「発売禁止」道中双六

『文藝市場』暑苦号(昭和2年8月)表紙で72万2千おまけ


 デパートの古書市で、こんな本を買う。


『文藝市場』昭和2年8月号

 「軟派の出版界に君臨した二大異端者」(斎藤昌三)として宮武外骨と並び称された、梅原北明の『文藝市場』である。
 息子の梅原正紀が記した『近代奇人伝』の記述をひく。

 梅原北明は、大正末から昭和初期にかけて、性文献と艶笑本の出版活動をエネルギッシュに展開した男である。(略)その名前と活動歴を知っているのは好事家やごく少数の年配の人たちであり、若い人で彼の名前を知っている人がいたら、「雑学的物知り」としてのAクラスの部類に入る。

 昭和53年刊行の本で、梅原北明の名を知るのは好事家とその予備軍くらいと書かれているくらいだから、読者諸氏が「誰? この人」と思っても全然恥ずかしくはない(主筆自身、本稿のために付け焼き刃の最中なのだ)。
 とは云え、昭和初期の風俗史では、宮武外骨よりも名前が頻繁に出ている印象はある。しかし外骨は表現の面白さが評価されてブームにもなり、軟派出版方面は閑却された感があるが、北明は戦前エロ出版の親玉と云う認識のまま文化史の表層には現れて来ないように思う。

 どちらも官憲から睨まれ、下獄に発禁・罰金を何度もくり返した経験を持つ。のちに外骨が東大の「明治新聞雑誌文庫」に収蔵する明治期の古新聞をリュックを背負って集めて廻れば、北明は猥本出版のかたわら上野の図書館に通い、やはり明治期の新聞記事を抜き出し「官製の”御用歴史”に対して新聞記事をアレンジすることで民衆史を作成しようと」(梅原正紀)していたなど、似ているところがある。
 しかし、北明がわずか1年で8回もの発禁を喰らった事を「外骨を凌駕すること易々」と宣伝の材料にしたため、外骨は例の癇癪で?彼を「性格の悪い駄法螺吹きの男」と評し、自分が蒙った発売禁止の中には「風俗壊乱でなく治安妨害と秩序紊乱でやられたのが約半数である」、「北明の如き春本同様のものを無届で発行した事は一回もな」いと、「筆禍者」の先輩としての不快感をあらわしている。

 『文藝市場』は、もともとはタイトル通りの文芸誌としてスタートしたもので、日本近代文学館が復刻するくらい歴史的価値があるようなのだが、北明が軟派誌に転じて廃刊に至る間は、文学史からは無視されているらしい。しかし北明の仕事として語られるのは、当然「転向後」のそれであり、今ここに表紙を揚げているのも、その一冊にあたる。

 この『文藝市場』の表紙、タイトルの左下に「発売禁止双六(書籍道中朋旅の人々に捧ぐ)」と書かれ、表紙・裏表紙が一続きの双六になっている。これが今回のネタだ。

 裏表紙の上半分には「神秘をあばく 新聞紙法による雑誌発禁の経路」と題された文章がある。
 例の細工を施して全文を紹介するが、ごらんの通り芸術的な手書き文字なので、翻刻の誤りもあるやも知れぬ。


神秘をあばく


 神秘をあばく
 新聞紙法による雑誌発禁の経路

 神秘をあばくと云う事は吾れ人ともに 
力こぶの這入るものであります
 其処で私達も御多分にに漏れず大骨折って一つの神秘を 
諸君の眼前へ引き出して見ましょう
 雑誌が禁止を食うにはどの位の手数と時間
と経費とがかかるか御存じですか?
 電報料丈だって大抵なものではありません
 とに角雑誌が出来ると 先ず
内務省二冊、警視庁一冊、区地方裁判所
二冊、東京逓信局二冊、差立局二冊、
所轄署高等出版係一冊、都合十冊
を納本します
 それからの経路が 所謂神秘で普通の
人には解らぬ事実であります
とっくり下図によって如何にお役所仕事が
綿密で面倒臭いか御らん下さい

 伝手だから本省の検閲係の人を御紹介します
 (普通出版物)
 (大)千葉氏(性に関するもの)
 (小)千葉氏(小説)
 磯部氏(社会主義)
 内山氏(同人雑誌)
 久保氏(外国新聞雑誌)


 この出版物検閲―「出版法」でなく「新聞紙法」なのは、『文藝市場』が定期刊行物として、同法の規定によって刊行されているからだと思われる―を面白可笑しく紹介する文章を読み、改めて本誌の装幀を見れば、なるほど表紙・裏表紙が一続きになっている。
 ついでだからと検閲係の名前をあげて良いのだろうかと小心な自分は心配してしまうのだが、歴史読み物で国民弾圧マシーンとして認識されている検閲制度も、人の手で運営されているんだなあと感慨深いものがある(二人いる『千葉氏』が、『大小』で分けられているのも面白い。高さ、幅、どっちだったのだろう)

 表裏別々にスキャンした画像をつなげてみる(背表紙には絵がないので省略した)。



「発売禁止道中双六」


 双六の中身を見ていこう。
 脳髄か頭蓋骨を模したらしい「本社」の「編集部」に「危険原稿来る」と、それを取り除かずに(笑)雑誌が出来上がり、そのまま「発送係」(文藝市場社がそれほどの大所帯とは思われないので、これはギャグなのだろう)をふりだしに「差立局」を経て「内ム省検閲課」(実際の名称は『内務省警保局図書課』)に納本される(『出版法』では発行日より三日前に、『新聞紙法』の場合、発行と同時に納本義務がある。納本遅れは罰せられ、無届け出版は論外である)。

 雑誌は、「検閲先生」―千葉氏(大小)ら―で問題がないかチェックされる。
 図書課の人数は、昭和2年までは24人以内といわれ、昭和3年に61人に増強されている。小中学校の1クラス程の人数で、日本全国から収められる出版物(春画・淫本は各地の警察に権限委譲しているが)をチェックしていたのだ。


内務省の中


 「検閲先生」が問題アリと判定すると、「御係長」から「久慈事ム官様」、「課長」、「局長」に伺いが廻り、内務「大臣」が「発売頒布禁止」(図では『頒布発売禁止』)の「命令」を出す。これは行政処分なので、新聞紙法・出版法違反の判決とは無関係に執行される。
 検閲係官が問題ナシと判定しても、外部の人間が内務大臣を動かして判定を覆す事もある。「天皇機関説」に基づく書籍が、今まで普通に市販・流通されていたモノでありながら、政治問題化の末にご禁制になった話は良く知られている。

 「発売頒布禁止」を略して「発禁」と云うが、「発行禁止」―「発売頒布禁止」が当該の巻号を対象とするのに対し、こちらは先々の内容を問わず問答無用で発行を禁止する(事実上の廃刊指示)―も略せば「発禁」なので、そこの区別を間違えてはいけない。


命令を下す「(内務)大臣」


 「命令」が下ると(『双六』では直接事務官に通じているように見えるが、局長・課長をふたつ描いて図が複雑になるのを避けたのだろう)、裏表紙側に廻って、取締実行部隊である「警視庁特別高等検閲課」に伝わり、「橘シネマの守」から指示を受けた「電報老人」(『天保老人』にかけたギャグ)が「市内各署」に押収指示を伝達する。


特高の中身。各課員にデタラメな職名が付けられているのに注意 


 警察署員は所轄の書店に踏み込み「現品押収」。印刷所所在地の警察署は本屋だけでなく印刷所にも押し入って「紙型押収!」し印刷が出来ないようにする。
 電報は郵便局にも飛び、「郵便法」に云う禁制品として没収してしまうのだ(その先、どう物理的に処分されるかは不明)。
 「高橋古参と其一党」は「市内大取次四軒」に走って現品を押収する。
 もちろん、本社の所轄署からも刑事が「テク」でやってきて「残部押収」となる(現品は『トラック』で『目出度庁内倉庫入り』だ)。



帝都市内手入れの図 左上では印刷所が襲われている


 東京市以外の地域については以下の流れだ。
 「命令」は「特高課長」から警視「総カン」に達し、警視総監は「各府県警察部」、「東京逓信局」、「各地方二等局」(郵便局)に「電命」を飛ばし、現地の警察が書店に並ぶ現品を押収する(こちらは『汽車』で本省の倉庫に集められる)。

 さきにも少し書いたが、「風俗を壊乱すること明瞭なる春画淫本に関してのみ大正7年11月以来其の禁止権を地方長官に委任して」(『出版警察法概論』、生悦佳求馬、松葉堂書店)いるが、この場合は、地方長官から配下の府県警察部に命令が下される建前なのだろう。



地方手入の図


 こうして「危険原稿」を載せた雑誌は世間から抹殺されてしまうのだが、これだけで話は終わらない。警視総監は「区地方裁判所検事局」に新聞紙法・出版法違反を伝えし、検事が立件して違法との判決が出されれば、裁判所から罰金支払命令が本社にグサリと突き刺さり(『罰金受附係』も多分ギャグだ)、ようやく「上がり」となるのであった。


上がりの図

 …なるほど、これは手間だ。

 発売頒布禁止になれば、大事な商品は押収、安くはない罰金は科せられる、場合によっては収監もあるから版元のダメージは甚大である。もちろん印刷屋も大打撃を受けるし、取次・本屋も商売あがったりだ。
 しかし命令は、出版物の「頒布」と「発売」の禁止である。人権に制限のあった帝国日本でも、個人の手に渡ったモノまでを取り上げることはできない事になっている。そのため「発禁」処分となったモノがコッソリ古書として出回るケースもあったようだ。
 『<変態>の時代』(菅野聡美、講談社現代新書)には、梅原北明が会員制で刊行した『変態・資料』が、定価60銭のものが、創刊号と2号は2円20銭、3号は3円(いつもの戦前3千倍だと1,800円が6,600円から9千円)の値がついた事が紹介されている。余談だが、世の中の進歩はオソロシいもので、この雑誌の復刻版が2006年に出ており、1巻1号〜4号を一冊にまとめたモノが、上製/クロス装/函入で税別21,000円で発売されている。

 今回紹介している『文藝市場』が出て1年後の昭和3年夏、保釈を迎えた北明が読者会員に出した案内状は「罰金にして金壱万壱百円以下、乃至は金六千参百円以下であります」(戦前3千倍で3,030万円ないし1,890万円)とうそぶいている。ムショに放り込まれていても会員からの為替送金は途切れることが無かったと云うから、罰金の何倍、何十倍もの実入りがあったのだろう。発禁となった雑誌の復刻版が刊行され、インターネットでは無料エロ動画が誰でも見られる現代に、北明がやってきたら悶絶して死んでしまうに違いない。

 全体の流れがわかりやすいように、一部機関の内側などを略した図を揚げる。
 なお、本図とさきに述べた頒布発売禁止の流れは、あくまでも取り締まられた側が見聞した事実(伝聞・憶測もありそうだ)に基づいて作成したものであるから、名称など取り扱いには注意されたい。


「双六」を簡略化したもの(一部推定)

 悪書が出回り健全な市民に悪影響を及ぼさぬようにするため、命令伝達から押収実施までは、迅速に行われなければならないのだが、『伏字の文化史』(牧義之、森話社)に、昭和18年元旦の『朝日新聞』に載った中野正剛「戦時宰相論」を読んだ東條首相が激怒、官邸から禁止命令を出すよう圧力が来た際、検閲官は、記事を通した自分の判定を覆す命令を不服として、朝刊押収の手配を午前11時に出すよう指示し、読者への影響を最小限にした話が紹介されている。現場事務方を怒らせると怖いのダ。
(おまけのおまけ)
 梅原北明に言及した読み物はいくつかあるが、時間の関係もあって今回参考にしているのは、息子の梅原正紀が記した『近代奇人伝』(大陸書房)の当人に関する項と、『<変態>の時代』(菅野聡美、講談社現代新書)の一部である。
 本稿冒頭で引いた「軟派の出版界に君臨した二大異端者」の出所は、斉藤昌三『三十六人の好色家』と云う本で、堂々引用のために一読したかったのだが、調査で使った中野区立図書館には、『近代奇人伝』しか置いておらず泣く泣く諦め「<変態>…」からの孫引きである(ああ恥ずかしい)。かわりに中野の古書店で城市郎『続・発禁本』(福武文庫)は買ったので勘弁してもらいたい。

 「<変態>の…」の記述は「近代…」から引いている部分も多く、北明の生い立ちから敗戦後急死するまでの生涯の概略を掴むなら、「奇人伝」(これ自体も先行著述の記事に拠っているところは多い)を読んでおけば充分である。もっとも、「<変態>…」は、「変態」が本来の意味・用法から、いやらしい意味を連想させる言葉に変態した経緯をわかりやすく追いかけた楽しい読み物なので一読の価値はあります。


 外骨センセイが北明を「駄法螺吹き」と記した件は本文にふれた通りだが、『近代奇人伝』では北明が昭和天皇と同い年である事が語られ、

 北明が新聞記者であったころ、昭和の天皇は摂政の宮で(略)、大演習のさい、通り過ぎるようなふりをして摂政の宮と並んだ形になったところを、友人のカメラマンに写真をとらせたことがある。
 その写真をもって、喜劇役者の曽我廼屋五九郎らと一緒に料亭に人力車で乗りつけ、高貴な筋のお忍びの遊びを装ったのである。(略)五九郎は平伏してみせ、「このお方」はと北明の身分を明かし、写真を見せるのである。
 「恐れ多くも腹違いの兄にあたるが、弟は天皇になるよりほかに能がないので哀れにおぼしめされ、皇位をゆずられたのである(略)

 と一言告げれば、たちまち無窮の皇恩に浴した(要するにタダ遊びだ)と云う! これに味を占めて同じ事を繰り返し、皇恩まだ行き渡らぬところ(会津あたりに行ったのか?)では、三つ葉葵の紋入り羽織で徳川家の御落胤と称し女遊びに興じたとあるのだから、ホラだけとしてもオソロシイ。

 その後『デカメロン』の翻訳、『変態・資料』で名をあげて、帝国ホテルを仕事場としたり、読者の一人である三井財閥の益田太郎(『コロッケの唄』の益田太郎冠者)から借りた乗用車を移動編集室に用いる羽振りの良さを見せる。
 当局の締め上げがキツくなってからは、大阪の女学校の宿直室に一家で転がり込み(校長が愛読者だったのだ)、英語教師をやったり―生徒に序列をつけたくないと全員に90点をつけた―、ほとぼりをさまして東京に戻ってからは、靖国神社近くの下宿屋から靖国神社に通って社史編纂に協力。その後は日劇を建て直し(有楽町マリオンにしたのではなく、興行でアテた)、大金を手中にしながら、台湾に映画を撮りに行って散財。別名で小説を書き(『少年倶楽部』で梅原北明名義はマズかろう)、戦時中は軍向けにアメリカの科学技術図書の翻訳をやり、そのかたわら軍からアルコールを貰い受けインチキウィスキーを密造してご近所に配っていたと云う。

 長兄が駄菓子屋で、好き放題買い食いするのを横で羨み(小遣いに差があったのだ)、晩のオカズが兄より少ないと僻んでいた少年が、長じてこう云う波瀾万丈で面白いな生き方を展開して行くのだが、敗戦後の昭和21年4月5日、「東京へ通う列車の中でシラミを経由」した発疹チフスであっけなく落命する。享年46歳。
 後ろめたい道楽仕事でも、良い顧客に認められるだけの事が出来れば、「芸は身を助く」を地で行き、激動の昭和史を渡って行けることを伝える、これからの時代のお手本のようなオッサンなのである。
(おまけのおまけのおまけ)
 戦前・戦中の出版物と云えば「伏字」である。発売頒布禁止を避けるため、版元が危険な文字・文・文章を「○○」や「、、、」で表記したものである。今でもSNS上で「○○(検閲削除)」などと「くすぐり」で使われている。

 検閲制度があり伏字の使用があると、お上の指示に基づいて伏字が施されているように思うのが人情であり、主筆も長くそう信じていたのだが、『伏字の文化史』を読むと、伏字は編集者が「これなら大丈夫だろう」と自主規制するものだとあって、目が●●になってしまう。

 昨今、マスコミが自主規制しているから面白いモノが出てこない、権力に萎縮していると云われているが、昔からそうなのであった(もちろん、検閲に引っ掛かった結果、削除されたものもある)。
 しかし何が引っ掛かってしまうかは、検閲官個人の主観に委ねられていたようで(検閲をパスしたはずのものが横槍が入ってダメになる事もある)、また「印刷物中の如何なる箇所、如何なる記事が、禁止命令の主体なりしやに就いて、説明する所なかりし」(同書引用記事)だとも云う。

 手塩にかけた作物が丸ごと抹殺されるのは出版業者の死活に関わるので、原稿やゲラ刷りの段階で検閲官に見てもらう「内閲」と云う慣習が大正年間(大正6、7年開始とされ、昭和2年6月に廃止)に行われるが、出版物の増大に検閲側がネをあげ、「内閲」をやめる替わりに押収された刊行物を版元が引き取り、検閲で引っ掛かった部分だけを物理的に削除(ページを切り取る・破り取る)して市場に送り直し、以後は文字・図版を伏せた改訂版を出すことで、版元の負担を軽減する措置が取られるようになっている。

 梅原北明はこの本に『デカメロン』翻訳者として登場している。
 当時(大正14年4月)の新聞は「いつも其筋から猥本と睨みとほされ発売禁止に次ぐに又禁止」されたモノ(『ボッカチオはデカメロン』と世界史のテストのため覚えさせられたなあ…)が、どうして刊行できたのか「不思議にも」と評したが、梅原は「内閲」の成果を組み入れ本文自体を安全なものとして、―ここからは『近代奇人伝』の記述による―さらに原著者ボッカチオ没後550年祭記念出版の名目を立て、北明は本に

 本書は伊太利大使館の手を経て、伊太利皇帝陛下、同皇太子殿下、及び皇太后陛下り玉前に献上し、ムッソリニ首相、同文部大臣に、又コルッチ博士や、下位春吉氏の斡旋に依りて文豪ダヌンチオ氏に呈するの光栄を得たことは、日伊親善のために読者諸兄と共に慶賀に堪えない次第であります。

 と書き記し、日伊親善を楯にする周到さで刊行を勝ち取ったのである。ついでにイタリア大使を浅草で、曽我廼屋五九郎(またか!)らと接待までやり、その功績で勲章を授与されているが、北明は酔ったイキオイでカフェーの女給にくれてやったか何かで紛失した云う。

 『伏字の文化史』に戻ると、検閲を通ったのは実は「上巻」だけで、その後出た「下巻」は内閲で指摘された部分を削除しなかったため、禁止処分を喰らっている(すぐに訂正版が刊行された)。著者は「未訂正のままでも禁止処分を免れ得るかどうかを見極めるために、梅原が実験的に行ったとも考えられる」と考察している。確信犯なのである。

(おまけの参考)
 出版物検閲の事情については、『伏字の文化史』のほか、千代田図書館が行った展示会「浮かび上がる検閲の実態」(行き損なって物凄く後悔している)の連続講演会記録を参考にしている。

 (一回目)いつ・だれがどのように検閲したのか

 (二回目)戦前期の発禁本のゆくえ

 (三回目)戦前期の出版検閲と法制度

 展示会以前に行われたものだが、講演記録と同じ「神田雑学大学」にあったもの。検閲要員の人数については、ここを参考にしている。
 戦前内務省における出版検閲PART2

 出版法・新聞紙法の条文くらいは持ってないと世間様から信用されないので、国会図書館のデジタル化資料の『出版関係法令集』(大正15年版)からコピーはしている。

 梅原北明の軟派出版仕事については、「地下本」(戦前で云えば納本しない本全般だが、ここでは猥本を指す)研究サイト「閑話究題××文学の館」の1コーナー、「梅原北明とその周辺」に詳しく紹介されている。高レベルの研究を展開なさっておられるので(思わず敬語まで出てしまった!)、自分の実力では「参考」に使い廻す事が出来ない。