『カニ缶詰料理の栞』で73万おまけ
プロレタリア小説の名作、小林多喜二の『蟹工船』が、日本社会の「一億総中流」が「格差社会」に変化した事を背景に、ブームとなった2008年頃、百貨店の”ギフトセット中身の安売り”を見つけて、カニの缶詰を買ってきたことがある。
自炊をやめて久しく、調味料も無い台所―この頃はまだ冷蔵庫は持っていた(ドアは開かないが)―で、開けた缶から割り箸で中身を取り出し独りで食べた。「いちいち身を引っ張り出さないで済むのは便利ぢゃのう!」、「ホンマにカニの味がする!」と感動はしたのだが、カニの剥き身を黙々と片付けているうちに、俺は何をやっているんだろう? と空しくなった事を覚えている。
缶詰は全部で3つあったのだが、一つは自分が食べたものの、残りは人様に進呈してしまったのである。
古本屋で、こんなモノを見つけてしまい、それほど高くもなかったので買う。
『カニ缶詰 料理の栞』
表題そのままの小冊子である。
「蟹工船」から送り出された製品が、その利用法も含めどんな風に紹介されていたのか、なんとなく解ったような気になる読み物だ。
今回はこの冊子をご紹介する。
例の如く縦書きをヨコに改め、漢字・かな遣いを直してある。
はしがき
カニ缶詰は缶詰中でも最も美味なる食物として、洋の内外を問わず、ひとしく愛好せられ、殊に米、欧等の海外輸出高も一ヶ年二十七八万函即ち約壱千数百万円に達し、又其の産額は四十万函に及び、年々増加の経路を辿って居ります。
其の原料は北海道、樺太方面及び其の他の清冷な深海に産する「タラバガニ」と称せられ、体長四五尺重量壱貫匁余もある大きなカニを使用し、斬新な缶詰製造機械を装置した蟹工船と呼ばるる二三千頓の汽船内で缶詰に製造するか 或は沿岸の陸上缶詰工場で、製造するのでありますが、近来蟹工船が長足の発達を遂げ、製品の改良も年と共に実現せられ海外に於ても益々声価を高めるようになりました。
カニ缶詰に対しては製品検査が政府監督の下に横浜、神戸、大阪等で厳重に行われ、品位に依り、「ファンシー」「チョイス」「フェア」「パッスドA」「パッスドB」格外(品位は以上の記述の順序であります)の階級に区別せられて居ります。
尚、「パッスド」級は全部ソボロ肉詰でありますが他は多量の脚肉を詰めたものでありますから、使い道に依って随意選択するように願います。
カニ缶詰の見分け方は肉色が鮮明で、香気もよく、形態の余り崩れないものが味もよく又良品であります。(パッスド級品はソボロ肉詰でありますから形態に就ては例外であります。)若し悪臭弱く黒変著しきもの又は膨脹缶は絶対に避けなければなりませぬ。
間々新聞紙上で蟹缶中毒云々の記事を見ることがありますが、その多くは真の意味の缶詰中毒、例えば、プトマイン中毒や、錫や鉛の金属中毒ではなく、缶詰開缶後の処理を誤ったのに起因するようでありますから、開缶したら、生ものと同様に取扱うことが肝要であります。開缶しても缶詰であると言う考えが種々間違いの起る原因でありますから、此の点を特に注意したら何時も清新な美味を喫することが出来る訳であります。
此蟹缶詰は前述の如く其儘食膳に供しても、甚だ美味ではありますが、料理の方法宜しきを得れば、更に一層その食味を佳良ならしめるものでありますから、茲に各家庭の必需品としてカニ缶詰を推奨するにあたりその主なる料理法を記述してカニ缶詰愛好者の座右に呈せんとするものであります。
昭和二年四月 日本蟹缶詰業水産組合連合会
「開缶しても缶詰であると言う考えが種々間違いの起る原因」と書かれている。昭和の御代になったとは云え、まだまだ「文明開化」の途中なんだなあ…と微笑ましい。「見分け方」も記されているが、「膨脹缶」はともかくとして、中身の色と臭いに気をつけましょうと云われても、缶を開けて初めて善し悪しが解るのでは間に合わない。
当時のカニ缶には、「ファンシー」に始まり格外に終わる「品位」があることが紹介されているが、昭和3年1月15日付『中外商業新報』では、この区分は細かすぎるので「ファンシー」「フレーク」「格外」とし、かつ内地向け・輸出向けに集約しよう云う動きがあると報道されている(※1)。この冊子にある「ソボロ肉詰」(『パッスド』AB)が「フレーク」にあたる。
まだ実家にいた頃、おかずが無くて「シーチキン」をメシに載せ、醤油を垂らしてかき混ぜて喰った事が何度もあった。最初からほぐれているものと、いちいち崩さないといけないものがあって不思議に思ったものだったが、あれが「ファンシー」と「フレーク」の違いであったのか、と今にして思う。
冊子裏表紙、北の海を行く「蟹工船」と、工場が描かれている。
カニ缶詰の基礎知識が語られたあとは、料理法の紹介だ。
カニ缶詰料理の栞 目次
1、そのままで召し上がるには
2、お酢のもの
3、カニさらだ
4、カニ玉
5、五目めし
6、カニのコロッケ
7、カニのクリーム和え
8、玉子寄せ焼き
9、カニの叩きぬた
10、カニの天麩羅
11、カニの玉子巻
12、カニ茗荷青紫蘇印籠漬甘酢
13、カニと野菜の赤茄子煮
14、カニの雲丹餡かけ
15、カニの柚子酢
16、カニの錦蒸し
17、カニのそぼろがけ
18、カニの焙烙蒸
19、カニの海苔巻
20、カニの信楽揚
21、カニの胡麻酢和え
22、カニの卵白蒸
23、カニの雲丹和え
24、カニの山かけ
25、カニの松風焼
26、カニの蕎麦かけ汁
27、カニのカクテール(カクテール・ド・クラブ)
28、カニのクリームスープ(クレーム・ド・クラブ)
29、カニのパン粉揚(クラブ・ア・ラングレース)
30、芙蓉蟹
31、蟹羹
32、炒蟹粉
33、炸蟹球
34、蟹焼蛋
35、蓑衣蟹肉丸
和洋中(そのままで、と云うズボラなのもあるが)あわせて35種類! 名前を見るだけで内容がわかってしまうようなモノから、カニ抜きで料理屋・呑み屋で喰ったモノ気がするようなモノまでさまざまだ。
人気の「カニクリームコロッケ」は「29,カニのパン粉揚」に相当しそうであるが、「カニチャーハン」「カニグラタン」に相当するメニュウは無い。
全部紹介する余裕はないので、手早いところだけ2、3書き写しておこう。
1.そのままで召し上がるには
カニ肉を缶から出して器に盛り 醤油かソースを少量用いていただきますと 食欲を増し大層美味です。殊に来客などありました折には、極く手軽に結構なビールのお肴が出来て誠に経済でもあります。
冊子表紙の「主婦」がやっているのが(多分)これだ! 「缶詰中で最も美味」と書いておりながら、少しは味をつけないとウマくは無いモノと云うことか。
2、お酢のもの
(A)缶詰蟹肉其の儘を三杯酢浸し大根卸しを添えて賞味す。
(B)カニ肉の筋をとり除けながら器に盛り分け三杯酢をかけて、もみのりをちらし卸しわさびを添えて出します。
(C)蟹肉を缶から出してもみほぐし水分を絞りきって器に入れ レモン汁を搾りかけパーセリー(パセリ)のみじん切をふりまきオリヴ(オリーブ)油をたらしかけて出します。
(D)カニ肉をほぐして酢に浸しておき 生姜(ひね)少しをみじん切にして水で晒しておき 胡瓜を二つ割にし木口から薄く刻んで塩をふりかけ軟かくなったら水洗して水気をきり 前のカニの酢をきり生姜も水分をきり 三種をまぜ合せて器に盛り 甘酢をかけます。
(D)は、気の利いた小料理屋で出してくれそうな一品だ(ああ早くこれ仕上げて呑みに行きたい!)。
3、カニさらだ
材料 (割合)カニ半斤入缶詰一個、馬鈴薯百五十匁、玉葱一個、塩、胡椒、酢、サラダ油、マヨネーズ・ソース
調理法―蟹は缶より出して筋を去り細かにほぐして水分を絞り 酢とサラダ油を少しづつ注ぎかけておき、馬鈴薯は塩茹にし茹上がったら直ぐ茹汁をきって冷まし 皮をむいて木口から一分位の厚さに切っておき、玉葱は両端を切り落とし外皮をむいて四つ割にし木口から薄く刻んで塩をふりかけ軽くもみ合せて水で晒しよく水分をふり切り 以上三種をマヨネーズ・ソースで混ぜ和え切子硝子の器に盛り分けます。
こりゃカニ入り「ポテトサラダ」ですね。主筆が行く呑み屋の場合は、ジャガイモの代わりに刻んだ胡瓜を使い、レタスの葉に載せたモノが出て来ます。レモンをちょいと絞ってやっても宜しい。表記の「さらだ」が可愛い。
盆暮れのご進物と、町の料理屋さんが「カニなんとか」を作るときに重宝するカニ缶であるが、この冊子が出た昭和の初めのステイタスはどんなモノだったのか?
残念ながら『値段史年表』 明治・大正・昭和(朝日新聞社)の「缶詰」で取り上げられているのは、「牛肉大和煮」と「鮭水煮」の二種類で、我等が「カニ缶」は載ってないのである。
『大阪朝日新聞』の「かに缶売行難」(昭和2年12月27日付)と云う記事(※2)には、
輸出期の当初一箱(半斤入八打)最低四十一円の協定相場を保たれたものが最近に至っては遂に三十円見当まで売崩されるに至った
との記述が見える。
ここから缶詰一個の値段を算出すると、半斤(300g)入りの協定相場が約42.7銭。それが値崩れして31.2銭になったと云う。
この頃の牛缶が27銭、鮭缶は12.5銭(『値段史年表』)なので、やはり高級品と見なす事が出来る。ちなみにキャラメルは昭和2年も「大箱10銭、小箱5銭」。コーヒー1杯は10銭の由。例の戦前3千倍/2千倍をやると、1281円/854円となる。食卓がさみしいからと云ってチョット気軽に買えるような値段では無い。
ところが、現行商品はいくらで売られているのだろうと、マルハニチロのウェヴサイトを見てみると、相手がカニだけに目ン玉が飛び出るような事が書いてあるのだ(2017年1月調べ)。
金線たらばがに
王様蟹の風格を誇るたらばがに。北洋の海で漁獲された鮮度良好なたらばがにを直ちにボイル・急速凍結した原料を使用しております。
内容量 固形量120グラム 希望小売価格5000円(税抜き)
特選たらばがに脚肉 産地アメリカ
商品特長
王様蟹の風格を誇るたらばがにの一番脚肉。北洋の海で漁獲された鮮度良好なたらばがにを直ちにボイル・急速凍結した原料を使用しております。
内容量 固形量165グラム 希望小売価格13000円(税抜き)
13,000円は総督府家賃の1/3にも相当する! もちろん安価なカニ缶も扱ってはあるのだが、それらは残念ながら「王様蟹」タラバガニでは無い(それらを『庶民蟹』と呼ぶ、と聞いた記憶はさすがにありません)。
無謀な戦争を仕掛けてコテンパンに負けた結果がこれである(笑)。もっとも、帝国日本の領土が、北の方まで残っていたとしても、乱獲や放射性廃棄物の捨て場にするやらで、結局は高嶺の花になっている可能性は高いのである。
(おまけのおまけ)
プロレタリア小説の旗手として名を上げた小林多喜二が、警察で殺された事は、良く知られた話だ。
大日本雄弁会講談社『現代』昭和8年10月号附録、『現代日本に活躍する 人物とその団体』に掲載された記事「文壇の現状とその人物 誰が一番活躍しているか?」は、当時の文壇現状を「戦国時代」と評し、「どこを見わたしても、織田信長が出て来そうな気はいもない」と嘆いているのだが、「プロレタリア文学」の項で、
(略)個人としてこの仲間でいちばん活躍していたのは、今春あの有名な『急死』を遂げた小林多喜二氏で(略)プロレタリア文学の上に華々しい功績を残したことは、彼の思想を肯定するか否かは別問題として 敵も味方もこれを認めないものはない立派なものであった。
と評されていて、彼の死がその筋の手によるものである事が、公然の秘密として語られている。この頃は人気があったのだなあ…。
(おまけのおまけ)
折角だから当時のカニ缶の写真なり、ラベルなりを載せたいものだと思うが手許に無い。
探していると今月の更新に穴を開けてしまうので、新宿三丁目の某百貨店に行き、「たらばがに」の缶詰を一個買う。
マルハニチロの高級品ほど目玉は飛び出ぬが、気合いを入れないと買えぬ古本一冊分の値段はする。それゆえ缶詰売場にはサンプルだけが置いてあり、店員を呼びつけどこかから持って来てもらわなければならないと云う、昔の社会主義国家の国営商店かと思うシロモノなのだ。
特選たらばがに 脚肉100%
しかし、そんな商品でありながら、支払いはスーパーマーケット然としたレジ(店員はさすがにお上品ではある)に並んで行い、デパートのロゴの入ったビニール袋に入れてもらっておしまいなのだ。ハンカチの一枚も買う方が、よっぽど御客様扱いされるような気がしてならない。
(※1)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 水産業(7-044)
(※2)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 水産業(7-038)