が世に出た頃、高野六郎は考案者、城口権三から実地に説明を受けている。その際高野は「もう一歩進めて衛生的に更に安全を確保するよう」希望を述べ、「汲取槽中に更に一枚の隔壁を設け」れば良いと提案までしているが、「城口氏が之を採用しなかったのは実用上の便益を主としたためだろう」と書いている。糞便の詰まった便槽を破壊するのは、色んな意味で大変そうだ…。


 便池・便槽に隔壁をつけ、屎尿が室間を移動する間に無害化させる便所は、「内務省式」以外にもある。


 大阪須賀商会考案の、こちらも「昭和便所」―城口式とは異なる―がそれである(図は『新らしい構造図解 台所浴室及便所設備』掲載のもの)。内務省式との違いは隔壁の数と、便槽の構造だ。断面図には非常掃除口がシッカリ描かれている。設置料金は140円内外。


 隔壁を設け、糞便を長期保存・無害化して汲み取らせる便所は、なんだかんだで戦後の厚生省式改良便所にまでつながっている。


 この図は「回虫の生態」(昭和28年、編集:野田 真吉、解説:長野 寛二、岩崎書店)掲載のもの。
 結局、無害化までの3ヶ月を汲み取らせない、と云う前提が守られ、かつ古い屎尿と新しいものが混ざらなければ、隔壁の数はここまで減らせるのである。高野センセイ自身「四枚隔壁を標準とし、更に省略して二枚でも役に立つ」と「便所の進化」に書いているのだ。

 くどくどと、汲取便所改良案の数々を紹介してきたが、本稿においては「地表面の汲取口は『改良便所』」を導く過程に過ぎない。
 歩いて探した古住宅の便所は「改良便所」である。戦時中建設された「労務者住宅」の便所は、従来型便所だ。改良便所は戦前から考案・設置されているが、支那事変が始まって一年たった時点での値段が150円前後、普及の度合いは疑問である。
 大東亜戦たけなわの昭和18年刊「戦う国民住宅」では、

 水洗便所が全然望めない今日、汲取便所の改良案は種々ある様であるが、改良便槽は中々理論通りに働かないもので、筆者の経験によれば、改良便槽は普通の下須瓶の場合よりも悪い結果を体験して居る。
 即ち普通の汲取便所は、少なくとも月に一回か二回は汲取るので、蠅の幼虫なども一緒に運び去られるのであるが、改良便槽は同一汚物を長期間滞留させて置くので、その臭気が甚だしく、又蠅の発生が多く却って不衛生であった。

 酷い云われようである(『臭突』を付けなかったのか?)。
 住宅の土台に使うセメントを極力少なくする(昔に戻って玉石を使うのも止む無しとしている)時節柄、たかが便所一つに贅沢だと思っているのだろう。

 ともあれ、たいていの庶民住宅は従来からある、汲取便所を使っているものと見て良いことになる。必然的にあちこち見て廻った古住宅は、戦後のものとの一応の結論が出て、減った靴底はもはや還らないのであった。


 こうなると、住宅の壁面にある汲取口が見たくなってくるのは必定である。
 と云うわけで、小金井公園の「江戸東京たてもの園」に行ってきた。


 「万徳旅館」の外便所。建屋本体は、江戸時代末期から明治初期の建造とされる。便所がいつのものかは、パンフレットには書いてないので、ここには記せぬ。

 
 汲取口からカメラを差し入れて中を撮る。現役の便所相手にこれをやる度胸は…無い。中央にあるのが下須瓶になる。ちなみに、大正9年の市街地建築物法施行規則で、

 糞尿壺及尿樋は不滲透質の材料を以て造り、糞尿壺の上口周囲は厚三寸以上のコンクリートを以て漏斗状に作り、不滲透質の材料を以て上塗を為すこと

 と定められているのだが、ちょっと「漏斗状」には見えない。


 これは吉野家住宅(江戸時代後期)




 こちらは「八王子千人同心組頭の家」(江戸時代後期)

 汲取口は、ドロボウの侵入口になる、と云われているが、実際の現物(移築・復元にあたり新造してるんだろうが)を見るとアタマ一つ入る程度の大きさでしかない。本当に汲取口から侵入した盗人があるのか、興味が湧いてくる。

 つづいて看板建築地帯の「花市生花店」(昭和2年)。フタが失われているのが惜しい。


 この中を撮影すると、巨大なコンクリの空洞になっている。どう云う形式の便所だったのか、気になっているのだが、現時点では不明としか書けない。



 川野商店(大正15年)の口は小さめ。ちゃんと汲取れるのか心配になる。


 半日かけて園内を廻ると、おおむね汲取口と蓋の形状が見えてくる。
 「臭突」をつけた建物が見当たらないのは不思議だが、移築時点で汲取式便所を使っていた家が無かったから、復元するのを忘れたか、そんなモノは所詮ハイカラ人士が付ける程度の普及率であったと考えるしかない。


 今まで見たのは東京都にあった建物ばかりであるから、まだ汲取口を語るのは早計だ。そこで川崎市の「日本民家園」にも足を延ばしてみる。

 ところが、日本各地の民家を移築している民家園ではあるが、対象となる「民家」が、そもそも便所が屋内に無かったり、移築にあたり便所のある部分は置いてきたりしているので、サンプルの数は「たてもの園」より少ない。


 千葉の網元の旧作田家住宅便所(17世紀)。蓋の取っ手が中央ではなく、上下に二本付けられている所が「たてもの園」の汲み取り口と異なっている。



 続いて旧小泉家の外便所の裏側。パンフレットには記載されてないので年代が記せないのだが、大便所の扉が下半分しかない、江戸時代スタイルを残している(中の便器は白色陶器の『きんかくし』だが)もの。


 改良便所同様、汲取口は外に出ている。開口部を大きく出来るから、汲取る側から見ても、この方がラクなのだろう。




 文字通りの「臭いものに蓋」。
 写真手前に見える茶色の物体は大便ではなく、撮影者のクツである。



 汲取口が存在しない便所だが、汲取便所の古い形式なので、旧工藤家外便所(昭和12年のものを再現とある)もご紹介しておく。


 大瓶の上に踏み板を這わせただけと云う、都会人なら、むしろ野糞を選びたくなる逸品だ。江戸時代の庶民便所も似たようなものだったのだろう。
 ここから内務省式改良便所に至る道のりの長さ―高野六郎に云わせれば、人々の「無関心」―に溜息が出てしまう。
 だいぶ長くなったので、整理する。

 汲取便所の原初は地面に埋めた瓶・壺である。これが家屋の中に取り込まれ、内便所となれば、壁を切り抜いて汲取口を設けなければならない。

 汲取便所の存在は住宅設計/都市計画上の大問題なので、便所の配置に留意するのみならず、衛生上の対策が求められる。根本的解決方法は、西洋同様の水洗化であるが、戦後に至るまで下水道の敷設は進まず、浄化槽(『水槽便所』と呼ばれる)か、「改良便所」かの選択を迫られる。

 「改良便所」は、臭気が漏れぬ工夫をしたものと、糞便中の病原菌・寄生虫卵撲滅までも目指すものに大別される。
 寄生虫等撲滅には3ヶ月大便を溜め込む必要があるため、便槽は大型化し、汲取口は便所壁面から隣接する地表面―実際はコンクリを盛った所―に移動する。

 「改良便所」の設置が強く奨励されたかは疑わしい。住宅営団が設計した「労務者住宅」は従来型汲取便所であり、「改良便所」を否定する言説すら存在する。

 「改良便所」は戦後も継続する。

 こうして、古住宅の古さの目安として汲取口は極めて有効であるとの考えを持つに至る。
 あとはサンプルの採集を続ければ良い。

 
 都内某所の古住宅の汲取口。口の縁・蓋までがコンクリ製と云う、よそでは見かけない珍品である。




 小金井公園の近くで発見したもの。汲取式便所と云う暗い?過去に、口をつぐむ一例。21世紀になって早10年を超えた今、汲取口がそのまま残っている事は滅多にない。




 ベッタリ口を塞ぐのみならず「臭突」も切断してしまった例。汲取口の塞ぎ方もさまざまだ。


 こうして散歩の際、古い家を見かけると汲取口を見る習慣がついてしまったのだが、昭和30年代頃の集団住宅あたりは別として、街中の一軒家であれば、塀・生け垣が敷地を取り巻いているのが普通だ。便所は道から少し奧にあり、今では汲取業者が来ないのだから、そこは自転車等の格好な置き場所になっているのだ。

 つまり、古い家があったと喜び勇んで近寄っても、汲取口(跡含む)が見える家なんて、20軒に一つもあれば良い方、と云うキビシイ現実が待っているのだ。
 さらに、こうしてフィールドワークと文献調査(大袈裟に書いてます)を続けるうちに、昭和30年代に建った団地が建て替えられつつある昨今、そもそも戦時中の「労務者住宅」(とそれに類する住宅)が、東京都内に残っているんだろうか? なんて根本的な疑問まで湧いてきてしまったのだ。自分のやってる事に疑問なんか持ってしまったら、先は汲取便所の穴同様、お先真っ暗である。

 これを「ドツボに嵌る」と云う…。

(おまけのおまけ)
 今回のネタのために買ったわけではないのだが、「回虫の生態」を読むと、高野六郎が「改良便所」を、「大正便所」のように妥協的なものにはしなかった理由がわかる。


 日本脳炎で死んだと思われた少年の頭を解剖してみたところ、回虫のためであることがわかりました。

 脳味噌からピンセットでつまみ出されているのが、回虫である。これ以外にも盲腸、肝臓、顔の骨の中にいた回虫など、怖ろしい写真が載っている。
 病死した人を解剖してみると、死因とされた病気ではなく、実際は回虫が原因だったケースがいくつも見られたと云う。
(おまけのおまけのおまけ)
 本稿のために、便所の本をいくつか買い、手持ちの建築関係の雑本をひっくり返して見たのだが、汲取口の写真はおろか、図も載って無い。日々使っているけれど、やっぱり近寄りたくなかったんだろうなあ、と思った次第。

 最後になるが、引用部分は例によって例の改行、句読点の追加などを施してある。