大正チョンマゲ三人男

理由はそれぞれ異なる77万6千おまけ


 古(いにしえ)より口伝されし宴会芸「チョンマゲ」。
 満座の大爆笑、大喝采を一身に受ける究極秘技。また、演者の(社会的)生命を奪う邪技也と囁く声あるとも聞く。

 21世紀になって20年になろうとし、昭和・平成・令和と御代も改まった現在、チョン髷なんて過去の遺物、時代劇か相撲取りくらいしか見ることは無い…と書きたいのだが、勤め先が入るビルの喫煙所で、月代こそ剃らぬが髪の毛を頭頂部で結ってる人がいるんです。

 阿佐ヶ谷の古本屋で『カメラ社会相』(片岡昇、文藝市場社、昭和4年発行)を買う。
 どんな本かは、小田光雄氏の「古本夜話403片岡昇『カメラ社会相』を読めば、そのおおよそは掴めよう。
 大正末の東京の街角で見つけた、ユニークな人物の写真・聞き書きの「街頭訪問の巻」、当時の政治家・実業家・文化人の探訪記事「名士百面相」「学者・名人・蒐癖家」で構成されている。

 その「街頭訪問の巻」に、チョンマゲが三人も載っている! 「虚を衝かれる」とは、まさにこの事。
 戦前日本に、そんな人がいるなんて意識すらしていなかった。

 記事全文引いても、主筆はさほど苦にはならぬが、読者が飽きるといけないから面白いトコだけ、例の改変で引く。
 一人目は大井町の八百屋さん。

 (略)宇札場と呼ぶ尚古的の通りと、チョン髷の八百屋を召し捕えたのは偶然ではないかも知れぬ。頭上おく霜を丁寧にチョン髷に織込み、口の中でペルリ浦賀着頃の流行歌でも蒸し返し乍ら、店頭で大根をいじる有様、何う見ても世間を馬鹿にして面白い。
 記者は思わず、黙って背中をポンと叩いた。すると騒ぎもせず、数十秒経って『誰だい』と悠々と見返る。

八百屋の重蔵老人

 「黙って背中を」叩く記者は失礼だが、「数十秒経って」ようやく返すオヤジも相当なモノ。
 景気を問えば「儲けは知れてるよ貯まるのは塵の方が多いや」で、年齢は「嘉永三年の生まれだから、モウ七十は越えてる筈だよ」と語るを記者、「筈も筈、六歳も越えてるが、(略)分母が七十にもなっては影響は殆どない」とツッコミを入れる。
 「大井町と品川の間には家が十四、五軒もあったかね」とは鉄道が出来る前の話で、それを受けての記者いわく「今では人口七万の大井町」。

 「鈴ヶ森のおしおき(刑罰)はよく見たよ。あの頃は主人に反抗しても獄門に曝されたのさ。何んでも日本橋から箱根までは鈴ヶ森、それから西(ママ)は千住の小塚原よ。或る時なざ、磔が面倒だと見えてね、罪人を縄がけの儘積藁の中へ詰めて焼いたのを見たよ」
 (略)
 「所がね、その磔場がね、今は丁度砂風呂よ、血を流して苦しんだ所が、女狂いの場所に変わったのは酷く変わったものさね」

 「磔が面倒だと見え」たのは火あぶりだ。磔は回数多くやっても火あぶりは滅多に見られぬモノだったのか。

 さて、記者の聞かんとする第一のものはチョン髷だ。青木重蔵老を促して聞くと彼は果して昂然と答えた。
 「ヘッヘッヘッ。十四の頃から結ってるのを、そうそう惨くは取れねえ。第一床屋で頭をいじり廻されて五十銭なざあ馬鹿げてらあ」(略)敢て西洋流に反抗の意地と云う程の心からチョン髷を続けている訳でもない。(略)

 チョンマゲを残しているのは愛着であった。記事末に「大正一四・九・一七」とある。

 二人目も八百屋さんである。
 同時代の東京郊外、北と南の違いはあれど、「同業同髷」(本記事タイトル)は面白い。

 深野傳次郎と云う六十九歳の爺さん、綽名を「四十五」と云う。(略)要するにどう見ても四十五歳以上には見えないと云う所から生まれた、単純にして適切なる綽名だ。
 飛鳥山下に八百屋を開いたのは二十七年前、今では王子滝ノ川に跨って所謂顔役の御一人者である。
 「チョン髷の八百屋と云えば二里四方誰知らぬものはないよ」と仰言る。二里四方とは正札掛値なしである。普通ならばも少し誇張したい所である。

 二里四方なら大井町の八百屋と間違われる事もあるまい。


八百屋の深野老人

 (略)チョン髷に就いての信念(?)を聞くと、
 「乃公は西洋が大嫌いよ。殺されたって髪を分けたり洋服を着たり出来ねえ。でも他人が洋服を着て居るのは少しも癪には触らないよ。人は人、俺は俺よ」
 (略)
 「チョン髷は、純日本が好きだから結ってるのさ。併し心はハイカラだから、髷とは大違いだよ。俺は此頭で帝国ホテルへでも静養軒でも平気で出入りして紳士達と交際するんだよ」
 ホテルへ行く事は本当でも、紳士達との交際は、傳さん少しく脱線かも知れぬ。

 「汽車へ乗っても平気で食堂車へ行く」、なぞと得々たる所から察すると、傳さんはホテルなぞを今でも大したハイカラな場所と思って居るらしい。

 ホテルの敷居が高く思えて悪うございましたねッ! と私憤を挟む事をお許しいただきたい。
 王子、滝野川の「顔役」であれば、ホテル・西洋料理屋での会合に呼ばれもしよう。商工業者のエライ人やお役人様なら「紳士」に恥じぬ方々だろう(内実はさておき)。

 この人が八百屋を開いた飛鳥山の上には、実業界の開祖と云うべき渋沢栄一が住んでいた(現在、渋沢史料館がある)。本人が大根買いに来ることはさすがに無いだろうが、女中が買い物に寄ったり、逆に渋沢邸へ野菜の配達をやっている可能性は大いにありそうだ。地元の会合で顔の一つは会わせていると思う。
 写真は浴衣の着流しだが、顔役なら紋付袴の一揃い持っているだろう。記者さん、人を見た目で判断しちゃあイカン。

 チョンマゲの理由は「西洋嫌い」。記事の日付は「大正一四・九・一四」。

 三人目はグッと若くなる。

 大森から池上街道を行くと、舊日本が西洋へ乗って疾足して来るのに出会わした。
 チョン髷の美男が自転車を走らせるのである、思わず呼び留めると「御用ですか、家が直ですから恐れ入りますが御同行を」と云う、イト丁寧な挨拶。(略)

 「生粋の日本橋ッ児、十二の年から床屋奉公、今年二十八、新井宿には十年居る」と記されてるが、氏名の記述は無く、記事では綽名の「チョン公」「チョンさん」「チョン君」で通され、ちょっとかわいそう。


床屋の「チョン公」

 「動機はチト御恥しいですな。此間も裁判所で何故若いのにチョン髷を結うかと聞かれて弱りました。致方ないから相撲が好きで、と嘘を云っちまいましたよ」
 実は頭の真ン中に禿がある。始めは坊主にして見たが色気がない。夫れに坊主頭は商家の忌む所、結局チョン髷を考え出したので、商策としても成功だ。
 然も鬢は好し、格好も見事で、優に往年の若奴の意気な姿を連想せしむる。
 大森から川崎にかけ、チョン公と呼び、或は色男のチョンさんと云う。後者は娘仲間での通り言葉であること勿論なり。


長唄と新内は素人離れがしている由

 似合ってますね。「青年団や料理屋の花見なぞには引張り凧ですよ」とは本人の弁。しかし結婚しているとは書いてない。

 彼はまた自転車の有名な選手である。短距離では殆ど彼に及ぶものなしと言われて居る。故に東京は勿論、この近県の自転車屋で彼を知らぬ者はない。
 「近距離なら一等の自信がありますよ。来月品川に全国大会があるんで、只今練習に出掛ける所だったんです」

 写真の自転車を見れば、泥よけもチェーンカバーも付いてない。ハンドルのカタチも「実用車」離れがしている。
 裁判所に呼ばれたのは、自転車でスピードを出し過ぎたのだろうか?

  チョン髷仲間? 八百屋二人は「子供の頃からの愛着」、「西洋嫌い」と云う過去向きな理由があったが、若手のチョンさんはスバリ「ハゲ隠し」。勤め先の喫煙所で見かける人がそうだとは、じっくり見たことが無いから云えない。
 記事の日付は「大正一四・一一・三」。
 (おまけのチョンマゲ)
 知ってる人は知っている、宴会芸「チョンマゲ」。後学のため、「やり方」を記し置こうと思ったが、「兵器生活」の品位を落とす事甚だしいのでよしておく。
 許してチョンマゲ(誰が最初に使ったんでしょね)。