空が取り持つ海と陸

用途不明の刷り物で66万9千おまけ


 陸の帝王ライオンが、海の王者イルカと攻守同盟を締結する。これで世界に敵はないと思っていが、我が身に危機が迫ったその時! イルカに助けを求めても、彼は水から出てこれず…。どこかの国の安全保障条約ではなくて、昔読んだイソップのお話です。


 骨董市に行ったら、こんな刷り物を見つけました。


 左に海軍、右には陸軍が勇ましく活躍しています。どことなく素朴な感じのする画風は、日清戦争の錦絵のようですが、近寄ってよーく見ますと、


 軍艦には立派な檣楼がそびえ立ち、空には飛行機まで飛んでいて、


 陸軍の兵隊さんは、みんな鉄兜をかぶっているじゃあありませんか。

 どう見ても明治時代後半の帝国陸海軍ではありません。昭和の御代に入ってなお、こう云う絵が生き残っているなんて、時代錯誤だなあと買ってしまいました。
 しかし、近代的軍艦と鉄兜だからといって「昭和初期」と云い切ってしまうのは、いくら「兵器生活」でも軽率に過ぎるような気がしますので、ちょっとばかし考えてみましょう。

 軍艦の檣楼と煙突のカタチから見ますと、煙突を改修する前の戦艦「長門」「陸奥」のようです。


ウィキペディアにあった新造時の画

長門の竣工は大正9(1920)年、陸奥は大正10年です。前の煙突は煙が邪魔になると云うので、湾曲した形態に改修されてしまいます。


湾曲煙突となった長門

 戦前の一般国民に親しまれた姿は、こちらの方になります。
 軍艦の形状から考えてみますと、あの絵でも大正時代中期と見ざるを得なくなります。明治後期−大正中期の20年くらいであれば、「古い」描き方が継続していても不思議ではないと思います。

 陸軍の方はどうでしょう。
 昭和3(1928)年の済南事件―金丸中尉の活躍で「兵器生活」読者にはおなじみの―当時刊行された、『済南事変画報』(刊行も同年)に、


「済南で活躍したわが軍の装甲兵」

 と紹介されるくらい、昭和初めの鉄兜は、モダーンな「新兵器」なのです(のち兵器から被服にカテゴリが変わり陸軍では『鉄帽』と呼ばれることになります)。
 軍艦が大正時代で、兵隊さんは昭和の組み合わせとなりますと、大きな断層があるような感じを受けますが、大正10年と昭和3年の間は8年です。これを12歳と20歳の年齢差と見るか、38歳と46歳の(もはやドーデモ良い)差と見るか、正直悩ましいところです(笑)。

 鉄兜はいつから用いられるようになったのでしょう。
 大正3(1914)年から7(1918)年に至る欧州大戦で、列強が鉄兜を採用したことを、帝国陸軍が見過ごすはずはありません。
 アジア歴史資料センターで公開されている文書を見ますと、シベリア出兵が始まる大正7(1918)年に、「鉄兜製造ノ件」( C03011075100)があります。「鉄兜二万箇至急製造ノ上陸軍兵器本廠ヘ引渡スヘシ」とあります。大正7年7月15日付「鉄兜送付の件」(C07060501000)では、「第七師団及歩兵第四十旅団応急準備用トシテ試製鉄兜左記ノ通送付方取計フヘシ(略)関東都督府陸軍兵器部へ七〇〇〇個 龍山兵器支廠ヘ三八〇〇個」の記述がありまして、2万個造らせたうちの1万800個が送られたことになります。
 であれば、軍艦も兵隊も大正時代と判定できます。問題は絵師がそれを見ることが出来たのかどうかです。

 当時公表されたシベリア出兵の写真を見れば、鉄兜が写っているに違いないと、国会図書館がインターネットで公開している写真帳をいくつか覗いてみたのですが、残念ながら見つけられませんでした。送りつけてはみたものの使われなかったのか、重宝したけれど機密事項として撮影が許されなかったのか、そのへんの事情はお手上げです。図書館内限定公開の資料まで目を通せば別な結果が出たような気もするのですが、残念ですが今回は時間切れでした。

 と云うわけで、この絵は「大正末期〜昭和初期」(1920年代後半)頃に描かれ、木版として刷られた事になります。明治後半の作風が昭和初めまで、30年くらいは継続していたわけです。考えて見れば、今のマンガ雑誌でも新人とベテランがそれぞれの画風を持って、誌面を構成しているのですから、明治な刷り物が昭和に作られていても、怪しむにはあたらないと云う、実に面白くもない結論になった次第です。

 作られた年代以上に、さっぱり見当が付かないのがこの絵の「目的」です。
 絵だけがゴロリとあって、画面のどこにも表題めいた記載がありません。下についていた広告を切り取った残りでもないのです。
 画面中央に日章旗と軍艦旗が交差して、上には鳳凰がいるのですから何かを言祝ぐためのモノではあるはずです。漠然と帝国陸海軍に向けられたものと解釈するしかありません。これが出来たのが昭和の初めと考えれば昭和3(1928)年の「御大典」(昭和天皇の即位)記念である可能性は出てきます。「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を絵にしたものと云うわけです。

 そうなると、こんどは軍艦の絵が古すぎるのではないか? と云う自己ツッコミが始まってしまうのですが、馬を並べる兵隊の襟が、歩兵の赤だったりしますし、古新聞・古雑誌をダーっと見始めたら、今月の更新が出来なくなりますし、そもそも「昭和になっても明治の絵は生き残っているんだなあ」と云う驚きが今回のネタ元なので、これ以上の追求はよしておきます。


 あらためて全景を見渡しますと、陸軍は大陸を駆け回り、海軍は日本近海で敵を迎え撃つ、国防の構図が伺えます。飛行機が戦場で活躍する姿を想像しきれなかったために、中央にとって付けたように描かれているのが面白いところです。
 飛ぶのが「活躍」とするしかなかったような飛行機が、その後20年足らずのうちに帝国の海と陸をしっちゃかめっちゃかにしてしまうのですから、世の中何が起こるかわかりません。

 「白頭鷲と手を組めば…」ライオンがそうつぶやいたとは、イソップの本には書いてありません。