「記念」は何処へ消えたのか

「直木三十五全集」広告で73万3千おまけ


 小説のたぐいを殆ど読まぬ「兵器生活」主筆でも、日本文芸の二大タイトル、「芥川賞」・「直木賞」の名前は知っている。

 正式名称が「芥川龍之介賞」・「直木三十五賞」(これは本稿のために調べてみるまで知らなかった)なのは、両者の業績を末永く記念するためだと云う。
 芥川の作品は、国語の授業でいくつか読まされているし、オリンピックをやる前の中国に九四式軽装甲車を見に行った頃、戦前支那の雑本といっしょに『支那遊記』を読んだ記憶はある(内容は忘れて久しい)。
 昭和初めの世相読み物を開けば、彼の自殺の記事が必ずと云って良いくらい載っているし、タバコをプカプカやる姿が映像でも残っているため、芥川は今後も現役で歴史上の人物をやり続けるに違いない。
 一方、直木三十五の名を冠した文芸賞は、誰が受賞するのか? 受賞したのかも、それなりに世間の話題に上っているのに、直木三十五の文庫本を近所の新刊書店で見かけたためしが無い。

 芥川の作品を一つも読んでない芥川賞作家を想像するのは難しいが、直木三十五を読んでない直木賞作家なら、ゴマンといるんぢゃあないか? とさえ思う。
 高円寺の古本屋で、『改造』昭和9年6月号を買う。
 買う必然はまったく無いのだが、本屋の入り口に映画「この世界の片隅に」のチラシが貼ってあるのを見てしまった以上、手ぶらで店を出るわけには行かず、「サンプル」の口実でやむなく買ったのである(笑)。

 何かネタに使えそうな記事はないかと、パラパラ中を見ていると、こんな折り込み広告を見つける。


新編 直木三十五全集

 新編 直木三十五全集
 全十五巻

 この絶賛と疾風的売行に見よ!!
 稀れに見る苦闘と、一代の覇気を傾けて、巨弾又巨弾の釣瓶撃ちに、一躍昭和文壇の第一人者と目されし大直木の光輝ある遺作こそ、永劫不滅の文学だ!

 ムンクの有名な絵みたいな痩せたオッサンが、直木三十五その人である。小説家のアタマに「大」をつけるのは、「大谷崎」(谷崎潤一郎)と「大乱歩」(江戸川乱歩)くらいかと思っていたが、この人も当時は「大直木」と(宣伝上?)称されていたのだ。


 映画と小説の広告は、出た時こそ本作が「最高」で「空前絶後」の傑作だと豪語するが、出てしまえば後は知らんぷりをする事が多い。単体の作品と全集の違いはあるが、これもそのパターンと云えるだろう(その点プラモデルの広告は謙虚だ)。
 作家の全集広告の宣伝文句が仰々しいとは云え、これだけで「兵器生活」のネタにするようでは、印度総督もいよいよネタ切れだと云われても仕方がない。

 本題はその裏面にある!


軍部の中心勢力は斯く見る

 軍部の中心勢力は斯く見る
 直木氏の作品に於る愛国的熱情と燃ゆるが如き信念とは我軍部も大に歓迎する所なり、現時国軍の中心精髄ともいうべき、前陸軍省新聞班長鈴木貞一大佐、陸軍省新聞班長根本博中佐、陸軍省新聞班員三國眞福中佐等は、各左の一文を本社に寄せて、直木氏の作品を賞揚された、這(ママ)は即ち、直木氏の作品が、一般読書層の熱賛を博しつつあるは勿論、更に進んで軍部多数の共鳴を得たる証左として、本社は欣快に堪えざるものがある。

 「軍部多数の共鳴」! 軍部の構成員も人間であるから、文芸に親しむ軍人も存在し得るのは確かだろう。しかし、この言葉は不穏な響きがあり過ぎる(笑)。

 陸軍省新聞班は、「アジア歴史資料センター」の説明を引けば、

 1919年5月設置。陸軍の宣伝広報活動や新聞検閲などを一元的に管掌した部局。前身は1914年8月16日陸軍省令第12号により陸軍大臣官房に官制外組織として設立された新聞検閲委員。その後1919年1月6日新聞係が新設され、4カ月後には新聞班として再編された。官制外組織として設立されたため官規上では編制表に存在しない機関であるが、設立当初は臨時軍事調査委員の監督下に置かれ、その後1922年3月より作戦資材整備会議、1926年10月より軍事調査委員(1933年12月に軍事調査部)、1936年8月より軍務局の所属下に置かれた。1934年「陸軍パンフレット事件」として有名な『国防の本義と其強化の提唱』は、陸軍省新聞班による発行である。1939年4月5日陸普1977号により情報部へと改称された。

 とある。企業に例えれば広報部門だ。この広告では「宣伝広報活動」部局の顔を見せていることになる。
 広報される内容は、陸軍を代表するものと見なされるから、相応の重みはある。しかし「中心勢力」と云うのには、少々違和感を覚える。

 鈴木貞一は、のち東條英機内閣で企画院総裁を務め、敗戦後はA級戦犯として収監されている。根本博は敗戦直後に北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官として内蒙古でソ連軍と戦い、三国真福は第二一師団長として仏印で敗戦を迎えている。全員中将まで勤めているから、実力者ではあったろう。しかし企業の広報部門を、その会社の中核だと認識しているわけで、これは「誤認」と云うべきではなかろうか?
 そう考えてみると「軍部多数の共鳴」云々も相当割り引いておいた方が良い。これでは海軍の立場が無い。
 「軍部の中心勢力」が何を寄せてきたのか見てみよう。

 直木君の全集に就て
 鈴木貞一
 予が故直木君を知れるは昭和七年の春であって 時恰かも我大和民族が満洲事変を中心とする 愛国的興憤の真只中に置かれたる時となった、爾来同君と相語る事僅かに両三回に過ぎざりしも 予は同君の胸底深く蔵せられたる祖国愛の純情と熱血とに 感激の情切なるものがあったのである。
 然るに天運時を仮さずして幽冥界を異にするに至れるは 尚多く語らんとする希望を有せる小生に取りては悲みの更に切なるものあるを覚ゆるのである。
 けれども同君の魂魄は 真燦たる文と共に永遠に此世に厳存すべきを想う時、亦以て聊か慰むる事を得るのである。此意味に於て予は予以上に直木君の知己におかるる人々によって 同君の全集が出版せられ広く各界の人々に分たるる事となった事を感謝し得 御喜び致す次第である。

 「昭和7年の春」に知り合い、「相語る事僅かに両三回」に過ぎない人が、「尚多く語らんと」の想いに駆られ、全集の提灯持ちを進んで引き受けている。商売上のコメントではあるが情がある。


 彼の強情が好き
 根本博
 直木君とは卯年生れの同年である為め 親友の一人として交際もし議論もしたが、僕が昭和七年七月支那に駐在を命ぜられて日本を去った為め 爾来直木君に会う機会もなく 支那の土地で直木君の訃音に接した時には気がムシャクシャして三日ばかり酒で気をまぎらした。
 僕は直木君の直情径行な所が大好きだった 麻雀をやっても一切「チイ」(原文は漢字にルビ)や「ポン」(原文は漢字にルビ)をやらない彼の強情さが好きだった 直木君の全集を手にして死んだ筈の彼に再会する様な思がする。

 こちらは「親友の一人」を自認している。議論もやりマージャンも打っていたと云うのだから、商売とは次元を異にする世界だ。訃報を知り三日も酒浸りになるのは、話半分としても直木三十五から受けた印象の強さが偲ばれるではないか(国防上、それで良いのかとは思うが)。


 楠木正成の一読を
 三国真福
 変り者の直木君には一の信念があった、着流し、無帽、懐手、大衆注視の中を平気で押し歩く処など慥かに変り者だった、然し之れも君の信念とあって面白い、議論など矢張り此の意気だった。それ故に僕は君を信念の人として敬愛していた。暫く会わない間に君は死んで了ったが 今改造社出版の全集を手にし「死までを語る」「私」などに接すると君の面目躍如たるものがあり 君と再会する思いがある。尚「楠正成」の雄篇之れは是非江湖の一読を望んでやまない。

 「変わり者」であるとしつつも、「信念の人」として敬愛していたと語り、全集に載った文章を読み返して「再会する」と述べる。直木三十五と云う人は、相当面白い人物だった事がヒシヒシと伝わってくる。
 こうなると、直木三十五の伝記くらいは読んでおかなければならない気になる。

 最近出たものに『知られざる文豪 直木三十五 病魔・借金・女性に苦しんだ「畸人」』(山崎國紀、ミネルヴァ書房2014年刊)と云う本がある。注文すれば買える(2017年3月現在)モノだが、取り寄せしていると今月の更新に間に合わないので、本屋さんには申し訳ないが、『この人・直木三十五』(植村鞆音・篇、鱒書房1991年刊)とあわせて図書館で借りてくる。



借りた本二冊

 『知られざる…』は、文字通り現代では「知られざる」直木三十五の生涯と、その主要な作品の梗概を紹介し、業績を再評価しようとする評伝である。
 
 評伝は、彼が今日「知られざる文豪」になっている原因の一つとして、、昭和ヒトケタ代に死んだ事を指摘している。直木が結核性脳膜炎で死んだのは、今回の元ネタである全集の広告が『改造』に載ったのと同じ年、昭和9(1934)年2月24日のことである。満43歳。生きていれば昭和20年でも54歳であるから、さらに傑作・話題作を書ける可能性があったわけで、こうスッカリ忘れ去られることも無かったと云うわけだ。

 『この人…』は直木の甥にあたる編者が、彼の生誕百年を記念して、各界の人達が残した「直木のエピソード」を集成して、伝記を書くためのネタにすべくまとめ上げた本である(伝記は『直木三十五伝』として文藝春秋社から2005年に刊行されている)。

 評伝は直木の特異なキャラクターが巧くまとめられているし、『この人…』はその有力なネタ元の原文を集めたものであり、どちらも面白い読み物である。しかし、自分が一番知りたい、直木と全集広告に寄稿した軍人との関係についての記述は薄く不満が残る。
 『知られざる…』の一項、「『ファシズム宣言』と軍部への接近」は、昭和7年に書いた「ファシズム宣言」、同年初頭に「軍部の中堅将校たちとの会合に数回出ている」事、8月に当時の陸軍大臣荒木貞夫と会談し、その会談録を発表しているとある。その頃、陸軍省新聞班の人達と面識を持ったと推測は出来る。

 昭和6(1931)年9月の満洲事変勃発と国際連盟脱退、その後に喧伝された「1935、6年危機」説が、直木に戦争への危機意識を持たせ、陸軍に接近させたのか、あるいは陸軍の知恵者が人気作家となった直木を利用しようと手を伸ばしたのか、どちらも想像は出来るが、これ以上を口にするには全集に目を通して少しウラを取らないと危険極まりないし、作家と国家が寄り添うメカニズムを考える入り口に立ち、このまま引き返すのも「ちょっともったいない」。

 と云うわけで、高円寺の古本屋の片隅に貼られていたチラシのおかげで、次回以降のネタに当分悩まずに済む。人様に読んでもらえる記事が書き上がる保証は、例の如く全く無い。

(おまけのおまけ)
 直木が、当時としては珍しい「無帽」だった(昭和7年に上海の戦跡で撮られた写真では帽子を被っているが)事について、『知られざる…』は、吉屋信子が直木にそのわけを尋ねた際、小学生の頃、好きだった女の子に「帽子被ると随分顔が長いのねえ」と云われたため、「帽子って奴は諦めた」と真顔で答えた話を紹介している。

 同書に引かれた青野李吉の回想では、早稲田の予科時代の直木は「冬でも天井のぬけた夏帽子を目深かにかぶり」と描写されている。顔の長さを相当気にしていたらしい。
(おまけのまぬけ)
 『知られざる文豪 直木三十五』の冒頭は、

 考えてみると、世の中には不思議なことが多くある。しかし、人々はそのことに対してさらに深入りして知ろうとしない、という妙な妥協の中で生きているようにも思える。
 その一つというか、典型的な例が直木賞ではないか。直木賞といえば、その対になって出てくるのが芥川賞である。試みに、その名がついた由来を聞くと、芥川賞の場合は、ほとんどの人が”芥川龍之介”と応じる。だが、直木賞となると通常的な教育をもっている人の多くが「ウーン」と唸り、「知りません」と答える。

 と云う文章で始まっている。
 同じ事象を語ろうとして、文章の巧い下手がここまで鮮やかに出てしまうと、「文は人なり」の言葉がイヤと云う程身に沁みていけない。