総督、反省する

77万9千おまけ


 イヤな本を読む。
 『積読こそが完全な読書術である』(永田希、イースト・ブレス)。買いたい本が見つからず、タイトルに興味を引かれて買ったモノ。


右手前の白い本がソレ

 「情報の濁流」に流され、吞み込まれるのでなく、主体的に「ビオトーブ的読環境」を構築せよ、と訴える本だ。
 10冊買う時間と10冊読む時間の長短を考えるまでもなく、本を求め続ける限り、読みきれずに積み上がる―「積読」―のは避けられない。積んだ本は定期的に棚ざらえをして、自分に合わなくなった本は、新たな読者のもとに行くよう市場に「放流」してやり、「自律的積読環境」を構築・維持することを提唱する。持ち主の精神・生活を豊かにする情報の「ぬか床」は、適時かき回してやらないと腐る。積むのは良いが、本の死骸が堆積する「貝塚」にしてはならない。

 総督府を「見る」。
 ネタにしようと買った本、補強に使えると押さえた本が取り出せぬ。何処に積んだか解らぬ。発掘するのはメンドーだ。「今月の更新」を乗り切るべく、新たに何か買う。いつか使えそうなモノも買う。
 新刊本屋を二つ三つ廻れば、各社新書新刊だけでも2つか3つ欲しくなるし、毛色の変わったのがあれば読みたくなる。戦前・戦中の生活・文化の本は、目を通しておかなければ時流に遅れてしまうので…。本なんか読んでるヒマなんてありませんよ(笑)。

 本書は云う。
 「情報の濁流そのままの、方向性のない、そのときそのときの自分のファスト思考だけで選ばれた蔵書は、さまざまな方向へと読者を誘惑するので、その『知の迷宮』のなかで人はただ迷い、彷徨うことになるでしょう。」
 なんてイヤな事を書いているのだろう!
 「兵器生活」のネタ拾いもそうだ。古本屋・古道具屋などに並べてあるガラクタを見、面白そうなモノを買ってきては「積読」させ、翌週には新たに買ってきた本で埋めてしまい、どこに置いたのかさえ怪しくなってしまう。
 「情報の濁流」の上で軽やかに波乗りしているつもりが、泥ン中に沈んでいるンです。

 反省します。
 と云うわけで、今回は「面白そうだ」で買ってきたものの、どう料理したものか持て余して久しいモノを、シンプルに紹介する。


特製口取紙

 何年か前、ガラクタ集めをしていた時に、西荻窪の古道具屋で木戸銭代わりに買ったモノだ。「特製 口取紙」。何だか解らないが「面白そう」ぢゃあないですか。



五円玉と比較

 フタを開けると、打ち抜かれた紙がいくつも入っている。
 分厚い冊子の内容が変わるところに、見出しとして貼り付けてやるアレだ。それを「口取紙」と呼ぶのですね。知らなかった。

 重宝している『』婦人家庭百科辞典』(ちくま学芸文庫、原著は三省堂から昭和12年に出ている)を繙く。「口取」(口取肴、日本料理の献立)は載っているが、これは採録されていない。婦人には関係ないからなのか、まだ一般的でなかったのか、そこはわからぬ。



 現在、文具店に売られているものは、裏紙をはがして使うようになっているが、そうなってはいない。



 裏面にツヤがあるのがお分かりいただけるだろうか? 郵便切手と同じようにノリがついているようだ。時節柄、なめてみるわけには行かない。

 文字の並びで、昭和の戦前・戦中頃と推測はできる。ウラ面にノリがついているから敗戦近くではないだろう(切手のノリが無くなる)。
 箱の各面には、「特製口取紙」、「特製口取紙 東京製品」、「特製帳簿口取紙」、「特製帳簿口取紙 東京製品」、「帳簿口取紙」と印刷されている。「東京製品」が、製造/販売元なのか、単に東京で製造された事を示すものなのかこれだけでは判断出来ない。



 中身を真似て「口」の字にキザミを入れているなど、地味な単色印刷(ゴールデンバットもこんな緑色だったよなァ…)ながら、図案家の工夫が光る楽しいパッケージだ。表裏のデザインもわざわざ変えてあるのも面白い(面ごとに稿料が出たとは思えないが)。

 デザインがお洒落。この頃からタックインデックスはあったんだ。以上。
 生まれて初めて現物を見た感激に、金を払っているだけだから、それが収まるとモー先は無い。「兵器生活」の弱点はこれだ。

 昭和12年の『婦人家庭百科辞典』には載ってない。では、この言葉は何時頃の辞書に載るのか? 「口取紙」が普及した時期と捉えることが出来る。これのルーツは海外なのか? 当時のファイリング用品がどんなモノだったのか、この際調べてみるのも面白いのかもしれないが…。

 世の中もっと面白いモノがあるだろう

 と、広がらないし深くもならず、ドコが面白いのか良くわからないコンテンツが一つ出来上がる。

(おまけの余談)
 「積本」本、紹介されているゴミ屋敷と化した元読書家の事例が、明日は我が身と文字通り、身につまされてさらにイヤになる。その部分は、『本で床は抜けるのか』(西牟田靖、中公文庫)からの引用なのだが、こんな面白いタイトルの本は、当然、元版が出た時に買って読んでいる。それなのに、そこをスッカリ忘れている事が、腹立たしい。イヤになる。
 もしも文庫化の際に加筆されたのであれば、「忘れていた」ことにはならぬ。しかし、単行本の版元を記載していないことで、読者諸氏もお分かりの通り、どこに積んだか覚えていないのだ。取り寄せる/読みに行く手間暇をかける話ではないので、結局のトコロ確かめる術がなく、本当に嫌になっている。
(おまけのおまけ)
 本稿のカタチが見えてきたので本屋に行く。


 「買いたかった本」、「面白そうな本」、「目を通しておいた方がよさそうな本」、「買い続けているマンガ」あわせて4冊買ってしまう。
 反省するのと、行動を改めることは明白に違う。