国民に詫ぶ

A級戦犯・畑俊六が語りかける77万4千おまけ


 ひさしぶりに早稲田の古本屋街に行く。
 本屋減ったなァ…と思いつつ、今じゃあネットで読める、情報局の『週報』を少し買う。
 その中に混ざっていたのがこれだ。


日本週報昭和20年12月16日号

 畑俊六「国民に詫ぶ」の記述が、現在を批判しているように感じられたので紹介する。

 畑俊六は、昭和12年8月に教育総監、13年2月中支那派遣軍司令官、14年5月に侍従武官長、続いて14年8月から15年7月まで、阿部、米内両内閣の陸軍大臣を務める。16年3月より支那派遣軍総司令官に転じ、19年6月に元帥となる。11月ふたたび教育総監、20年4月に第二総軍司令官となり敗戦を迎える。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)の主要戦争犯罪人(A級戦犯)容疑者として、20年12月に巣鴨拘置所に収監、22年11月終身刑の判決を受ける。29年10月仮釈放、33年自由の身となる。偕行社会長をつとめ、昭和37年死去。
 「ただ地味な、政治志向がほとんどなく、着実に一歩一歩軍機構内を昇進していった軍人」と評される(『続・現代史資料4』解説)。

 「兵器生活」は、昭和の戦前・戦中に刊行された出版物の記事や、当時の広告などを紹介している。そのために買い込むネタは、当然、昭和20年8月15日以前のモノであり、それを補強するために読む本も、その時代に関するものばかりになる。敗戦直後の事は中学・高校の歴史教科書レベルをさほど越えるものではない。そう云う人間が敗戦直後の記事を紹介するのはドーなんだろうと思ってしまうのだが、人様がいまさら読もうとは思わぬ記事を、敢えて紹介するのが、このサイトの本領であり、それをやるのは主筆の自分しかいないぢゃあないか、と考えなおしたわけだ。
 以下紹介する本文は、例によって仮名遣い変更・改行の追加など読みやすさ優先で調整してある。

国民に詫ぶ
畑俊六

 「畑 俊六」の標札は鮮やかに掲げられたままであったが、門を閉じて家は静まりかえっていた。東京都世田谷区太子堂にある元帥の家を訪れた記者は、昔の武士の閉門、謹慎は恐らくこんなものであろうかと思った。
 「不便なところをわざわざお越し下さって…。」
 当たりも物柔らかに挨拶する和服姿の元帥は、見たところ市井の好々爺で、これが元帥刀を吊った人とも思えなかった。已(すで)に十分心構えはできているらしく、記者の質問に対しての答えは淀みなかった。
 記者は軍部の長老と話しているというよりも、インテリと話しているような錯覚にいくたびかおそわれた。「話せば判る」型の元帥は、そのために軍閥から敬して遠ざけられ、敗戦当時には第二総軍司令官に祭り込まれていたほどだ。

 会見がすんだ後で、記者はこんな冗談をいったものである。
 「戦争犯罪人として、軍人、官僚、政治家、言論関係者等で知名の人が続々拘引されますね。あんなに名士が揃うと内閣を造るなんて訳ありませんね。内府あり、重臣あり、わけても陸海軍大臣は選択に困るほどですね。政党は巣鴨党と大森党が組織できるし…。尤も、東條内閣はもうこりごりだ、なんていう人が出て来るでしょうが…。」
 元帥は破顔大笑して、
 「全く挙国一致内閣なぞ訳ないだろう。ところで私は巣鴨の方へ送られるそうだ。何しろ軍人だからね。」
 と付け加えた。まるで他人のことのように気軽に云ってのける元帥の表情には、拘引に対する暗い影は少しもなかった。

記者 いよいよ拘引の日も迫りましたが、此の際、特に国民に伝えておきたいということはございませんか。
元帥 今更、自分から国民に伝えておきたいなぞと烏滸がましいことを云えた義理でもあるまい。どうしたって、自分から云えば、弁解がましいことになるばかりなので、甚だ云い辛い訳だ。
 しかし、自分としては、こうなったことに付いて元より責任を痛感している。天皇陛下の宸襟を悩まし奉った許りでも罪万死に値するものがあり、その上、戦場に父兄を失い、戦災に家を焼かれ、親兄弟と死に別れた幾多の国民のことを考えれば、お詫びの言葉もない。全くお詫びの仕様もない次第である。元より大東亜戦争に付いては、私は現地に在って、枢機には列していなかったものの、兎に角、こうした事態に立至ったことに付いては、責任がある。

 わけても私が責任を痛感している点は二つある。一つには曾て陸軍の内部に発生した下克上の気運というものを、ぴしゃっと最初に押さえつけてしまわなかったことである。今から考えると、あれがいけなかったんだね。あれから、今日しきりに云われている軍閥―軍人の私が軍閥などというのもおかしなものだが、兎に角、あんなに軍閥がはびこるようになった原因は、あの下克上にあったのだろう。私にしても、余りに下克上が烈しくなり、わずらわしいので、米内内閣の時で、陸軍大臣を止めてしまったのだ。
 それからもう一つお詫びしなければならないことは、明治維新から健軍されて70年、海軍と並んで、世界に冠たりと謳われた、無敵陸軍の輝かしい伝統を、敗残の泥沼に陥れ、剰さえ陸軍を跡方も亡くしてしまったことである。
 最後の陸軍大臣をした下村君が、議会で陸軍を代表して詫びたけれども、私としても、以上の二点の責任を感じ、深く国民の皆さんにお詫びする次第である。許してくれとか云うことではなく、私の気持としてお詫びせずにはいられないのだ。

 それに敗戦後、陸軍の取った処置にも遺憾な点がある。12月8日から各新聞に奉天事件からミズリー号上降伏文書調印までの記事が、マックァーサー司令部の資料として掲載されているけれども、あれなぞは寧ろ、陸軍が自ら進んでやるべきことだった。私は敗戦後、当時の陸軍大臣阿南君に逢って、これまで陸軍のした悪い点は、国民に自分から忌憚なく発表して、国民に詫びるべきだと云ったのだが、陸軍の方が臆病なものだから、とうとうそういうこともなしに済んでしまった。
 何も発表せずに陸軍が解散して了えば、益々国民の疑惑を強くさせるだけだ。悪かったことは、あっさり悪かったと男らしく云ってのけてから、国民に詫びるべきであった。その後に解散すれば陸軍としての、せめてもの死に華を咲かせたことにもなったろう。何もかも、こういう時はすっかり白日の下に曝け出すのがいいんだ。

記者 終戦のどさくさで、いろいろな醜聞が伝わりましたが…。
元帥 うん。先ずその「終戦」という言葉が第一いけない。
 「終戦」などという言葉で、この「敗戦」をごまかそうというのが、間違っているね。
 今度の戦争の結果は、誰が見たって完全な敗北じゃないか。しかもその降伏だって、軍隊からいえば、最悪の無条件降伏じゃないか。それを終戦という甘い言葉で包んでしまおうとする処に、いつまで経っても国民が敗戦したということを感じない理由の一つがあるのだ。敗戦がどんなことか、やがてそれを国民は現実で嫌というほど思い知らされてくるのを、今までの悪い癖で、変に親心を出して甘やかし、欺こうとしているように、私には思える。
 そこで、敗戦直後の醜聞だが、全く情けないことだ。あんな滅茶苦茶なことが起きようとは考えも及ばなかった。

 それで国民に考えて貰いたいのは道徳が低下していることだ。
 戦争のために道徳が低下したのか、前から道徳が低下していたのが戦争で益々低下したのか私には判らないが、兎に角、私の経験では日露戦役には今度のような虐殺や暴行事件は実に少なかった。勿論、戦争のことだから、全く無かったとは云わないが、こんなに不祥事件を大量に起こした歴史はなかった。この点から見ても軍隊自身が随分堕落していた訳だ。これが先刻云った、国民に冷静に考えて貰いたい点だ。
 今日の戦争は、国民を動員したいわゆる総力戦の形をとって来る。従って軍隊の大半を一般の国民が占めるようになって、職業軍人はその上に立って、戦争を指導することになった。だから、虐殺や暴行といったような不祥事が多く惹起される軍隊は、どうしてもその国民の道徳が低下しているためと云わざるを得ない。
 私は何も虐殺や暴行事件のすべてが、国民の責任だというのでは断じてないし、国民に罪をなすりつける意志はないが、国民も私が(云ったことを)よく冷静に考えてほしい。

 先日、東京駅で見かけたのだが、プラットフォームを駅員が掃除していた。ところが駅員は進駐軍が捨てて行った煙草の吸いさしや缶詰、残パンなどを拾っている。見ていて実に情けなかった。敗けて四等国か、五等国になったかも知れないが、心まで四等国に成下がることはない。
 敗戦後国民がはりを失っていることはよく察せられるものの、いくら何でもこれほど道徳が低下していては、再建は至難だろう。敗戦のために、一番大切な魂まで失うようなことがあっては、由々しいことだ。
 日本人は日本精神を持っていなければならない。再建ができて、どれほどの大厦高楼が軒をならべようとも、魂が入っていなければ、何の役にも立たない。又、この日本人たる自覚から生まれた精神がなければ、世界に信義を繋ぐことも出来ず、再び世界の列伍に加わることも覚束ないであろう。低下した道徳の水準を高めること、これが再建への第一歩だと思う。

記者 軍人の戦争責任に付いてはどうお考えでしょうか。
元帥 世間の論議をきいていると、軍閥という中に「地方人」で応召した軍人も含めているようだ。これはよくないことだ。
 職業軍人と召集されてなった軍人とは別にして考えなければいけない。応召軍人は、これは一般の国民であって、当然戦争の責任はない。この人たちまで責めることは気の毒でもあり、又誤っている。しかし、職業軍人には、これは何といっても責任がある。どうしても戦争責任は免れ得ない。
 手の平をかえしたような事を現在している連中が居る。時勢が変わったのだから、一変することも結構だが、戦争中に自分のしていたことを棚に上げて、他人の人身攻撃までするのは苦々しい。これは私に関することではないが、黙視するには忍びず、敢えて云うわけである。

 天皇と陸軍の伝統に対しては「万死に値する」。配下の兵卒、その家族」を含む一般国民に向けては「お詫びの仕様もない」。自分の立場から見ればそう云うものなのだろう。
 敗戦を「終戦」と云い替えることへの批判は説得力がある。「悪い癖」の「親心」も意味深長で、下々は黙って従えば良いとする意識、為政者の思い上がりを指摘しているようだ。
 記事には「敗戦直後の醜聞」の中身が記されていない(書かなくても皆承知の事だったわけだ)。何があったのかと補強のために買った本を読んでみると、陸海軍が保管していた物資―国有財産である―が、もと軍人らによって勝手に持ち去られた事件を指している事がわかる。

 徳富蘇峰は、戦時中、日本文学報国会・大日本言論報国会会長をつとめ、「文章報国」、「言論報国」を実践していた人だ。敗戦を境に公職を辞し、栄典を返上して謹慎生活に入る。その時綴った『頑蘇夢物語』(講談社学術文庫『徳富蘇峰 終戦後日記』)に、こう記している。

 (略)東久邇宮内閣の劈頭、臨時議会開催に際して、終戦と同時にあらゆる軍需品を、軍人軍属共が、勝手次第に山分けして、銘々持ち帰ったという事が、大問題になって来た。
 (略)地方の人民は、食うや食わずに困っているのに、帰って来た兵隊共は、桃太郎が鬼ヶ島より帰ったも同様、御土産沢山で、その為めに兵士に対する同情などは、全く煙散霧消したという訳であろう。
 (略)兎に角軍は、必要以上にあらゆる物資を取り込み、愈々終戦となれば、それを立派に返納するが当然であるのに、しかすることをせず、宜い塩梅に、それを銘々が山分けして、その余塵が、兵士に迄及んだものであろう。

 また「軍人の火事場泥棒」なる項を立て、「軍人の火事場泥棒には、全く愛想が尽きる」と、当時の新聞記事をいくつか抜き出してもいる。
 そこには「海軍某学校の下士官は米12俵、麦6俵、缶詰9箱をトラックで自宅に搬入」、「軍需会社と馴れ合いでまだ30しか納入していないのに100の品物を納入したことにして巨額の支払い」などとあり、中には、「比島、支那における我が軍の暴行と相俟って『皇軍』を信頼し切っていた国民に限りない幻滅感と憤懣を与えた」と記したものまである。
 心ある高級軍人、体制寄り言論人も同じ思いを抱いていたわけだ。一般国民の怒りの程、当局の危機感も想像が出来よう。

 しかし、畑俊六は、軍の不行状の中に国民の「道徳の低下」を見取っている。日清・日露戦争当時は少なかった不祥事が、軍の規模が拡大し、国民生活が戦争に侵蝕され尽くした今回の戦争において、眼に余るものがあったのならば、それは召集された人にも問題があったことになるのだ。
 「職業軍人と召集されてなった軍人」は峻別し、戦争責任のありかは職業軍人(の上層部)に帰すると断言はしている。それでも戦地での暴行虐殺、内地のヤミ取引、敗戦のどさくさの横領と云う不祥事は、上から下までの「道徳の低下」によって生じたものだと断罪している所が、今時の「コンプライアンス」問題に通じる所がある。「聖戦の大義」などの美名により、不正行為が正当化・不問化されていたわけだ。
 その立て直しには「日本精神」の再興が必要としているが、「日本スゴイ」喧伝の行きすぎ―帝国日本は無謬との思い込み―が、支那事変から大東亜戦、そして敗戦に至らしめたのだから、新しい「日本主義」が提唱される必要があったはずだ。しかし、占領軍がそれを許すはずは無く、「民主主義」があてがわれたものの、「日本精神」が抜けた穴は各自勝手に埋めろとばかり、今に至る(その是非には触れない)。

 現在の日本は、「大厦高楼が軒をならべ」、「世界の列伍」に連なってはいる。国民の道徳は敗戦直後よりは上がっているとは思う。しかし、日々のニュースの見出しを見ていると、そうでもない局面もあるように感じる。せめて我が身ひとつくらいは、酒を呑み、部屋を紙屑で埋めていても、日々マトモでありたいと心掛けたい。

(おまけの参考)
 『資料日本現代史』第二巻「敗戦直後の政治と社会@」(大月書店)に、「軍需物資放出」について当局が作成した資料がいろいろ再録されている。現物の一つも手許にあれば良いネタになるのになあ…と思う。

 補強のため買った『徳富蘇峰 終戦後日記』、なかなかの拾いモノだ。
 昭和20年8月18日から21年1月13日午前までに書かれたものが載っている。「忠君愛国」の知識人が、帝国日本の敗戦により、総ての日本人が寄って立つべきものが、日々新聞紙上で否定されていく様子に、怒り呆れ諦めつつも、自分だけは信条を曲げぬと決意を綴ったもので、要は「ブログ」である。
(おまけの戦争責任について)
 これも補強のため眼を通した『東京裁判への道』(粟屋憲太郎、講談社学術文庫)の、「補 日本側の自主裁判構想」に、さわりだけが紹介されている、「民心を安定し国家秩序維持に必要なる国民道義を自主的に確立することを目的とする緊急勅令(案)」が面白い。
 この本では、「『天皇の名で戦争をして、こんどは天皇の名で裁く』という荒唐無稽なもので、実現性はほんどなかった」と批判されているものだが、その註に紹介されている『東京裁判論』(粟屋憲太郎、大月書店)掲載の全文を見ると(カナ書きをかな書きに改める)、

 第一条 本令は民心を安定し、国家秩序維持に必要なる国民道義を自主的に確立する為国体の順逆を紊りて天皇の輔翼を謬り、其の大平和精神に随順せずして主戦的、侵略的軍国主義を以て政治行政及国民の風潮を指導し、又は指導を輔け、以て満洲事変、支那事変、又は大東亜戦争を挑発誘導し、内外諸国民の生命財産を破壊し、且国体を危殆に陥らしめたる者、施設又は社会組織に付、之を処断し除却し、又は解消せしむることを以て目的とす

 第二条 左に該当する者は之を叛逆罪として死刑又は無期謹慎に処す
  一、天皇の命令無くして兵を動かし、妄りに軍事行動を惹起し侵略的行動を指揮し、満洲事変、支那事変、大東亜戦争を不可避ならしめたる者
  一、明治十五年軍人に賜りたる勅語に背き軍閥政治の情態を招来し、国体の神髄を破却して専横政治、又は之に準ずる政治行動を以て天皇の平和精神に逆い、大東亜戦争を必至ならしめたる者

 第三条 左該当する者は之を叛逆罪共犯として無期又は十年以下の謹慎に処す
  一、前条第一号に直接参画したる者
  一、前条第二号の軍閥政治に共鳴し、之が強化を共謀し、情を識りて之を支援したる者
  一、軍人政治家、其の他の者の好戦的策謀宣伝を情を識りて支援し之に協力運動し、天皇の平和精神に背きて主戦的輿論を造成し、開戦を余議(ママ)なからしめたる者

 このように、ポツダム宣言を日本流に翻訳したような―「情を識りて」は治安維持法を思わせ実に興味深い―モノである。なるほど実現性がある気はしない。しかし、これを国会で真面目に論議をしていれば、「統制派」に関係した人達が根こそぎ失脚するようでワクワクしてしまう。
 もっとも、第四条には、「自ら謹慎を表明し公職を辞し、公民権の行使を遠慮する者は之を処断せず」とあるから、石原莞爾と東條英機をスケープゴートにし、諸悪の根源は永田鉄山(この世にはいない)に押しつけて終わった可能性が高い。それでも、満洲事変以降に帝国が進んだ道が否認される以上、今日の「右傾化」は無かった、と思えてならない(それが出来るなら『ハル・ノート』も受け入れられるのだが…)。