「くさび」は抜ける

『世界陸海軍大画帖』で72万4千おまけ


 漫画映画、「この世界の片隅に」が、ようやく2016年11月12日公開と決まる。
 試写の評判も上々と云うことで、物資(紙屑とガラクタ)の供出、献金(クラウドファンディング出資)、錬成旅行(いわゆる『聖地巡礼』)、債券(ムビチケ)購入と続く「銃後の赤誠」が報われつつあるのだなあ…と、欣快の極みである。

 その一方、わが「兵器生活」はあいも変わらずの有様なので、初心に立ち帰るべく、古本屋でこんなモノを買う。


「世界陸海軍大画帖」

 『少年倶楽部』の附録である。昭和9(1934)年12月1日発行。
 日本、支那(中国)、アメリカ、ソ連、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスの国旗が描かれている。これが世界の主要国と云うわけだ。
 『少年倶楽部』本誌で活躍する挿絵画家が画を描き、戦前に通俗軍事読み物を多く書いている、平田晋策が文を寄せている(画が全部モノクロなのが惜しい)。

 内容を簡潔にまとめれば、

 帝国陸海空軍絶対強い
 アメリカ海軍油断ならぬ
 ソ連は厳重警戒せよ

 と云う、当時の見解を反映したものとなっている。昭和9年と云えば「1936年危機」が叫ばれつつあった時代でもあるわけだが、さすがに子供向け読み物なので、今時の「オピニオン誌」のように戦争の可能性を煽り立てているわけではない。

 ところが、英・独・伊・仏という、ライバル国の情勢について語る文章は、筆者手持ちのネタと限られた文字数、何より読者の年齢による制約で、「ポエム」化の傾向が見られるのだ。
 直接日本の脅威になるとは想定されてないフランスは、それが顕著に現れている。以下の文章は例によって毎度の改変を施してある。


空の一騎打

 空の一騎打
 フランス空軍は、「世界の女王」とほこっている。三千機の大群が、北はラインの流(ながれ)、東はアルプスの雪の峰、西はドーバーの海、南はピレネー山脈をへだてて、ドイツ、イタリヤ、英国、イスパニヤの空をにらんでいるのだ。
 あゝ、ナポレオン死しして百年、軍国フランスの名は、なお汚されない。
 見よ。荒ぶる鷲のように、奇怪な勇姿を空にたかくひるがえすブレゲー戦闘爆撃機。一千馬力のイスパノスイザ・エンジンは、すみ切った音を立てて、フランス空軍の誇(ほこり)をうたっている。(村上松次郎画)

 御存じの通り、それから6年後「軍国フランス」の名声は地に墜ち、日本の「仏印進駐」を招き、図の「ブレゲー戦闘爆撃機」は忘れ去られることになる。
 この航空機は、ブレゲー411と思われる(リンク先の写真が画の元ネタのようだ)。画面左下奥に側面から見た「奇怪な姿」が小さく描かれている。「一千馬力」と云うのは、発動機二つを足したものであるから誤解のないように。漫画映画「風たちぬ」で軽やかに飛翔する九試単戦が生まれる前の世界だ。

 フランスはわずか1ページなのに(!) 4ページも割り当てられている「支那の陸海軍」では、文の調子がちょっと違う。以下その4ページを紹介する。こちらも例の改変を施してある。


市街戦

 市街戦
 支那陸軍は、その兵力二百万。数の上では世界一だが、戦闘力は残念ながら、まだまだ一流陸軍の仲間に入れない。上海戦で十九路軍がなかなか勇敢に戦ったが、その末路はあわれ、ちりぢりばらばらになってしまった。
 悲しいかな、二百万の大軍が、たえず国内戦をつづけて、支那の田舎の村々は家を焼かれ、田畑を荒らされ、見るかげもないありさまである。呪われた陸軍よ。兄弟同志血で血を洗うことを恥ぢよ。支那の国内戦がやまぬかぎり、東洋は永久に不安である。われ等は心の底から、支那の内乱を悲しまずにはいられない。(伊藤幾久造画)




空軍の根拠地

 空軍の根拠地
 支那の空軍は弱い。独立して戦う力はとてもない。しかし、その後ろには、外国の飛行士の一群がひかえているのだ。
 ジュエト大佐は、「支那よ。空軍を強くして日本を圧迫せよ。」と叫んでいる。そして、カーチス機、ボーイング機の精鋭が、青天白日のマークをつけて、極東の空をおおおうとしているのである。ボーイング戦闘機の下にいばって立っている白人将校は、はたして心から支那の親友であろうか? 支那よ、羊の皮をかむった狼に用心したまえ!(樺島勝一画)




中央軍と共産軍の山地戦

 中央軍と共産軍の山地戦
 支那の奥地には、赤い旗をおし立てた紅軍(共産軍)が四十万もいる。ソビエトが後ろからあやつっているのだ。これを討伐する蒋介石将軍の軍隊が八十万、じつに百二十万の大軍が、一年中たえず戦っているのである。恐ろしい内乱ではないか。
 共産軍は、山の中の戦闘が上手だ。討伐軍は、爆撃機や、大砲をもって猛烈に攻撃するのだが、なかなか降伏しない。江西省や四川省は、いたるところに、赤旗が翻り、支那は今やまっ暗な戦国時代に入ったのである。(飯塚羚児画)




 揚子江を遡る支那第一の大艦
 支那海軍は、小さいながら七十隻の兵力を持ち、揚子江に青天白日の軍艦旗を翻している。第一艦隊の旗艦「寧海」(ニンハイ)は二千五百頓、十四糎砲六門を備えた支那第一の大艦だ。東郷元帥の国葬には、けなげにも支那海の波を越えて、瀬戸内海に入り、一隊の儀仗兵を出して、元帥の御霊をとむらった。
 今、長江の濁流を遡る「寧海」の姿は、何となく、わが巡洋艦をしのばせるではないか。そのはずだ。彼はわが播磨造船所でつくられた日本産の艦(ふね)である。日本に生まれて支那を守る「寧海」よ。お前は東洋の二大国をつなぐ、くさびである。(吉邨二郎画)


 中国国内の分裂・内戦を憂うる心境を、「ポエム」入りの文章で示している。中国の反日運動には目を瞑り、日中友好を説いている。日本産の軍艦「寧海」をして日中友好の「くさび」になぞらえているのだ。

 しかし「くさび」を入れたら「東洋の二大国」はパッカリ割れる。平田晋策血迷ったか? と、あわてて平凡社『大百科事典』第七巻(1935年)を国会図書館のデジタル資料で見る。

 クサビ 楔
 一端を厚く他端に至るに従い薄く削った刀形の器具。木を割り物を挙げるに使う。樫材の如き堅木や鉄等で作られる。(略)物体を扛挙するに使う楔は多く鉄材で形は正方形を斜に二等分したものである。(略)


『大百科事典』より

 「楔」自体は三角形の物体に過ぎない。使いようでモノを割ったり、抜けそうになるのをつなぎ留めたりするのである。主筆の認識が偏っていただけであった。読者諸氏がうっかり間違えないよう敢えて書き残す次第(ツッ込む所が無くなった腹いせではない)。

 閑話休題。

 「一流陸軍の仲間に入れない」、「兄弟同志血で血を洗うことを恥ぢよ」、「後ろには、外国の飛行士の一群がひかえている」、「ソビエトが後ろからあやつっているのだ」、「今やまっ暗な戦国時代に入ったのである」、まあ云いたい放題であるが、そう云われても仕方がない事情であったのも事実だ。平田は昭和8年2月に上海・南京を訪れ、「寧海」も見学しており、深く感じる所があったのだろう。
 今日の中国軍の隆盛―陸上兵力は世界最大の160万人、艦艇880隻、戦車等約7,200輛、近年「ロケット軍」まで出来たと云う(『防衛白書』平成28年版による)―を平田晋策に伝えたら、「支那軍もそこまで立派になったのか」と、感涙にむせぶに違いない。
 敗戦の荒廃から立ち直り、オリンピックを成功させた事を以て、日本を褒め称えるのなら、内戦を(ほぼ)克服し、オリンピックを開催し、水爆搭載の弾道弾で世界壊滅の引き金を引ける力を持つに至った中国も、また天晴れと云わねばなるまい。

 その後第二次の国共合作が成立し、平田が嘆いていた国内戦は収束に向かうが、不幸にしてそれは東洋の平和ではなく日中双方が破滅する戦争に向かう道であった(その原因は、まず日本にある事は忘れてならぬ)。
 平田晋策は昭和11年に交通事故がもとで亡くなっており、日中が全面的に争うところを見ずに済んでいる(この人が戦中パタリと姿を消しているのを不思議に思っていたのだが、生きていなければ本など出せるわけが無い)。この人は「暴支膺懲」を叫んでいないのだ。

 「寧海」は、東郷元帥の国葬のため、「けなげにも」やってきたとある。
 当時の新聞記事(『東京日日新聞』昭和9年6月5日夕刊)によると、艦は門司に入港して儀仗兵を汽車で東京に向かわせているが、国葬参列には間に合わず国葬会場に直接赴く予定とある。

 それから横浜に向かい、6月7日『朝日新聞』に「めづらしや23年振り 民国軍艦が横浜に投錨」と、写真入りの記事になる。


 ところが、「寧海」は、支那事変勃発により、日支友好の「くさび」から、揚子江上の「目の上のタンコブ」、「喉に刺さった棘」とばかりに日本軍機の爆撃を受け沈んでしまうのである。


 『聖戦美談 興亜乃光』(省文社、昭和14年11月刊)に掲載された、帝国海軍機の猛攻を受け沈みつつある「寧海」の画。

 無敵海軍の真価を発揮
 昭和十二年七月七日事変勃発するや、無敵海軍は陸軍と緊密協力、塘沽砲台攻撃を手始めとし、暴支膺懲の聖戦に立ち、戦火の中支に波及するや、上海特別陸戦隊は、寡兵よく大敵を制し、海上部隊は我作戦区域の敵艦隊を撃破、支那沿岸全域の制海権を確保、他方海軍航空隊は、渡洋爆撃を皮切りとし、敵機敵基地を逐次攻撃、爆砕、遂に之をして再起不能に陥らしめ、四百余州の制空権を完全に我手に収めたのである。
 まことに、我海軍の活躍こそは目覚ましき限りと云わねばならぬ。戦局の進展に伴い、江上部隊は多大の困難を排し、史上空前の揚子江遡上作戦を完成、中支に一大輸送路を獲得、史上嘗つて見ざる大陸作戦の遂行を容易ならしめた。又海上部隊は支那沿岸二八〇〇浬に対し、風浪寒暑に堪え、其の封鎖を強行すると共に、之が強化の為海軍単独に、或いは陸軍と協力して、厦門、広東、海南島、汕頭の要地を占領する等、其の活躍は地域的にも作戦的にも頗る広範囲に亙り、敵に与えたる損害は甚大なるものがある。(略)
 画は黄埔江上敵艦「寧海」爆沈の光景。(飯塚羚児画)

 扱いはただの「敵艦」(しかも本文と直接のつながりさえも無い)。日中の「くさび」はあっさりと捨てられたのである。


『朝日新聞』昭和12年12月23日付

 上記の画の元ネタになったとおぼしき写真があったので載せておく。「寧海」は日本軍に鹵獲され、のちに帝国海軍の海防艦「五百島」となる。

(おまけの参考)
 平田晋策の生涯については、「特殊文献専門店」を標榜する怪美堂内の「平田晋策の生涯」(会津伸吾)が詳しい。本文でふれた平田に関する事項はこの記事に拠っている(こう云う良い記事がなんで活字にならぬのか)。

 「ポエム」云々は、小田嶋隆『ポエムに万歳!』(新潮文庫)に書かれている「ポエム」論が大きなヒントになっている。戦前・戦中の書籍、雑誌記事を見直していけば、いくつもの「軍事ポエム」が見つかるに違いない。