「明朗敢闘」な『文藝春秋』昭和20年3月号記事で76万7千おまけ
「働き方改革」の方向性が、ビミョーにイヤだ。
効率アップ・生産性向上だと人をセカすのがイヤだ。深夜残業しても倒れちまわないように、通勤1時間を切る都内のアパートを借りた(但し風呂・エアコン無)のに、テレワークを強要するのがイヤだ。
期日に間に合って、品質が担保されるのなら、昼間は映画館・美術館で目の保養をして、夕方から仕事をしたって良いぢゃあないか(給与の割り増しはいらない)。
働く場所は自由になったかもしれないが、時間的なトコロは標準的なカタチが厳としてあって、それに倣えと云われるのがイヤだ。
しょーもない事を書いてやがると、どっかから文句が来るのは、断乎としてイヤだ(笑)。
例によってネタが思い付かず、下北沢の古本屋に行く。高いモノではなかったので、昭和20年3月号の『文藝春秋』を買う。
表紙
印刷納本は20年2月20日付。東京大空襲の前ではあるが、東京都内への空襲は始まっている(19年11月より)。
「編輯後記」は云う(註、例によって適宜改行等施してある)、
われわれは今こそ前線に繋がる悦びを持つ。
グラマンの跳梁を抑えて大空を乱舞する友軍戦闘機群の爆音。校正室の窓ガラスをビリビリ震わせて咆哮する高射砲の轟き、そして異様なる音響をたてて落下する銃弾に破片―これが戦場でなくて何であろう。
今まで銃後と前線との緊密さに就て、しばしば口に叫ばれ筆に書かれたが、それらの言葉が真実であればあるだけ、それの伴う実感には時に空白なるもののあるのは否定し得べくもなかった。銃後国民の本当に肚の底から出るべく決意と行動が、いつの間にか空転し、空念仏に終わるの憾みさえ乏しくはなかった。
然るに一度硝煙が本土にわき上がるに及んで、我等の衷心から覚える勇躍感はどうであろうか。遅疑すべく何物もなく、今や我等の全存在はこの大みいくさの戦場にしっかと立ちはだかっているのである。
前線将士と同じ誇りに立ち同じ苦艱と歓喜を頒ち合う今日の事態を、我等は敢闘一本に貫くことを誓い合おうではないか。
「銃後国民の(略)決意と行動が(略)空転し、空念仏に終わるの憾みさえ乏しくはなかった」
職業選択の自由は無く、労働災害は「美談」にすり替えられ、ひたすら「増産」が叫ばれた日々が、他人事のように、「空念仏」に過ぎぬものがあったと語られている(逆向きの『働き方改革』と云えないか?)。
帝都東京に爆弾が落とされる事態―桐生悠々が嗤った―を、「前線に繋がる悦び」と強弁し、敢闘を勝手に「誓い合」う、この文章を読むと、「日本に生まれた不幸」を思うしかない。
「編輯後記」には、こんな言葉もある。
明朗敢闘、ガダルカナル、ブーゲンビル転進の頃から前線苦闘の将兵の中から生まれた此の標語は、今や一億国民の合言葉でなければならぬ。
上から強要される「明朗」が、何で明るくて朗らかなものか!
そんな編集の下に集まった記事に「研究隣組の一夕」がある。書いた人は、大阪帝国大学教授、医学博士の梶原三郎だ。例の改変の上、紹介する。
技術院のきもいりで、今度研究隣組と云う、研究に携わっている者相互の連絡を緊密にするに役立たんとする組織が出来た。
戦力に資する科学研究の必要が認められて、真剣にそれにぶつかって行くことを目標とした組織も出来ている。例えば科学研究動員協会、文部省の科学研究会議、戦時科学研究員制度の如きはそれである。
今云う研究隣組は、これに比べるとその活動目標は一寸変わっている。研究題目を決定してそれに全力挙げて立ち向かうのではなくて、研究者がよって隣組と云うような、平凡な気持ちで話し合いながら、そこに自づから機運にのって一致した研究目標が生まれ出れば、それはたいしたもうけものだと云うような、一寸のん気な目的の会なのである。
勿論研究費と云うような、大きな予算などない。皆がやって話し合う会合費位しか、予算としてとっていない。此の会合費も、極めて些少のものであるのもなかなかよろしい。研究業者と貧乏とは、どんな時局に於いても縁を断たない方がよろしい。その方が気楽である。一寸むだな会のように思えようが、実のところ研究者の心理や生理の機微をわきまえた、なかなか親切な組織である。
過日大阪で、戦時携帯食糧研究隣組が組織されて、その発会の初会合があった。警報が時間内に発令されている際はやらぬと云う、ことわりの入った案内が来た。幸いこの日は発令がなかったので、五時過ぎには皆そろった。集会所と云うカンバンの出ている、かつての昔に於いては大阪一流の料理屋に集まった。炭火のない寒い室に、外套を着、巻ゲートルをして座りながら、始めから元気に遠慮のない話がはずんだ。何かいい物を見つけ出して、食べさせて戦力を増強しようと考えている連中だから、皆どこか積極性をもっている。従ってそんな機運がただよう。
「おい、君の乾燥ビールは目的物にして飲むよりも、原料で食う方がずっとうまいぞ」
「君の大豆チーズは成功したろう。と云うのは此頃は一向に試食をたのみに来ないからだよ。君はうまくなると一向、己れたちに食わさなくなるくせがあるから」
「航空戦闘員は高度高空に昇ると、腸の中で瓦斯が膨脹して腹痛を起こしてこまる。これには屁の出来ない食物を摂らさねばならぬ。」
「○○君に、君が頼んでいたあの工夫はうまくいきましたか」 「いや まだです」
「何、今の所屁の瓦斯分析も未だやってない、これを確かめなければ」
「屁の採集はむつかしいぞ」
「何から出る瓦斯が主要かがわかれば対策が立つ」
「屁の出来るのは含水炭素の過食だと思う、航空兵員には含水炭素を減じて、脂肪蛋白を多くやるといい、米を減らすのだな」
「それは無理だ、航空兵は『いなりずし』がないといけない。食物はやっぱり伝統的にうまいものでないといけない」
「それなら大阪には天下一のいなり鮨がある」
「技術保存の意味で、その板場をおかかえにするかな」
「そいつが今はどうしているかな、此の次の会までに調べがつくといいがな」
「空気から肉を造って、そのステーキを食わせると云うやつがいるのだがほんとかな」
「それはやっぱり窒素バクテアだろうな。出来たものは赤い鹿子の牛肉じゃないよ、あきらめて試食するのだな」
「蛋白の合成が出来るといいがな。今不足しているのは蛋白だ、これがどうかなるといいのだが」
「それはやっぱり畜産だな、国民に一日十匁(註・37.5グラム)あたり牛肉を食わせ得る位にまで、農家が牛をかったら、米ももっととれるようになると云う論がある。これは相当正確な計画だよ」
「飲用の固形アルコールが出来るといいのだがな、ポケットに小さくおさまっていて、口に入れるとよくきくやつが」
「敵アメリカにはそれがある、内容もわかっている。台はソルビットのエステルですよ、それにアルコールを含ませるのです」
「極寒に耐えるのにはアルコールは最もよい、アルコールに砂糖を加えるとなおいい」
「人によって違うかも知れないが、僕ではアルコールが燃えると一緒に糖も燃える。ことに酔いざめの時にそうだ、その時の気持ちは元気がない。アルコールは、侵入して来る時の気持ちが元気なのだから、酔い覚めを避けるようにしたいものだ」
「しかし甘い葡萄酒の酔い覚めはよくないですよ」
「それは甘さが足りないからだろうよ」
「うんと甘いのはウィスキーボンボンだな、あれでぽっと酔うと僕はいい気持ちだが、北満の汽車の中でその経験をしたがいいな」
「角砂糖にコニャックをひたして食うと甘い」
「ウィスキーボンボンの要求もすでに出ています」
「チョコレートがないや。ウィスキーとチョコレートは甘覚上よく合うのだが」
「何、すこしならあるだろう、特攻隊の心にこたえるのには、なけなしのをみんなはき出すさ」
「チョコレートなどなしでいい、大きい桜の花の形、桜色の桜の匂いのするアルコールボンボンがいいや」
「だがそれは十遍位空から落としても、くずれないように造るのだよ」
「君ならそれが出来るだろう。此度の会までに間に合うように」
「たのんだ、たのんだ」
こんな話で寒さも吹き飛んだかたち。
他愛なさ過ぎて、研究にもならないような話だが、こんなところに、飄々乎として研究の機運は生まれそうである。全く、科学は生来無邪気なもので、無邪気な者の方が学運に恵まれる。(阪大教授、医学博士)
上が押しつける「明朗敢闘」を、下からひねり返した文章だ。
冒頭、「戦力に資する科学研究の必要が認められて真剣にそれにぶつかって行くことを目標とした組織」が、「科学研究動員協会」、「科学研究会議」、「戦時科学研究員制度」等、上に立とうとする組織の都合で併立している不合理をほのめかしている。
一方で、今回組織された「研究隣組」は、「研究者の心理や生理の機微をわきまえた」、「親切な組織」だと評価する。「戦力に資する」事だけを考え、「真剣にそれにぶつかって行く」視野狭窄なやり方には限界があると(暗に)云うのだ。
少し浮世離れのしている、研究者間の会話が楽しい。
話題がお酒だ肉だ、お砂糖にチョコレートときている。どれも市井にあっては貴重品ばかり。実際にそれらを喰っているとは書いてない(ある所―軍―にはある、と読めるようにはなっている)が、読者をうらやましがらせるには充分だ。
こんな会合をやっている陰で、戦局は悪化し、空襲で人が殺されている事実は厳としてある。「科学は生来無邪気なもの」と開き直るのも、無邪気に過ぎる。
しかし、のんきな会話だけで描かれたこの会合でも、生身の人間の集まりである。「炭がなくて寒い」、「食べ物がない」、「書物を疎開させるべきか」、「教え子の誰それが戦死した」、「戦争はドーなるか」など、暗い話題も少なからずあった―戦争に負けているのだから―はずだ。
それでも、梶原教授は明るい、無邪気な文章を敢えてつづっている。
「皆どこか積極性をもっている」、信頼関係の中で行われる、他愛のない言葉のやり取りが、今日を生き・明日も頑張る活力を与え、さらには新たな気づきが見出されると確信しているのだ。「無邪気な者の方が学運に恵まれる」とは、そう云う意味合いなのだろう。
人間、緊張し続けていたら壊れてしまう。人の足を引っ張って落としたところで自分が上に上がれるわけでもない。不平不満を吐き出し続けていても、何故かそれが尽きることはない。つらい現実を我が事として受け入れ、それでも光のある方へ目を向けなければ暗闇から抜け出すことは出来ない。それが本当の「明朗敢闘」なのだろう。
ここに書かれた「研究」が、どう実を結んだか? それは知る由も無い。
(おまけのおまけ)
この号にあった広告から。
戦争に負けてガラリ評価の変わった(戦中から日記で批判している人はあるが)、徳富蘇峰の評伝。「愈々三月中旬出来」とある。ホントに出せたのだろうか?
『小説 大本営』! 明治の大本営の話だろうとは思うが、ドキッとしてしまう。この時期に昭和の大本営を描いたドキュメントがあったら、どんな事が書いてあるのだろう。
この期に及んで『敵国アメリカの戦争宣伝』なんて本を出そうとしているのも面白い。
裏表紙には、こんな広告が載っている。
裏表紙
結局最後はカネと健康がモノを云う。どちらも各人それぞれが、どうにかしなければならない。そこはよーく覚えておこう。