「補遺訂正」つき本で79万1千おまけ
今月の更新をドーするか苦しむ。路傍の石をひっくり返してダンゴ虫でも探すように、本の山の上にあるモノを取りのけていると(あとで戻さないと寝場所がなくなる)、こんな本が湧いて出る。
『心配を洗う石鹸』(和田雪仙、経済春秋社)
心配事は多々あれど、喫緊のそれは今月のネタだ。それが「さ、洗いながそ。」(牛乳石鹸)と片付けば、コンナ結構なことは無い。
冒頭に、こんな言葉が挙げられている。
序
心配―心の鏡面に附着した一抹の垢である。しみである。いやな奴だ。人生にこいつがあるので、折角の可い気分も、享楽も、まるて打ち壊しだ。
仍で(ママ)何うしたら心配がとれるかと言う帰結だが、其れは洗えば、綺麗に落ちてしまう。何で洗うか。石鹸で洗う。其石鹸、名づけて麦酒と言う。
昭和二年十月中浣(註:ちゅうかん、月半ばの意)
著者
心配ごとはビールで洗い流してしまえ、と云うわけだ。
「とりあえず」、「まずは」、「とにかく」。ひと仕事終え気分を替えるには、ビールが無ければ始まらぬ。最初の一杯、初めのひと口の値打ちは、「この一杯のために生きている」と云えるまでに重たい(今すぐ呑みに行きたくなってきた)。
この本、「別名 麦酒に関する研究」とも銘打たれている。ビールの創成期から日本での発展など、豆知識を述べたものだ。ビールには泡がつきものだから、石鹸になぞらえる気持ちはわからなくも無いが、「心配を洗う石鹸」は、そうとうな力業である。酔ったイキオイで付けたんぢゃあなかろうか。
昭和の初め(実質大正末)、洗うモノは「石鹸」、と云う認識が定着していた事を示す実例と思うと興味深い。
目次の前に「崖言」として、本書の性格を記した文がつけてある。
そこには、「此書は全然名古屋で手に入れた材料によって書かれたもので、東京ならば…と思うことが、執筆中にも度々著者の脳裡に徂徠して離れなかった」なんて記述があり、「粗笨(註:そほん、大まかでぞんざいな、の意)な且つ荒削りなものとなって」云々とある。ビールは呑むがビールの知識を深く求めようとは思わぬ主筆には、関係の無い話だ。しかし、そうは思わぬ人がいた―この本の(もとの)持ち主である。
本書のあちこちに、自分の知見を書き込んである。線を引いたり、意見を書いたりする例は、古本屋に行けばいくつも見ることは出来る。それがちょっと凝っているのが面白い。
実際のトコロを見ていただこう。
ビールに「ホップ」が用いられるようになった件を、本書は
十四世紀の初頭、ネザーランド醸造所に於ける使用を嚆矢とすると言うが、ホップを麦酒に入れたことは、独逸人であることに異存はない。かのスラブ人説の如きは甚だ影が希薄である。
と記す。ところが持ち主は、そのページの上に
惚布(ホップの当て字)を麦酒醸造に使用したと云う正確な記録は 紀元一〇七九年独逸プァルツ州ルッペルツベルヒの尼院長聖ヒルデガルトの記述した古文書を以て嚆矢とする 依って見れば十一世紀初めには既に使用せられているものの如く考えられる
と記した紙を貼りつけているのだ。そんな貼り込みが、6ヶ所もある。全部載せても、読めぬところ・読めても内容の善し悪しが判断できないものがあるから、いちいち紹介はしない。
「麦酒の種類・品位・試験法」の章は、「ラアガー・ビール(独逸・貯蔵)」から始まり、「冷ビール」「温ビール」「濃厚ビール」(今なら『ドライ・ビール』の名前も載るはずだ)と種類を挙げるところから始まっている。これについては、図版のように「斯くの如き分類は殆ど意義なきものと愚考仕(二文字不明)」と貼り込みがしてある。
紙をよく見ると、契約書の割印のように、貼った紙と本のページの境目に押印してある。印章は「大森」と読めるのだが、上の図のところだけ、貼り紙本紙に「中越」(?)の印が押されている。
ずいぶんカッチリとやっている。趣味の域を超えているようにも見える。
めざとい読者諸氏は、「貼り紙」の上端に英語が記されているのに気付かれていよう。同じタイプの紙を、書き込む量に応じ適当な大きさに切ってあるのだ。
よ〜く見ると、
「Dai Nippon Brewery Co. Ltd」と読める。「大日本麦酒」である。
戦前日本のビール界に君臨していたビール会社だ。昔はアサヒ・サッポロ・ヱビスの各ビールが、同じ会社から販売されていたのだ(と書くと驚いてしまうが、要はこれらのブランドを出していた三社が合併しただけの事。敗戦でアサヒとサッポロに分割され、ヱビスはサッポロの1銘柄になり今に至る)。
本の著者が、「東京ならば…」(もっと良い資料が読めるはずだ)と長嘆する東京の、それもビール会社の人間が、鵜の目鷹の目で精読していたのだ。
内装の良さで有名な、「ビヤホールライオン銀座七丁目店」の建物は、この会社の本社ビルである(昭和9年に出来たもの。また呑みに出たくなってしまう)。
書き込みのしてある古書は、安く叩き売られるのが相場だが、この本そのもの―物体として―は、「解る人には解る」(モノズキがツイ手を出してしまう)シロモノなので、うすっぺらい文庫本同然ながらも1千5百円の値が裏表紙にエンピツで記してある。本屋のレッテルも同じ値段だから、最初の持ち主から一度古書店に流れ、そこから人の手に渡ったか、業者の市で、自分の買った本屋に引き取られたのかも知れぬ。この本屋さんには足を踏み入れた事は無いので、デパートの古書市で引き取ったはずだ。
余談はさておき、これのおかげで今月(2021年4月)の更新が出来たのだと思えば、安いものである。
(おまけのおまけ)
本書にいわく、「大日本麦酒の川上健氏に拠ると」、『後漢書』范冉伝に「麦酒」の語があると云う。今のビールとは別物なのだろうが、「麦酒」の語じたいは案外と古いことになる(卑弥呼より前の時代だぞ)。
大日本麦酒の人の知見も借りて書かれた本に、同社の別な人がツッコミを書き残しているわけで、そう考えると楽しい。
(おまけのホントに旨いのか?)
この本の「第十章 麦酒と芸術家」に、橋本雅邦と云う画家の行状を記した『芳崖と雅邦』(梅澤和軒)から引いた記述がある。
若い時分は酒は唯一の楽しみで、大酒でもあったが、後年健康を害したので、大に節酒して、後にはビール許りを愛飲してあった。殊にビールを熱燗にして猪口でチビリチビリ(註:原文はおどり字)と飲むのが好きであった。
それって旨いんだろうか…。