外人で儲けよう

「日本楽園」、「国際カフェー」で78万9千おまけ


 「コロナ禍」で外国人観光客がいなくなり、デパートや観光地、そしてホテルが大変困っていると聞く。総督府のある西新宿の片隅にも民泊施設が何軒か出来、キャリーカートをガラゴロ転がし―もうちょっと静かに転がるキャスターを考えて欲しい―大江戸線の駅に向かう、あるいはガトボコ駅の階段から出て来る人の姿を見たものだったが、近頃そんな人を見た記憶が無くなって、外国人らしきヒトを見かけると、ナゼこんなところにいるんだ! と、怪訝に感じるようになる。感性の「変異」は怖ろしい。

 『体験と新方策 金儲け要訣』(坂野井包祐、大日本雄弁会講談社、昭和6年)と云う本がある。函つき500円でツイ買ってしまったモノ。著者の「体験」、一儲けしたいと思う人への、こんな工夫をすれば商売繁盛間違いなしと云う「助言」、そして自身に十分な資金があればやって見たい「新方策」を述べた読み物だ。


『体験と新方策 金儲け要訣』

 「体験」は関東大震災前後の話だからマネのしようがない。「助言」の多くは市場環境が違いすぎて使うには難しいか、すでに実行されているような事が書かれている。まァ2021年現在の実用書としての価値はゼロに等しい。
 しかし、

 「乃木希典夫妻が、自刃前に撮った写真を複写して全国に通信販売」(約2千円の儲け)
 「東京放送局(JOAK)開局直後、東北地方にラジオ受信器を持って『ラジオの実験』―ラジオを聞くだけ―巡業」(約1千4百円の儲け)
 「勤め先の発電所を写真絵葉書にして上司同僚に売りつけ、余りは見学者のお土産にする」(7千組売り切る)
 「関東大震災後の東京をステレオ写真で撮影、『覗きからくり』に仕立て興行希望者に売る」(46セットで8千2百80円の儲け)
 など、当時の新商売・珍商売の一端が伺えて、ヒマつぶしの読み物と思えばなかなか興味深い。

 そこに「共同事業として適当な新商売」として紹介されているのが、「観光客相手の日本楽園の経営」と「ウルトラモダンな国際カフェーの秘策」だ。
 実際にそんな商売が出来たわけでなく、著者の思いつきが述べられているだけだが、「コロナ禍」もいずれ収まる、外国人で儲けよう、と考えている人はいるだろう。その参考になるやもしれぬ。考えを読むだけでも面白いので、ご紹介する次第だ。
 例によって、タテのものをヨコにして仮名遣いの変更、句読点替わりの空白挿入などやってある。

 観光客相手の日本楽園の経営

 世界中で、多く観光客の集まる所と云えば沢山あろうが、中でもスイッツルだとか伊太利だとか風光明媚な所は殊更に四時観光客が絶えない。我国もまた近時交通機関の完備と共に観光客の数が著しく増加して来た様である。
 所で、その選ばれた国の我が日本に、果たしてどれだけ観光客の足を止める設備がととのえられているだろうか?

 勿論 風光明媚の点に於いては、敢えて世界中何処の国にも劣らぬ自信はある。が、さて折角訪れた観光客に向かって、十分の満足と便宜を与える機関は甚だ不十分である。近来、鉄道省あたりが主となって国際観光局なるものを設けて、熱心に外人観光団の来遊を多くしようと研究してるが、まだまだ決して満足どころが我々の眼で見ても物足らなさに歯がゆいばかりである。
 尤も こうしたことは国民全体が一致協力して研究せねばならぬ性質のもので、ただ鉄道省あたりに任せっきりでいるのは、寧ろあまりに呑気すぎるというべきであろう。これを金儲けの方から考えてもそうだ。元来観光客などというものは皆相当の金持連中ばかりで、相当の金は落とす積りで出掛けるのであるが、こちらにあまりに欲が無いために、落とすべき金も落とさずに帰ってしまうという結果になるのである。

 所で、私はそこに着目し、ただ国内で同胞相互に儲け合うことばかり考えず、こうした外人を相手に儲ける方法を講じたらと思って 次に述べるような計画を立てて見た次第である。
 同じ金儲け法でもこの外人相手の方法は 独りその人の利益のみならず、国家的に貢献する所 大なるものがあるから頗る意義がある事と思う。仮に外国人相手の手軽の商売として一寸考えても、外国向きの新考案の品物をどしどし製造して輸出するとか、外人が飛びつきそうな細工物や絵画のような土産物を作るとか思いつきはいくらもあるが、これでは観光客足止め策と云う大局から見て 余り大した効果を望む事は出来ない。
 勿論この方法が悪いと云うのではなく、これによって真に外人に喜ばれるものを売り出すならば 寧ろ外人は喜んで金を置いて行くに違いない。否単に金を取るばかりはでなく、先方に対しても十分の便宜と満足を与える事も出来ようと云うもの。従って小規模ながら これでこそ始めて国際的の金儲けと云うに差支えはあるまい。

 さて これらの観光客の大多数が最も要求しているものは何であるかというと、短い滞在日数の間に、日本のあらゆる事物を見物したいということであろう。ここで特に注意すべきことは、彼等のうちには日本という国がこれほど開けているとは知らず、今以て歌麿や広重の絵にあるような所だと想像している人がかなりあるということである。それがいよいよ日本へ来て実際を見ると、あまりにモダーン化して、アメリカの都市、ヨーロッパの都市と殆ど変わった所がないのに失望するそうである。
 そこで少し資本はかかるが、一つ思い切って京浜間の―東京からも横浜からも交通の便利で自動車でもすぐ行けるような 適当の場所を選んで『日本楽園(ジャパニーズ・パラダイス)』と云ったものを建設するのである。

 (勿)論家屋は純日本式、設備もすべて日本式にして、庭園なども金閣寺や銀閣寺のような純日本式に造り、屋内では琴、三味線、尺八のような日本古来の音楽を聞かせ、お能や太神楽、芸者ガールの手踊りから、生け花、茶の湯等も実際目の前で行って見せる。その上食事もまた日本式で外人の口にあいそうなものを考案して出す。
 他の部屋では日本古来の芸術品、甲冑、刀剣、弓箭その他いろいろ珍しい品物を陳列して見せ、又別室には日本の名産品を悉く集めて 日本特産の土産は何でもここにととのえておくようにする。又貸衣装部を設けて日本の服装をして見たい者には自由に賃貸しし、裃や振袖のスタイルをその場で写真に撮って記念にいるというようなこともやる。その上 日光とか箱根、鎌倉などの名勝を見物したい人には親切な通訳代わりの案内人を世話してやる等々、考えれば彼等を満足させる方法は幾らでもある。

 そうしてこの『日本楽園』にさえ来れば、痒い所へ手の届くよう、総てが間に合うようにすれば、短い時間に沢山の物を見たい観光客からは大いに歓迎され、感謝され、且つ相当の利益を挙げて行くことが出来ると思うのである。但し、これは資本があって一人でやれるなら結構であるが、恐らくそれは一寸むづかしいから、出来ることなら株式組織にでもしてやったらよいだろうと思う。

 これは今直ぐにも実際に必要なのであるが、しかし将来必ず こうした専門の外人向きの設備が必要になって来るだろうと考えついたのでここに紹介したのである。これを外務省や鉄道省等の諒解と援助のもとにやったら国家的に有意義な面白い金儲け法だと思う。又、外人のあまり来ない季節には これを一般日本人の宴会場等に使用すれば、少しのムダがなく使う事になるから損の行くことは恐らくあるまい。
 この案は先ずざっとこんな次第であるが、これ程まで大資本をかけないでも この外に簡単なやり方で外人相手の斬新な商売は幾らも見出せる事と思う。

 今でこそ、北海道のニセコが外国人富裕層向けリゾート地として名が上がったり、総督府近所の古びた居酒屋に西欧人カップルが来て、ビール一本に煮物一皿喰ってとっとと帰ってしまったり、外国人観光客は日本全国津々浦々何処にでも立ち入るようになっているが、何せ昭和初めのハナシである。「近時交通機関の完備」と云ったところで大型旅客機なんか無いに等しく、外国から日本には船で入るしか手立てがない。国内移動にしても、東京−大阪間が特急列車で11時間40分(1929年)、8時間30分(1930年)かかる世界だ。なるほど一ヶ所で「日本を満喫出来る施設」があれば、重宝には違いない。

 都心にある地方物産館を大掛かりにし、コンシェルジュ・サービスを追加したモノと捉えてみれば、なかなか有望な気はする。芸能や飲食なら腕ききのプロを使えば本場と同じ味は出せる。建物だって、明治村や民家園のように各地から良いモノを集めたり、良質な材料と伝統工法で立てれば格好はつくだろう。着付けや伝統工芸の体験も今では珍しいモノではない。
 しかし、そうやって作った施設―日本のテーマパークみたいなモノ―を、日本でございと云ってしまって良いのだろうか? 土地とその記憶と切り離された新開地なんて、まがいモノのカネ儲け施設に過ぎぬと外国人旅行者の失笑を買い、日本を見世物にするモノだと国士が怒り狂ったりする気がしてならぬ。
 「日本」とは何か? 大きな問題である。それを述べる本はたくさんあるのだろうが、いちいち取り寄せて読む気は無い。著者だってそんな事は気にも留めてないだろう。

 外国人観光客向けに、コンパクトな日本を作って見せる企画を裏返すと、外国人を日本に連れて来て、日本人を接客させる営業形態が導き出される。「フィリピン・パブ」、「ロシアン・パブ」など、特定の国の女の子を集めた店は今では珍しくもないが、「世界各国」と云うのがミソだ。「ユネスコ村」(今なら『東武ワールド・スクウェア』か)の「接待を伴う飲食店」版ですね。

 ウルトラモダンな国際カフェーの秘策

 時代は既に一九三一年、日と月と年とは次第に文化的に社会を改造して行って、今日我々の眼に見、耳に聞くところのものはすべて十年二十年以前に比較すれば実に驚くばかりの進歩を示している。
 従って、こういう時代には 矢張りその時代向きの金儲け法を考えねばならぬが、就中これからの人々は常に時代思潮より一歩一歩先に進んで、よい機会をつかむようにしなければならない。
 あまりお先走りすると、飛んでもない失敗に陥ってしまうと云って、人並の事をし、或いは人真似ばかりして得々としているようでは、知らぬ間に時代に置いてきぼりをくわされてしまうようなことがよくあるから注意が肝要だ。

 早い話が、一と頃商売と云えばカフェーか喫茶店、乃至はラヂオ屋とかダンスホールというように猫も杓子もみなその方面へ走ったものであるが、さてその中で成功した者が幾人あるか。
 人間、衣食住と云って、どんなことがあっても、この三つは欠くべからざるもので仕方がないが、中でも物を食わせ、飲ませ、楽しませるところのカフェーなるものは益々発展して行く傾向がある。現在東京大阪等の一流大都市に在っては、この繁盛は実に素晴らしいもので、これが繁昌するとせぬとによって 文化の程度が測定されるとまで云われる有様である。
 併しながら、私の見る眼で判断してみると、どれもこれも千篇一律、一つとしてこれは奇抜だ、これは儲かりそうだと思うようなのは不幸にして見当たらない。

 そこで 此の頃私の考案したカフェーを申し上げると、恐らくこれならば諸君が、アッと云って驚き、一般の人が成程と深くうなづくにちがいないと思うものである。それはどんなものかと云うと、つまりカフェーはカフェーでもだいぶ趣味を異にして、所謂国際(インターナショナル)カフェーとでも名付くべきものだ。
 国際カフェーというと、すぐピンと来るのは本場のパリーあたりにあるカフェーであるが、先ずああ云ったもので、更に私の新しい趣味を凝らしたものなのである。尤もこれは、東京大阪のような大都会でなければ実行は困難かも知れぬし、又相当の資本を投じなければならぬのだから、まるっきりの無資本では出来ない。しかし今日到る処のカフェーを見ると、みな相当の資本を投じているのだから、決してやれぬとは考えられない。

 そんなら一体どんな風にしてやるか?
 私の考えでは、先ず第一に世界各国、と云っても主なる国々の外人女給を置くこと、これが一番の目的なのである。
 例えばウルトラモダンなアメリカ美人を始め、ヴィナスのような仏国美人、高尚優雅な英国の女、実質的な独逸の女、南欧情緒こまやかな伊太利美人、新興の意気に燃ゆるソビエトロシアの女、少し変わった所ではジョセフィンベーカーとまでは行かなくとも、黒人女給の一人くらい置くことも愛嬌があって面白かろうし、更に支那の窈窕たる美人も至極結構である。
 兎に角、少なくとも七八カ国の特徴ある 日本人向きの金髪美人を一堂に集めて、変わった面白いサービスをさせようという趣向なのである。
 勿論この中に加えて 日本人の女給を置くことも忘れてはならぬが、しかし目的とするところは外人女給のサービスであるから先ずそれに意を注ぐ。
 そして室内の設備なども、出来ることなら小さく幾つにも画(くぎ)り(ドアやカーテンまでつける必要はない)テーブルその他の装飾品も各国の特色あるものを並べ、或は国旗その他で賑やかに景気をつけたり、或いは濃淡色とりどりの色彩で飾り立てたりして、百パーセントの国際色(インターナショナルカラー)を出すようにするのである。

 こうしてお客の好みにより、何処の国の美人でも招きに応ずることの出来るようにし、その間を日本美人が万遍なく斡旋して廻るという工合。こんな風にすれば、現在適当なカフェーの無いことに弱っている在留外人などは競ってやって来るだろうし、勿論日本人にしても、或いは語学の研究相手に行ってみようとか、××国の女は中々面白いとか、××の女は人情が深いなどといった調子で、カフェー党はいうまでもなく、一般の人も珍しがってドシドシ押し出して行くようになるに違いない。
 そうなるとしめたものである。所謂世界各国の人々を集めて、国際親善が知らず識らずのうちに実行されるということになって、金儲けと同時に、国家に一臂の力を尽くすことも出来るという 一石二鳥の好結果が得られることになるのである。

 が、さてこれは面白い計画であるが、実行方法としてどんな風にすればよいか?
 私の考えでは先ず料理などにはあまり凝る必要はないが、簡単なものでも各国の特色ある料理や酒の数種位は揃えて置いて自由に出してやるといい。若し出来るならばオーケストラかバンドでも置いて、絶えず各国の民謡風のものを演奏させるとか、色々工夫を廻らして 国際気分の横溢に出来るだけ力を注ぐことが第一に必要である。
 又その外、客引策としてそれぞれの国に依って、今日はアメリカデー、明日はイタリーデーと云った様な名を付けて変わった催しでもすれば、各国の在留外人は応援的な意味からも続々と押しかけて来るに違いない。

 こうして人気をとったならば、国際カフェーの目的は十分達せられると同時に、金離れのよい外人などにも十分の満足を与え、且つ多分の儲けも得られようというもの。殊に何でも珍しいものばかり追う今日此の頃の一般の風習、大同小異のカフェーばかり並ぶ中にこうした風変わりのカフェーが出来れば皆珍しがって来ること請合である。

 女を呼ぶ費用と云っても、先方から女を呼ぶ迄の手続きと旅費くらいのもので、今日では相当のことをしてやれば何処の国からでも喜んでやって来る。来てからは別段月給のようなものは出さなくとも、後はチップでやって行けるから 万一の場合生活を保証してやりさえすればよい程度で済むから至極簡単だ。若しこれが面倒ならば新聞広告で内地に在住のものを募集してもよい。
 ともあれ国際カフェーの強味は以上述べた通り、目新しい所にあるのだから、これを第一の条件としてやったら、忽ち評判になって、一つの名物ともなり必ずや大いに繁昌するに違いないと想う。

 要するにカフェーの経営などというものは、変わった趣向とか、サービスがよいとかすればお客は招かずして来る。敢えてこの国際カフェーに限らず、一般カフェーでもこの点の呼吸を呑みこんでやることが何より必要だろう。

 風俗版「サイボーグ009」か、「バトルフィーバーJ」と云ったとこか(トシが解るなァ…)。「日本人向きの金髪美人」に接客させるのが身も蓋もなくミソなところで、当時にも金髪趣味が存在していた記録として貴重なものと云える(支那美人と黒人女給の立場は考えない)。
 しかし冷静に考えると、「云うは易く行うは難し」なアイディアなのだ。
 アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ソビエト(ロシア)から女給を招聘して日々接客をさせる。彼女たちは日本人の酔客とコミュニケーション出来るレベルの日本語を使えなければならない(日本語の分かる人を傭わねばならない)。サービスの質を維持・向上させるには、彼女たちの母国語が解る「マネージャー」も必要で、そう云う人材はもっと割の良い仕事があるから、人材面の不安がある。

 人間のできた人は、国籍・性別には拘泥せず、相手の人間性を見て応接のやりようを決める。しかし凡夫は国籍が違うだけで鬼か蛇のように思いかねない。女給たちが国ごとに派閥をつくり、店の中で世界大戦をまた、やり出すとも限らない。
 コンビニエンス・ストア、ファスト・フード店など、外国人店員を使っているところは都内では珍しくないが、日本人は別にして、例えば中国人とベトナム人と云うように、別国籍の店員を同時に職場には立たせてないように見える。「接待を伴う飲食店」なら、「フィリピン」、「ロシア」など特定の国の店員でやっている旨の看板を出す(『インド・パキスタン料理』を標榜する店は、ネパール人がやっていたりするのだろうか?)。店員集め・日頃のケア、同国人コミュニティへの参加(による庇護)を考えると、同郷でまとまるのが王道なのだろう。多国籍・他民族を束ねるための気の使いようは、正直主筆の想像の及ばぬトコロがある。

 どうやって「女を呼ぶ手続」をやるのだろう。
 給料が出ない―「後はチップでやって行ける」―店で働くために、誰がはるばる母国を後にして来るのか? 相当の支度金を出さねば「美人」は来ない。世界各地の日本商社員にスカウトさせるのか? すでに世界的名所として知られる店なら志望者もあるだろうが、現実的には「新聞広告で内地に在住のもの」を雇うしかあるまい。そしてカフェーの女給になりたい、と云う人は、日本在留の外国人客(想定されるのは、カネ廻りの良い連中だろう)から、食い詰め者同然と差別されてしまうのではないだろうか?
 外国人客が喜んで来店するようにするなら、外人女給を侍らすのではなく、外国人のショーを見せて郷愁に訴える方が無難に思えてならぬ。ジョセフィン・ベイカー本人が喜んで働きに来たくなるような店づくりを考えねばなるまい。しかし、著者がそこまで考えているようには見えぬ。

 昭和初期のエロ三面記事の話を書いていたこともあり、この2ヶ月くらいで、『芸者』(増田小夜、平凡社ライブラリー)を読み、その解説で言及された、『何が私をこうさせたか』(金子文子、岩波文庫)を読む。これが面白かったので金子文子の評伝『余白の春』(瀬戸内寂聴、岩波現代文庫版)に手を伸ばす。
 「何が私を」に、林芙美子『放浪記』に通じるモノを感じて、新潮文庫版を古本屋で買い直して読み返す。二人が同じ歳なので驚き、同年生まれにどんな人がいるのか見てみると、森茉莉、金子みすゞに香淳皇后がいてひっくり返りそうになる。
 大正時代末期の社会の低層で、生きるたたかいを展開する人の話を読んでいたせいで、この「国際カフェー」が女給を食い物にするんぢゃあないかと、いらぬ警戒をしてしまう。

 歌手・踊子として来日したはずなのに、客席に侍らせられお酌をさせられる―もちろん「お触りつき」で―のは序の口で、来日の支度金が日本に来たら前借金に化けている、オマエラは個人事業主なんだから給料は払わぬチップで稼げ、みすぼらしい格好は許さぬ出入りの服屋がツケで売るからソコで買え…。
 国際(インターナショナル)を標榜しているが、日本人が多国籍の外国人女給(金髪の)を雇用・経営する構想は、帝国(インペリアル)な感じが拭えない。その後、帝国日本が東亜の盟主たらんとして国を滅ぼした事を思うと、この企ては危うい。

 せっかくの金儲け企画が、くさすだけになってしまい、著者に申し訳が立たない。化けて出るとイヤなので役立ちそうなところをチョツト引いておく。
 「常に社会の見聞を広くする」、すなわち「多方面の新聞雑誌に眼を通す」。「金儲けのコツは、目のつけ所、機会の掴まえ方等にあるので」、「記事や広告から結構よいヒントを与えられる」。そして「宇宙の万物をすべて金儲け化するくらいの意気込みで見たり聞いたり」すれば、その材料が見いだせると云う。当たり前のことではあるが、「常に」意識し続けるのは難しいよ。
 「兵器生活」のネタ拾いも、この精神でやってるトコロがあるような気はする。もちろん、意識するのは月に一度くらいではある。

 「一度これと思って実行に移る以上は、成功するまでどこまでもやりぬく覚悟と勇気がなければならぬ」
 引き際の心配などせず遮二無二突き進めと云うわけではない。著者の成功例を読むと、適当なところで人に任せて手を引いているのだ(その後は書かれていない)。成功事例をいくつも持っていることは、それが見えたところで手仕舞いしているのである。
 「兵器生活」が成功しているかドーかは別として、20年続いているトコロを見ると、「どこまでもやりぬく覚悟と勇気」はあるらしい。単に良い方面に「転進する」勇気が無いだけかもしれないが。
(おまけのおまけ)
 『金髪神話の研究 男はなぜブロンドに憧れるのか』(ヨコタ村上孝之、平凡社新書2011年)を読むと、明治18(1885)年『佳人之奇遇』(東海散士)に、「西人緑眸ニシテ毛髪ノ金光アルヲ称して美人トナス」とあるのを引いて、「明治20年頃までは、金髪が美しいというようなことに日本人は思い至らなかった」の説明がある。また、明治28(1895)年に発表された「和洋美人比較論」(石橋思案)は、西欧人の金髪を「日増しの玉蜀黍」と形容し、日本流の黒髪の方が上等であると評した記事も紹介されている。
 「金髪」の語は、森鴎外『うたかたの記』(明治23(1890)年)で使われたのが、本邦最古に近いと云う。鴎外の中で、それは「物神化されつつあるのが見て取れる」とあって、金髪趣味の走りだったのかと思ってしまう。

 森鴎外、教科書や国語副読本で名前を知った頃は「文豪」だったに、近年は「こどもに西洋人みたいな名前をつけるパパ」のイメージが強くなって困っている。そこに金髪趣味が加わったなら、ドーなってしまうのか。
(おまけの余談)
 同年生まれの女性たち。金子文子、金子みすゞはともに若くして自死を選び、林芙美子は働き盛りで急死してしまったのだが、森茉莉が晩年、テレビで「銭形平次」の再放送を楽しみに観ていた話を聞くと、早死にしなければ、各人それぞれの住まいで「水戸黄門」なんか観ていたのかも知れない(金子文子は朴烈とともに半島に渡って観られないか)。戦後民主化の成果は、こんなカタチで現れるのか。