大日本草刈選手権大会!

そんなモノがあったのかで69万3千おまけ


 古書店でこんな冊子を見つける。


『大東亜戦争ト草物語』

 予備兵力―ネタに詰まった時の即戦力―に使えそうだな、と思い値段を見れば、『この世界の片隅に』アニメ映画化応援クラウドファンディング(2015年5月29日迄)で、映画本編エンドロールに名前が載るコース+アルファな金額が記してある(これを見つけた当時はまだ、『制作準備進行中』だった)。
 しばし躊躇したが、「大日本草刈選手権大会発行」の文字だけでネタ一本書けるぢゃあないかと、大枚叩いて買ってくる。

 表紙を見る。
 刈った草を高々と掲げ雄叫びをあげる人物は力強く、灰色で印刷され、お月様かと思える背景が、よく見れば青い地球であることに気付くと、スケールまでも大きく感じられる(草刈だけど)。
 しかし、この表紙から内容をうかがい知ることは全く出来ない。

 と云うわけで、目次を見ていくと…
 ・大東亜戦争と草の利用(大日本草刈選手権大会会長 林銑十郎)
 ・大東亜戦争と草の利用展覧会(農民講道館々長 横尾惣三郎)
 「越境将軍」、「食い逃げ解散」の二大事業で、昭和戦前史では微妙な評価(おそらくはお飾り)の林大将と、実務を仕切っているのだろう、理事長を務める横尾館長の二人の挨拶に始まり、

 ・草の認識を深めよ(馬政局長官 岸良一)
 ・とり草(和田傳)※作家
 ・大東亜戦争と草の利用(軍馬補充部本部(河野岩次郎)
 ・草地の保護培養(農林省林業試験場 三井計夫)
 ・野草の食べ方(食糧協会 河田栄枝)
 ・草刈の歌
 ・草刈の歌振付
 ・本邦緬羊飼育の概要(農林省畜産課 惣津律士)
 ・薬草の話(厚生省衛生局技師 若林栄四郎)
 ・草刈小唄
 ・懸賞戯曲一等当選「懸巣」―一名鎌―(吉田伶)
 ・山羊と山羊乳(農林省 神尾技師)
 ・良き草の調製法(陸軍軍馬補充部技師 河野岩次郎)
 ・五月蓑(丸山義二)※農民作家
 ・雑草恩恵(吉植庄亮)※農民歌人
 ・堆肥について(農林省技師 安楽城敏男)

 ご覧の通り、馬政・農業・畜産(今日なら『馬政』もここに含まれる所だが、『軍馬』は特別扱いなのだ)・衛生と、草を利用する各分野からの寄稿、随筆・短歌・戯曲の文芸から成り立っている。
 この冊子は、「全日本草刈選手権大会」の創立5周年記念行事として企画された「大東亜戦争と草の展覧会」(昭和17年7月25日から8月2日まで、会場:日本橋三越)の、解説書替わりに「草に関する後世文献の一助としても寄与したい考の下に計画」(『大東亜戦争と草の利用展覧会』)されたものなのだ。

 ところが、私が一番知りたいところの「草刈選手権」のルールがどこにも記されていない。一定面積を刈り取る速さを競うのか、逆に一定時間内で刈り取った量を計るのか、フォームの美しさは成績に関係するか、鎌の規格は厳格なのか、肝腎なところが解らない。

 「草刈競技の実景」と称する写真はある。



 河原の草地に棒杭を立て、選手一人ひとりに一定面積を割り当てているような雰囲気はある。しかし速さか量かは、これだけでは解らない。

 「大会スナップ」の名で、実況写真もあるにはあるが、


大会スナップ

 草刈りの状況がアップになっただけである。「男子草刈実況」と「女子草刈実況」があるのだから、男女別に競技はやったのだろうなあ…くらいの事が想像出来るくらいが関の山だ。

 仕方がないので、この大会が記載されている資料を探してみると、『写真週報』129号(昭和15年8月10日)に、第三回大会の記事が載っていることがわかる。

 現在農村に不足している飼料、肥料の増産を図るには大いに野草を利用しようと草刈の奨励を目的に農民講道館主催の第三回全日本草刈選手権大会並びに第二回全日本堆肥競技大会は去る八月五日、東京市王子区赤羽町荒川放水路の夏草繁る陸軍獣医野草試験場で華々しく挙行された

 この日数千の観衆は荒川堤を埋め、遠くは樺太から朝鮮の涯まで全国二万余名の予選々手の中から選抜された八十六名の農村青年は鎌一振に郷土の栄誉をかけ得意の刃さばきで真剣な勝負を続けたが、草刈大会は青年部、梶宏夫君(静岡)、壮年部、佐々木英五郎(宮城)、堆肥大会は前田、藤永組(富山)、が優勝して晴の凱歌を挙げた

 帝国の各地から選手が集ったとある。真夏、日陰のない河川敷―昭和17年の第五回大会は午前7時開始とあるから、さすがに日中は避けたようだ―まで数千人も良く足を運んだものだ。
 記事によると、優勝の副賞は牛一頭(目録)で、「農村の競技会らしい趣をそえ、観衆をほほえませた」由。17年の大会の副賞が何だったのかは、残念ながら不明。
 陸軍の草刈り場が会場だとは、冊子のどこにも書いてないのだが、これは防諜上の理由によるのだろう。都内の軍事施設に関する通俗読み物(お散歩ガイド)を2冊ばかり目を通しているが、荒川放水路の堤防について書かれてはいない。

 荒川放水路の岩淵水門付近には、戦後建てられた「草刈の碑」があると云う。

 「農民講道館」は、横尾惣三郎が昭和8(1933)年12月に認可申請し、埼玉県与野に開設した、農業指導者養成施設である。
 敗戦後も「農民講道館農業専門学校」、「農民講道館農業短期大学」と名前を変えて継続するが、指導者横尾の死去―昭和36(1961)年―後は学生の募集を停止、昭和38(1963)年3月に廃校となる。

 横尾の遺志により、校地は埼玉県に寄贈され、昭和37年4月「埼玉県立与野農工高等学校」が開校する。その後、平成11(1999)年4月に「生物・環境系の総合選択制専門高校」である「いずみ高等学校」に再編され今に至る。

信念の堅そうなオッサンである

 いずみ高等学校のホームページによれば、横尾の著書含む、農民講道館時代の蔵書が引き継がれていると云う。良い話だ。
 単に持て余しているだけかも知れないし、過去には不良学生が何冊か古本屋に持ち込み、通報された話の一つや二つもあるのだろうが、それは云わぬ事にする(微笑)。

(おまけのおまけ)
 『大東亜戦争と草物語』にあった広告だ。


『草刈鎌物語』

 日本刀の刀匠が野鍛冶となって鎌を鍛えた
 濫觴より其変遷、名産地、現在の状況等細大洩らさず網羅している。
 農民も、学者も、教育家も、是非一読をお薦めする。


 冊子中には、「鎌の起源」のくだりがこの本から引かれている。

 (略)さて、わが国の鎌の起源はいつ頃かと尋ねて見ると、(略)古墳から鉄鎌や石鎌が発掘される所から見ると、余程昔から使用されていた事が判る。(略)その形状が支那のそれと酷似している点より見ても、上古韓国を経てわが国に伝来したものである事は殆ど疑いない。殊に中古の初め、韓民族が頗る多数わが国へ帰化した時、陶物師、塗物師と共に鍛冶にも優秀な腕前の者が永住して、新しい鎌を鍛えたと信ぜられる。

 広告文句は「日本刀」=日本精神を喚起させる書き方をしているのだが、起源はこう記されているのだ。