百聞は一見に如かず

国語漢文図鑑で705000おまけ


 高校生の頃、国語の成績は(数学と比べれば)悪くなかった。
 小説は今も殆ど読まない(当時は下手なプラモ作りで本そのものを読まなかった)。授業が面白かったわけではない。居眠りも、早弁も、サボって映画を観に行くことも無かった。だからといってマジメに学習なんかやりゃあしない。退屈しのぎに国語の副読本をひたすら読んでいた。

 上代から現代までの文学史、主要な作品・作者の概略、原稿用紙の使い方に手紙の書き方まで、面白そうな所は何度も読み返した。印刷された文字を追っかけるのは好きだったのだ。

 ミリタリ趣味の入口にあたる、子供向け読み物のまとめ方は、国語副読本と同じである事に気付く。
 おおまかな歴史があり、個々の兵器が絵や写真つきで紹介され、「ゼロ戦」や「戦艦大和」のような有名どころは見開きで数ページ、その仲間で華やかさに欠けるものは二つ四つとまとめて1ページに押し込められ、本筋からはずれる事柄は囲み記事にまとめられる。「ゼロ戦」は『源氏物語』で、「隼」その他の戦闘機は『堤中納言物語』等、平安時代の「物語」なのだ。

 古書店でこんなモノを見つける。


『改訂 国語漢文学修参考図鑑』

 同じようなモノが、隣にもう一つあった。
 タイトルは同じ『国語漢文学修参考図鑑』だが、「改訂」と「新訂」の違いがある。


『新訂 国語漢文学修参考図鑑』

 どちらも裏面には持ち主の名前が書いてある。姓が同じなので、兄弟がそれぞれの学生時代に買ってもらったものなのだろう。「改訂」は昭和13年、「新訂」の方は昭和16年の発行である。

 買われた時期は違っても、古本屋に売られた時は一緒の兄弟本だ。同じような内容だからと片方だけ買って二冊を引き離すのは、ちょっとかわいそうだとまとめて買う。主筆の「遺品」として片付けられる時、兄弟あわせて古本屋さんには引き取ってもらいたい(総督府で生き別れにさせてしまったらゴメン)。

 この冊子、タイトルそのまんまの「図鑑」である。帝のおはします紫宸殿、十二単に武具甲冑、魚木鳥にケダモノ、十干十二支その他が、一部は絢爛な色刷りで印刷されている。


「平安時代中葉以降の女官正装(十二単) 他」(『改訂』)


 今の国語副読本同様、平安貴族と中世武士の甲冑が目につくが、これには現代(当時、以下同様)のモノも掲載されているのが面白い。


「鳳輦(現代)」と「鳳輦(古式)」(『改訂』)

 これは天皇の乗り物を、古式と現代あわせて採り上げたもの。確かに「輦」の字にクルマはついているが、馬車と輿を同列に扱って良いのか? 自動車・お召し列車はどう分類されるべきなのかと、生徒に質問されたら先生はどう答えれば良いのだろう。


 装束と云えば、こんなものも載っている。現代の「正装」だ。

現代の礼服の一部(『改訂』)

 上段右「大礼服」には、「文官の親任官及勅任官着用」「奏任官のは胸の飾がなく帽子の羽が黒である」の説明がなされている。隣は「マントドクール」で、「婦人大礼服。我が袿袴(ケイコ)の礼服に当る。わが皇族はこの服着用の際は玉冠を召される。」とある。
 左は「燕尾服」。イブニングコートなので「外国では多く夜間」に着用されるが「我が国では昼間着用」。左端が名前だけ目にする「ローブデコルテ」。説明書きいわく「婦人中礼服で宮中参賀宮中宴会などに着用」。自分が死ぬまでこんな服装をしている人達をナマで見る機会は無いだろう。これも今時のものには出てこない。

 「今時のものには出てこない」などと大見得を切っているのは、ちゃんと『常用国語便覧』(浜島書店)、『原色 シグマ新国語便覧』(文英堂)、『クリアカラー国語便覧』(数研出版)、そして『定本 新国語図録』(共文社)の四冊買って目を通しているからである。
 ただし現行の副読本すべてをチェックしているわけではないので、この本には載っているゾ、と指摘される方がいらっしゃれば、いつでも訂正する用意はある(笑)。
 (この4冊を選んだのは、ブックファースト新宿店の売り場にあったのがこれだけだったからに過ぎず、特定の書肆をひいきしているわけではない。10種20種置いてなくてホントに良かった)

 この「図鑑」は、どう云う意図のもと生まれたのだろう?
 『新訂 国語漢文学修参考図鑑』に編者の言葉があるので、例の改編をつけて紹介する。

 国語漢文を教授するに当って、教材中に動物・植物・器物・調度・服装・服飾・武器・武具・農具さては建築・絵画・人物・地名など、実に雑多な物が出て来る。その度毎に、或は実物を或は掛絵掛図を教室に携帯する。
 ところが大抵は何れも無い場合が多い。すると予め下手な絵や略地図などを書いて教室に持って行くが、用意の出来ぬ場合は仕方がないから極めて不正確なものを板書する。物を目に訴えて生徒の理解を速からしめるためである。教授に熱心になればなるほど、手数と時間がかかって全くやりきれない。さればと言って携帯も板書も一切をぬきにすれば、自然、文字だけ言葉だけの抽象的教授に終わる。こうなると生徒はのみこめないために不安げな顔で、教師も足らわぬ気持で授業が終わる。上記の事実は編者が東京府立第一中学校に国漢文教師として勤務中しみじみ体験したところである。


 仕事熱心、実に立派な先生ではありませんか。しかし、生徒は不安げ、教師もイマイチ乗り切れずに時間が終わる、など書いているところを見ると、手を抜いた授業もやっているようだ。

 昭和二年の春であったか、或る日開隆堂主人中村寿之助氏の来訪を受け、談此の事に及んだ。それでは教師も生徒も同時に携帯して教室で使うことの出来る軽便な図鑑を作って見ようということになって編纂に着手した。
 そこで編者は十年の教授経験に基づき、国語漢文それぞれ数種の代表的教科書を調査して必要図約八百を選んだ。之を銅板によって明瞭を期し、出来るものは実物を彷彿せしめるために彩色を施した。そして同年十一月に完成して世に問うた。これは全く開隆堂主と編者との創意によるもので、昭和二年以前には他に一書もなかったのである。
 使って下さった或る先生は「早天つづきの際に降った慈雨だ」とよろこんで下さった。編者自身も之を教場で使って見て、たしかに準備上と教授上とに於て、多大の労力と時間と(ママ)節約が出来るし、生徒は「わかった」という顔をしてくれるので面白く授業を進め得ることを経験している。

 十年の経験に基づき自信をもって編纂したとは云え、出来たものを実際に使って見ると不十分な点は多々あった。にも拘わらず実際教授上に役立ったと見え、増刷が間に合わぬほどの需要があって昭和六年までに版を重ねること六十を越えた。この間、真似をした類書が二三顔を出して来た。
 そこで昭和六年に至って、使って下さった先生方の善意の御忠告と御希望とがあり、更により良きものに育てようとする編者と書店との良心から、相当量の改訂と増補とを行って、使用して下さる方々の御期待に答え、編者並に書店は良心の満足を感じた次第である。爾来、版を重ねに重ね三百版を越えて今日に及んだ。

 「三百版」! とかく戦前の出版物は平気で何百版刷ったと豪語する傾向があるが、じゃあ何冊出したんだ? と本屋の首根っこを掴んで問いただしたくなってくる。類書も出たくらいなのだから、開體ー、儲けたんだろうなあ…。

 此の改訂増補を行って以来十年の歳月は流れた。時勢の進運につれて教材が変わって来たので、新しい物も出て来たし、旧版に漏れていて然かも必要かくべからざる物もあり、かたがたこれ等を輯載し、旧版に比して約倍大の大増補を行い、一得一失はあるが、従来の折本型を普通の綴本型に改め、形態内容共に面目を一新し、ここに新訂本として世に送ることとした。
 編纂を終えてつぶさに検討すると、尚不十分の点もあるが、限られた紙数に無数といいたい程のあらゆる物を図示することは不可能である点を考慮すると、大体に於いて旧版の不足を補い得たと思っている。

 従来旧版の御愛用をいただいた諸彦から、絶えず善意の御忠告を受けたおかげで、此の新訂本も出来たわけ、ここに謹んで感謝の誠意を表すると共に、編者と書肆との創意によって生まれた十五歳の此の図鑑をかわいがっていただき、不断の御叱正をお願いする次第である。

昭和十六年秋季皇霊祭の日
編者誌す

 このように「図鑑」の刊行・改訂に至る経緯が克明に記されている。
 「掛絵掛図」は、主筆の学生時代を振り返ると社会科の地図くらいしか見た記憶がない。
 この文に続く「凡例」には、「本図鑑は国語漢文の教授時学修時のみでなく、歴史・地理・理科等の教授時学修時にも相当役立つように注意して編纂した」とも記されており、


植物の一部(中央は『どりあん』と『ぱんの木と実』)

 ドリアンにパイナップルまで載せてある。

 この「図鑑」の編者、上木即審センセイこそ、今日のパソコン、タブレットを駆使するマルチメディア授業(ほぼ死語)のパイアニア(の一人)なのだ。
 実際の教授局面における労苦の存在、それを解消せんとする高邁な考えのもとに、今の「国語便覧」(のある部分)が作られていたとは、まったく思いもよらなかった。

 旧制の中学生向けとなれば、当時の「大礼服」が載る理由も浮かんでくる。彼らの何パーセントかは高校・大学を経て、これを着られる身分になれるはずだったのだ。
 「新訂」は旧版である「改訂」に、あらたな図版を入れたページと、「国文学史実年表」(『元年 神武天皇即位』で始まるのが時代だが…)に、「美術東西対照年表」が追加されたものだが、掲載された図も一部改められている。


「改訂」の国旗類


「新訂」の国旗類

 「時勢の進運」を反映して「満洲国」が加わっている。一方では移民の受け入れを中止した「ブラジル」が抜け、「ソヴィエト連邦」に取って替わられる。「シャム」の表記が「泰国」に変わる。
 これを買う決心をした理由は、「ドイツ」国旗がハーケンクロイツになっているからなのは云うまでもあるまい。

 国旗ばかりに目が行くのは仕方のないところだが、もう少し眺めているともっぱら「房」の写真ばかり見ることの多い「歩兵連隊旗」(左上)と、やっぱり旗はあるんだなあと改めて思う「騎兵連隊旗」(中段右)の図を見つけて得をした気分になる。どちらも旗の左下には『連隊番号』と記された空白が描かれている。
 「時勢の進運」と云うよりも、学校教育が「時代に押し流される」様が顕著に表れているのが、このページだ。


国防意識啓蒙のページ(『新訂』)
 こんなモノが『国語漢文学修参考図鑑』に収まっているのだ。目次には「第三十六図 都市防空戦の陣容表示図 爆弾・飛行機・その他」、「第三十七図 落下傘部隊・高射砲・軍艦・航空母艦その他」とある。



「陸軍重爆撃機」「九六式陸軍戦闘機」

 「1935、36年危機」が喧伝された頃に流布されたような写真の中に、当時の航空雑誌なら「新鋭」の文字がまだ残っている機体が混ざっている。
 ごらんのように、戦闘機は九六式艦上戦闘機と九七式戦闘機をごっちゃにした表記をしている。陸士や海兵を受けるつもりの優等生は敢えて黙っているんだろうが、斎藤茂太のような飛行機マニア(モタさんは中学を終えているが)は噛みついていたと思う。


 軍艦の写真もちょっとばかし古い。

「戦艦日向二九九九〇噸」


「航空母艦(赤城)二万六千九百噸」

 それらしい図版を急ぎかき集めて作ったようなページである。編者自身、「何でこんなベージを」と思っていたのかもしれない。
 陸軍モノにはあまり力が入っていない。中等学校所在地のいくつかには地元の連隊があり、学校にも「教練」の時間がある。何より支那事変も5年目に入り、間もなく米国とコトを構えようと云う時期なのだ。


「防毒面着用の図」他(『新訂』)

 「防毒面着用の図」(昭和16年にしては古い)と、「らんぐい(乱杙)」、「さかもぎ(逆茂木)」、「鉄条網」の三大障害物。戦車は古代中国の「馬で牽く」モノの図が掲載されているくらいだ。

 交通機関の発達を示す図も追加された。
 「ダグラスDC−3型」に「明治初年の機関車」、「新式普通機関車」、「東京大阪間を八時間で走る最新式流線型機関車」、「急行用最新式電気機関車」そして「日・満・支・航空路図」。


 右下にある、南洋航空路で活躍する大型飛行艇―映画「南海の花束」にも登場する―の写真は、「大日本航空株式会社提供」とありながら、「海軍省検閲済」とも記されている。

 「国語漢文の代表的教科書」に登場する事項を採り上げた、とあるが、こんなモノまで教科書に載るものか? と疑問に思うモノもある。
 「第五十図 支那器物その他」の一部より。


「第五十図」の一部(『新訂』)

 図の上段中央にある何だかわからないモノは「蜃(シン)」と云う。説明は「蛟の一種で、赤いたてがみがあり腰部以下のうろこは逆立っている。気を吐けば海市(蜃気楼)を生ずという」。蜃気楼はコイツが吐きだしていると信じられていた、とでも教科書に書かれていたのだろうか。
 中段右端にいる「ウサ耳」は、今では「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)と一括りにされる「魍魎」。説明は「山間の水辺に居るという一種の怪物」。もう一方の「魑魅」とは別なページに泣き別れての掲載だ。魍魎は「新訂」になって追加されたものなのだ。魑魅があって魍魎が無いのは如何なものか、との御忠告に従ったものなのだろう。
 「かっぱ(河童)」には、さすがに説明文はつけられていない。

 授業を効果的にすすめるにあたり、便利なモノだったのだろうが、教科書本文の説明よりも「脱線」のきっかけに役だったんぢゃあなかろうか? との疑念は大いに残る。
(おまけのおまけ)
 今回のため「だけ」に買い込んだ現行の副読本であるが、『定本 新国語図録』(小野 教孝、共文社)の一冊は、他の三冊とは毛色が違っている。


『定本 新国語図録』

 他の「便覧」のように、著名な作品・作者の解説や原稿用紙の使い方と云った部分が無い(文学史年表はついている)。大きさと云い厚みと云い、今回紹介した「図鑑」と極めて似た雰囲気がある。

 本書の「序」を読むと、その理由が見えてくる。現行書籍の文章をまるごと引用するのは本意ではないが、例の改編をして紹介する。


 近来、国語辞典、百科辞典、特殊辞典類の刊行が、やや戦前の域に達したことは、わが国の文化の邁進のために、大きなよろこびでなければならない。しかし、本書のような図録にいたっては製版印刷術の制約のため、まだ見るべきものが現われてこないことを遺憾に思っている。
 由来、古典文学の解釈上、実物による直観資料の利用は、古典そのものを立体的ならしめる。いわば、古典文学理解の必須条件である。にもかかわらず、それは、いかに努力してみても、とうてい実行しがたいことなのである。ために、教えて徹底せず、学んで要領をえないことが多々あるといっても、おそらく言いすぎではあるまい。しかしながら、実物を一々示すことが、絶対にできないことであるうえは、次善の策として、図録の類を著して、これに代用し、かつ一般辞典の不備を補うほかに、欠陥を救う道はないであろう。扱いかたによっては、直観資料として一々実物によるよりは、図録による方が扱いやすくすぐれている。むしろ、図録によることが最善の方法であるともいえよう。
 小野教孝君はすでに世の知るごとく、国語漢文専攻の士として現在も教職にある。かつては荒木十畝画伯について日本画を学び、爾来、古典文学中の事項を博捜して、これを整理し、みずから彩管をとって、さきに「国語漢文参考図録」の書を著してから二十余年、わが国語教育界に裨益するところ、大なるものがあったことは、その間、同図録が増版に増版をかさねて、なお、需要をみたすに足りなかったことによっても明らかであろう。
 ここに、再び著者と相はかり、時代の線にそうて、さきの「国語漢文参考図録」を増補大成すべく、かさねて有職故実を追求し、画技を練り、製版印刷術に工夫をこらし、改めて一巻として世におくることとしたしだいである。ひろく、大方の支持をえて、古典文学の理解のうえに、役立つことができれば、幸とするところである。


一九五二年一月

東京大学名誉教授
文学博士
藤村 作 

 2015年の秋口に買った本の「序」が、サンフランシスコ平和条約発効(1952年4月28日)直前に書かれたものである。1954年の映画『ゴジラ』よりも古いのに驚愕する。
 しかし、「序」に付された年月こそ古いが、中身の方は早くも1955(昭和30)年増補版、1967(昭和42)年改訂増補版、そして1989(平成元)年に「定本」へと改訂されている(どこがどう変わったのかは、さすがに調べる気にはならない)。

 図録の必要性に関する見解は、さきの『新訂 国語漢文学修参考図鑑』で云う所と変わりは無いが、実物よりも図録の方が教育現場においては使いやすいはずだとの見解も示している。
 見過ごせないのは、戦前に出ていた図録を「時代の線に」沿って「増補大成」としたものだと書かれている事だ。つまり日本初の国語・漢文参考図鑑を作った上木センセイ記す「類書が二三」の一つが、「時勢の進運」に沿って、帝国陸海軍が滅び、昭和の御代も幕を閉じ、21世紀に入った今もなお新刊本屋の棚に並んで、新たな読者に買われる日を待っているのである。便覧に載るような歴史的著作でも名作でもないただの図録がだ。これは凄い事ですよ。
 ネットの古書目録で調べてみると、売られているんですな『国語漢文参考図録』。

 こうなると、類書がどんな体裁・内容なのか(正直に云えば現行の『図録』が何を削っているか、だが)気になって仕方がない。と云うわけで古本屋に発注してしまった。
 「次回に続く」なのである。