『エチケット』(昭和33年)に見る、便所借用者の恨みつらみで74万9千おまけ
東洋大学裏手、白山神社西側の石段を下ると、すっかりマンションに置き換えられた商店街がある。ある日の夕方、根津で呑んでの酔いざまし、こんな所まで歩いていると古本屋が(ありゃ)♪
『エチケット 淑女の資格・紳士の条件』(日高孝次・日高艶子、光文社カッ パ・ブックス、昭和33年刊)を買う。
著者紹介によると、日高孝次は中央気象台、神戸気象台を経て東京帝国大学教授となり、日本海洋学会の会長となった人。艶子はその妻。夫婦で「若い人のための”社交場”の必要を痛感し」、”日高パーティー”と称される集まりを主宰、この本が出た時点で会員2千人を擁し、通算1万5千人の青年男女に出会いの場を提供したと云う。
本書は11回に及ぶ著者の外遊体験のみならず、”日高パーティー”での経験・見聞に基づいて、「形式的な礼儀作法」ではなく、「相手の気持ちを落ち着かせ」「よい気持ちにする」、現代の”エチケット”を説く読み物である。
内容は、言葉遣いから服装、テーブルマナーに「集会(パーティー)」の開き方、男女交際と幅広い。しかし「兵器生活」主筆が、戦後の通俗作法読本を買うのはともかく、何でネタにしているのか?
「意外にとぼしい『便所(トイレ)』の知識」の芳香に惑わされたのだ。
「便所はどうせきたないところだから」(汚しても良い)、「よごれやすいところだから、できるだけきれいにたもちたい」二通りの考え方を紹介し、気をつけてきれいに使いましょう、と云う記事になるかと思いきや、”日高パーティー”に参加した、前途有為な青年男女―高度経済成長以前の「大学生」、「大学出」と、それに釣り合いの取れる「お嬢さん」―が、日高家の洋式水洗便所で如何なるふるまいをしてきたかを、赤裸々に暴き立てているのだ。
さすがに”蓋の上に黒々と「とぐろを巻いた」モノが…”な記述は無いが、まだ洋式便器が珍しかった時代の貴重な証言と云うことで、戦後のお話ではありますがご紹介する次第である。
以下、タテのものをヨコにし、漢字を足したりして読みやすくしてある事をお断りしておく。
便所(トイレ)に対する考え方に、二通りあります。「便所はどうせ汚いところだから」という考え方と、「汚れやすいところだから、できるだけきれいに保ちたい」というのがそれです。
(略)
「便所は汚れやすいところだから、美しく保ちたい」という考え方は、欧米諸国に始まりました。水洗便所の起こりはここにあるのでしょう。すなわち、一回ごとに排泄物を水できれいに流し清めて、あとに何も残さないようにする。こうして長い年月のあいだに、便所に対する観念が、西洋と東洋ではまったく別種の発達をしたのです。欧米では便所と風呂がいつしょにあるのが常で、もはや、汚いという感じはまったくありません。水で排泄物をすっかり流し、便器を清め、臭気をなくしてしまえば、ちっともきたなくないからです。
これに反し、日本では現在でも、じつに汚い便所があります。日本の共同便所などの汚さと不潔さは、目も当てられないものがあります。もちろん汲取便所でも、十分清潔に使用すれば、けっして不潔なものではありませんが、よほど完備したものであっても若干不潔な臭気はまぬがれがたく、水洗便所の爽快さは味わえません。このことに気がついてでしょうか、大都会の便所は急速度に水洗式に改良されつつあるようです。しかし問題は、水洗便所の使用法が十分徹底しない点にあります。日本人は幼少のころから、便所は汚いものであるという観念を植えつけられています。したがって、それを清潔に使用しようと努力しないからかもしれません。あるいは、まだ水洗便所になれていないせいかもしれません。
西洋便所=清潔、東洋(日本)便所=不潔、の項立てだ。単なる欧米賛美に見えるが、汚物と悪臭がなければ「清潔」(厳密に云えば”不潔では無い”)とする科学的思考の現れである。戦前日本でも、水洗便所が理想と唱えられていたのだが、人糞を肥料原料とする慣習と、下水道布設が進まなかったのである。そう思うと、日本の便所が気の毒になる。
しかし、それでも日本人の便所観=「どうせ汚いところ」が、水洗便所の普及によって変わるはずだ、の思いが言外に充ちている(そうなっていない事は、読者各位も感じておられよう)。
【主筆からのご注意】
ここから「水洗便所になれてない」ため発生した悲喜劇のご紹介となります。食事中・調理中の方、尾籠な話が苦手な方は、無理に読まなくて結構です。
私どもは数年前に、芝のアメリカ文化センターで約三百名くらいの会合を二回しました。
(略)支配人の某氏から、たいへん言いづらそうでしたが、結論として「とにかく大変迷惑をしているので、今度限りで会場をお貸しすることはお断りしたい」と言うのです。(略)支配人が言いづらそうにしていたのは、便所が汚れて困る、ということだった事がわかりました。
この建物は、以前、宿舎にも使用していたと見え、水洗便所の隣にシャワーがありました。しかし、今は宿舎に使わないので、シャワーの方は扉が閉めてあって、開かないように細い木でつっかい棒がしてありました。そして扉には、英語で SHOWER と書いてあったので、グループの紳士、淑女はその意味を十分知っているはずだと思っていました。しかし、実際には、その意味がわからない人があったとみえ、これを便所とカン違いして、この木の棒をへし折って中に入った形跡がありました。しかし、もちろん、便器も何もありませんので、ここで用便をしたとは考えられませんけれども、便所と間違えて中にはいったことはたしかです。
その隣に本物の便所がありました。悪臭がみなぎっているのは、水を十分流さなかったからに違いないと思いました。そこで、さかんに水を流してみました。けれども、悪臭はいっこうに除かれません。調べてみると、悪臭は便器の上部の木製の枠から発散していることがわかったのです。この枠に、小便だけでなく大便が大量にくっついていて、まったく不潔な状態になっていました。(略)
おそらく、一人が汚したままで放っておいた上に、また、次の人が何回も何回も同じことを繰りかえしたために違いありません。いずれにせよ、出席者の中には水洗便所の使い方を知らない人、知っていても面倒くさがって水を流さなかった人、汚れているのを見ても便所は汚れているものと観念して水を流さなかった人、汚したのは前の人だから我不関焉(われかんせずえん)とすましていた人、西洋式の便器になれないため便意をさまたげられ、木製の枠の上に靴のまま乗っかってした人などが相当数いたに違いありません。閉会後、疲れはてた妻が便所の掃除をしている姿は、じつにあわれなものでした。
昭和33年刊の本に云う「数年前」なら昭和27〜8年、占領状態が終わった頃だ(『ゴジラ』が出来る前ですね)。
シャワー室で「用便したとは考えられません」とあるが、切羽詰まって排水口に向けてジャーとやった人はいたはずだ。そうでなければ、木の棒をわざわざヘシ折るものか。
東京大学の教授=”紳士”の依頼だからと、集会会場の提供に便宜をはかったばかりに、「便器の上部の木製の枠」(今なら『便座』で済む)に糞を詰め込まれた支配人の怒りの強さが、「疲れはてた妻が便所の掃除をしている姿」に現れている。孝次さん、アナタは見ているだけですか! 艶子さんも怒りを静かに燃やしていたことだろう。
恨み節は続く。
私どもの宅でも、同じようなことがたびたび起こります。青年男女五、六十人の集まりのたびごとに水洗便所が汚れるのが常でした。これを掃除するのは、もちろん妻の仕事です。あるときなど、便所の床がビチャビチャによごれていたので、よく調べてみたら、電気をつけないで、暗闇のままで、日本式の便所だと思いこみ、なんと、西洋便器のふたをした上にジャージャーとやったらしいのです。便所の中が水びたしなのは当然です。
便所の中は自分一人、だれも見ていないから何をしようとわかるもんか、と思っているのでしょう。しかし、そう簡単にもゆきません。回を重ねるにしたがって、だいたいの見当はつくものです。ただ「あなたが汚しましたね」とも口に出して言えないので、だまっているだけです。しかし、「どうせ、よう言わないだろう」とたかをくくって、人の厭がることを平気でするなぞということは、世の中で、一番エチケットに反したことです。
外出先で用便をしたあと、水の流れ方がわるくて、すっかり汚物を流すことができない場合がよくあります。そんなときには、家人に頼んでバケツに水を一杯もらって、きれいに流してから出てきてください。バケツに一杯水をもらうことがいやなため、そのままそっと出てくる人が多いのですが、あとで家人がそれを見つけると、じつにいやな思いをするものです。そして、あなたが軽蔑される結果になりかねません。日常生活の中で、私たちはちょっとしたエチケットがないために、恥ずかしがったり、照れたりして、かえって大きな恥をかくことが多いものです。
公衆便所はもとより、公共施設など不特定多数の人が使う便所なら、不始末をそのまま逃亡しても追求される事は殆ど無いだろう(30年前、千歳空港の便所を詰まらせて逃げたのは私です!)。しかし、個人の自宅や家族経営の店舗のトイレを酷く汚された側は、いつまでも覚えていることを、この文章は怖いくらいに語っている。植民地支配からセクハラ、パワハラに借金の踏み倒し、契約の不履行みな同じだ。個人に対しての”エチケット”と考えれば、世の中もう少し風通しが良くなると思う。
閑話休題。日高氏によれば、洋式便所の失敗は、以下のような原因にもとづくと云う。
平素、水洗便所を使っていないお宅の人が、なれないためにする失敗も少なくありません。洋式の腰掛便器の座り方がわからず、前過ぎたり、後過ぎたり、反対に掛けたりするため、汚物が器外にこぼれることがひじょうに多いのです。また、腰掛式の便器になれない方が、木製の枠の上に靴のままで乗っかって、しゃがんでするばあいは、不安定なためちょっとしたはずみに外にこぼれるらしいのです。これは、私どものように長い年月、幾度も幾度も同じことを体験して、はじめて知ることができた、尊い結論ですから、間違いありません。
一般家屋にも洋式便所が設置されることが珍しくなくなった現在、男の小便でさえも「座って行う」よう、妻や母から強要される話も聞く。「黙って座ればピタリと当たる」から、粗相などあり得ないものと思ってしまうが、洋式腰掛便器を使いこなすにはコツがある。便座に土足で上がるのは論外だが、確かに前方過ぎれば便器の傾斜が緩やかな所に大便が引っ掛かり、現物・痕跡が残る。洋式便所の水は便器前方の浅いところでは殆ど水量が無いから、ここに垂れるとバケツを借りて流すしか手立てはない(お湯の方が便を溶かす力があるので、出来るのならヤカンを借りるべきだ)。後ろ過ぎての粗相はちょっと想像しかねるが、きっちり座っていなければ便座に垂らす可能性はあろう。男性の場合、筒先の機嫌が悪いのに気付かず、便器を飛び越えることもあるから、クールに行くべきだ。
原因はともかく、何かあればその都度、使用者以外の誰か(日高氏婦人の艶子さんだが、女中の一人もいたのではなかろうか)が文字通り「手を汚していた」のである。
尾籠極まりない話はまだ続く。
数年前、私の宅に背がスラリと高く、特別美しい、ファッション・モデルのような若い女性がときどき訪れていましたが、じつは、この人が、水洗便所の使い方になれていませんでした。日本式の便所になれている彼女が、宅の西洋式の腰掛式水洗便所で用を足しますと、いつも小便がはみ出して、まわりがビチャビチャになるのです。あまりに美しく、シックな女性だったので、かえってこちらが恥ずかしくてなんとなく注意もしかね、このときに思いきって、先に書いた注意書と絵を貼り出したわけでした。日本式ですと前の方に小便が流れるようになっていますが、西洋式は反対ですから、あまり力を入れてすると、その勢いで小便がはみだしたり、飛沫が飛ぶわけです。
また、大勢の中には、妙に潔癖な人があって、西洋便器の上にある木の枠の上に、直接自分の肉体を押しつけるのが、いかにも不潔な気がして嫌なため、中腰になってするらしいのです。そのため、本人が予想もしなかった方向に排泄物が飛び出すといったことになります。こういった失敗は、案外多く、私の長年の体験では、西洋便器の使い方で失敗する人の三分の一は、この方法だと思っています。この種の人たちも、便所は汚いところときめてかかる、古い日本の観念にとらわれているのにちがいありません。
男の人は、小便の際、木の枠を使用前に上にあげてしないと、どうしても木の枠が小便の飛沫で汚れますから、次に使用する人が嫌がって、やむをえず中腰になるということもあります。また女性は、九五ページの図のように、便器に向かって図のように後向きに腰をかけることを覚えていいただきたいと思います。もちろん男性も、大便のときには、この方法でこの向きにすることになっています。使用後、よく水を流して、これなら大丈夫と見とどけてから落ちついて出てきてください。
「まわりがビチャビチャ」になったら、当事者の靴下、晴れ着の裾にも被害はありそうなものだ。便所を離れてしまえば不始末の跡は目立たず、それをあえて指摘しないのが”エチケット”かも知れぬが、「回を重ねるにしたがって、だいたいの見当はつくものです」と明記してあるくらいだから、わかる人にはバレる。
便所の粗相を整理すれば、持ち主に不快な思いをさせる行為は多くはない。
1)便器・便座や花器などの器物を物理的に破損させる
2)便器や便所の床・壁を排泄物や吐瀉物で化学的に汚損する
(”出したモノが流れない”のもここに含める)
3)喫煙の不始末で便所を燃やす
この三つのどれか、あるいはその組み合わせに過ぎない。1)の破損、3)の焼損を”無かったこと”にするのは非常な困難を要するが、2)の場合、大物が残ってしまったら、何度も流すことになるが、”産みたて”であればお湯を使った方が早くてキレイだ。ささいな飛沫であれば人知れず解決をはかる事が出来る。備えつけの紙―無ければ持って来てもらおう―で拭き、使った紙は流してしまえば良いのだ。
これだけ来客の不行跡を並べ立てながら、日高氏は不思議と飛沫の始末をしろと書いていない。土足で踏みつける床を、尻拭き紙で清めるのには抵抗はあろう。しかし飛沫が目につくようであれば、やって損はない(ただし男性便所の小便器は、紙を流すことが出来ないから、見なかったことにするしかない)。
誰かが掃除をすることは免れない。専任の掃除人がいない家庭や小店舗なら、やった人が最初に手をつけるのが道理と云うものだ。「男も座りしょんべん」も、飛沫の不始末が根本要因だ。男性読者諸氏は我が身を振り返ってもらいたい。自分は「松茸の露」をこぼさなかいと胸を張れる人が何人いるだろう?
(おまけのおまけ)
記事本文にある「注意書」と「九五ページの図」は以下のものである。
御来宅の紳士、淑女の皆様へお願い。
水洗便所を美しく清潔にたもつ方法
御使用後は、かならず水をたくさん流してください。水が美しく澄むまで、落着いて根気よく流してください。紙は、備えつけた紙を使い、それ以外のものは便器に流さないで、かならずうしろにある器の中に入れてください。おたがいに気をつけて、便所を美しくたもってください。 日高艶子
西洋便器の使い方
「自宅にある四つの便所」に、これを貼り出したと云う。どんな家に住んでいたのやら。
(おまけの昔の言葉)
日高氏は”便座”の事を、「便器の上部の木製の枠」と長々と表記していたが、いくら洋式便器が普及する前とは云え、みんながみんな、こんなまどろっこしい云い方をしていたとは思えない。
昭和5年に、日本女子大学校家政館が発行した教科書『便所』(佐藤功一述)では「シート」の語を用いている(乗り物の『シート』と同じですね)。昭和17年刊行『便所の研究』(大泉博一、土木雑誌社)では、「腰掛板」「座板」を用いている。
これだけだと手抜き感があるので、図書館に行き「日本国語大辞典」(二版)を調べて見る。
べん−ざ【便座・便坐】
@休息する所。居間。また、居間で休むこと。
A洋式便所の腰をかける部分。
西新宿のはずれから、わざわざ中野の図書館まで一時間近く歩いてこれだ(涙)。それでもやるだけの事はやったから、「しょうがない」のだが、せっかく大きい図書館に来たのだからと色々物色すると、『図解・客貨車名稱事典』(大久保寅一、国書刊行会、昭和14年刊の複刻)がある。目を通すと
第二十図 便所及化粧室(其の一)に、「用便板 Seat(シート)」
第二十二図 水洗式便所装置に、「便器座 Water closet seat(ウォーター クロゼット シート)
の記述を見つける。「便器座」が縮まって「便座」となったと、仮説を唱えておく。
(おまけの教育問題)
「素手でトイレ掃除する」教育・研修について賛否両論があると云う。
手のひらや指で直に汚れをこするわけでなし、あとで手をちゃんと洗えばいいだけの事ではないか(イヤでも手洗いの必要を感じます)。
教育母体の政治信条とは別な話だ。