教養は「心のお化粧」と菊池寛は云った

『新女大学』で79万3千おまけ


 永井荷風が悪い。
 菊池寛に抱く偏見のことだ。
 『文藝春秋』創刊、芥川賞・直木賞の創設で、日本文学・文化への功績は筆舌にし尽くせないものがある(文春新書も『週刊文春』もこの人がいなければ世に存在していない)のだが、何故か虫が好かぬ。


「ブランド王ロイヤル」の人ではありません

 肖像写真でさえ、文士と云うより実業家あるいは教頭先生的エラソーな雰囲気があるのに、永井荷風(この人もソートーな曲者だ)が、日記にさんざ悪口を書き連ねてくれたおかげで、この人の書いたものを読む気にならぬのだ。
 吉祥寺の古本屋に入る。
 棚を見ると、「婦人倶楽部」附録の冊子、『新女大学』がある。目次を見ると

 学校でも家庭でも教えない性的教養

 の文字が輝く! 手に取ると、よりによって「菊池寛 著」ではありませんか。いいかげん和解せよと古本の神様からの贈り物に違いない。高価なものでも無かったので押し頂いて帳場へ。
 パラフィン紙のカバーがかかっているので表紙画像は略す。装幀は恩地孝四郎、挿絵は岩田専太郎。キチンとした本、カラーの挿絵だったら、良い値段になるだろう。上に揚げた「著者近影」は冊子に載っていたものだ。その下に前文がある。例によってタテのものをヨコにしてご紹介する。

 『新女大学』と云う題を付けたが、私は、道徳家ではないから、女性の方々に、教訓を垂れる資格はない。ただ、普通の人々に比し、女性の生活を知り、女性の姿を描いた丈に、人生に就いて、女性に就いて、比較的に多くの知識を持っているつもりだ。この書は、私のそうした経験知識から得た覚書(メモ)であり注意書である。
 女性の守るべき道徳、教訓に就いては、あまりに多くいろいろの本に書かれている。又多くの女性は、道徳の本道を踏み外すことは少い。しかし、多くの女性が間違いを起し易いのは、道徳の枝道に於てである。しかし、こうした枝道や日常の些事が、考え方に依っては、女性の生活の大部分であると云ってもよいのだ。だから、私の日常些事に対する一寸した注意書も、案外皆さんの不幸を未然に防いだり、皆さんの家庭を明るくする一助になるのではないかと思う。

 やっぱりエラソーだ。「普通の人々に比し、(略)人生に就いて、女性に就いて、比較的多くの知識を持っている」。昨今では小説家でも書けないようなセリフではないか。普通の人が、人生や異性に対して常人以上の知識を持てるわけが無いだろう(あれば立派な『通人』だ)。

 この冊子は、
 教養、趣味、娯楽の巻
 社交、言葉、手紙の巻
 美容、服装の巻
 家事、家政の巻
 恋愛、結婚、夫婦の巻
 母、姑、小姑の巻
 職業婦人の巻
 の項からなっていて、おおむね婚前の女性に向けた体裁を取っている。
 「婦人の教養(修養と云ってもよい)は、結婚生活への準備教育だと云っていいわけである」
 「教養とは(略)個人の問題であるが、婦人にとっては、彼女の全生涯を支配する結婚生活と密接な関係がある」
 本文冒頭でこう云いきっているから、内容も推して知るべしで、世間知らずの娘どもに有り難いお話しをしてやっているんだ、と云う臭みさえ感じる。今の世の中で男がこんな事を書いたら、女性たちから猛烈な反駁があるのは必至だが、昭和12年も暮れようとする頃に出たモノだ(昭和13年新年号の附録。12年12月11日印刷納本と奥付にある。菊池寛49歳になる直前の頃)。当時の男のモノの考え方のひとつと思っていただこう。

 さて、本題の「学校でも家庭でも教えない性的教養」は、「教養、趣味、娯楽の巻」の最後にある。さほど長いものではないので、一気に読んでいただく。

 八、学校でも家庭でも教えない性的教養
 性的教養ということも、これ亦、必要なことである。恋愛とか、男女関係に関する大体の知識や、たしなみを少しも知らないと云うことが、結婚生活に於て、やはり意外な間違いを起し易い原因になる。良家の奥深く育って、男女の肉体的関係や性欲について、何も知らない花嫁が、無知なるが為めに起す間違いは、案外に多いと思う。
 そうかと思うと、自分は処女であるか、ないかさえの区別がつかずに、ひとり悩んでいるような女性のあることは、新聞や婦人雑誌の身の上相談欄で、よく見かけることである。これなどは、いかに性的教養がゼロであるかという証拠で、ただ憮然たる外ない。
 また、男女関係のたしなみなどいうようなものも、ただ猥褻とのみ貶すわけにゆかず、性的教養が基礎となっている場合が多いのである。

 『浮世草子』というのは、江戸時代の黄表紙本だが、その中に花魁が客に接する礼儀や作法を説いているところがあったと思うが、新妻のたしなみとして心得ておくべきことが多いと思う。
 これは昔の話であるが、佐賀の鍋島藩の先祖で鍋島直茂という人の代に、或る侍が鷹狩のお供をして行った時、便所を借りたくて、或る百姓家へ入って行った。ところがそこには生憎、主人がいなくて、妻だけであった。侍はその妻に頼んで便所を借りたのだが、袴を脱いで便所へ入っているところへ、恰度主人が帰って来た。そして男袴の脱がれてあるのを見て非常に立腹して、はげしく妻を詰(なじ)ったことから、一寸した事件になった。それを鍋島直茂が聞いて、
 『女一人の家へ行って、便所を借りるということは、甚だ不心得であるし、又、妻が自分一人でいるときに、男に便所を貸すということは、怪しからぬ。』というので、二人とも重刑に処したという話がある。
 こういう風に、男女間の問題は、いまも昔も変らず、非常にデリケートである。余程気をつけないと、自分では邪(やま)しくなくっても、他人に疑われたり、それが為め思わぬ重大事件を起す場合が決して珍しくない。
 だから、そういう男女間のたしなみというようなものも、やはり男女間の愛情の関係や、性欲とはどういうものであるかということを、はつきりと知ってこそ、初めて生れるものではないかと思う。

 例えば、性欲というものを、少しも知らない為めに、重大な過失を犯す女性は、現代にかなり多いようである。その最もよい例は、ヴェテキントの戯曲『春の目覚め』であろう。
 この戯曲に出てくる主人公で、十四五歳になるドイツの娘ヴェンドラは、お母さんに、赤ちゃんはどうして生まれるのかということを訊く。すると母親は、娘の露骨(?)な質問に内心非常に驚きながら、
 『―子供が出来るのにはね、男とね、結婚しなければならないのよ。愛してね、……忘れちゃいけないよ、愛することが出来るようにね。心のありったけをささげて愛さねばならないのだよ。何んと言ったらいいだろうね、その人を愛さなければならないのだよ。ヴェンドラ。お前の年頃じゃ、まだ愛することが出来ないがね。もう分かったね。……さあ、わかったね。……これから先、どんな目にあうことか!』
 こう答えている。母親は、なるべく本当のことを知らすまいとして、いかに一生懸命になっているか、この会話でよく分かるであろう。ところがこの娘は、その後間もなく同年輩の男の友達と乾草(ほしくさ)を入れてある倉庫の中で遊んでいる時、よく乾いたその秋草の香りに魅(ひ)きつけられるような本能的な興味―衝動から、ついに何気なしに過ちを犯した為め、妊娠する。―この娘なども、もっと性欲に関する知識を、はっきり教えられていたならば、こういう過誤を起さないで済んだにちがいない。

 とに角、今の学校教育は、なるべく人生の裏道を教えないで、表通りばかりを見せ、表通りばかりの道徳を教えているが、人生の到る処には、横町や露地があって、その横町や露地では、いろいろ醜いことが行われている。
 そういう横町や露地へ迷い込ませない為めには、最初からその横町や露地の在り場所をはっきり教えておくことが必要ではないだろうか? それらのくわしい事に就いては、また何かのついでに、述べて見たいと思う。また僕などが説明するより、他により適任者があることと思うから、ここでは、これだけにしておく。

 女学校を出たくらいの娘さんも読むような雑誌の附録だから、露骨なことは書けない。中学・高校の夏休み前の注意事項みたようなモノだが、「性教育」より、やや広い範囲を語ろうとしている事は注目に値する。これが支那事変が勃発した昭和12年末に刊行されていると云うのだから、驚くしかない。
 「花魁が客に接する礼儀や作法」に新妻は学ぶべきだ、を今風にすれば「接待を伴う飲食店の女性従業員のやり方を(小説のひとつも読んで)見習え」になる。別な項では「妻は、ある意味で、夫のよき話相手となることが最も大切である」とも記されている。菊池寛の女性観の程度が知れる。

 しかし、「人生の裏道を教えない」学校教育への批判は、今の社会にもあてはまるのではないだろうか。ここでは、結婚して家庭のひととなるコースだけでなく、それを踏み外す「裏道」「横町」「露地」の存在と危険を教えよ、と語られている。しかし世の中、人生の王道を歩める人ばかりでもあるまい。家庭に囚われ死んだように生涯を終えるのなら、裏道・横町を抜け新天地を目指すのも人の生き方と云えないか?
 読者諸氏は考えすぎと思われるやも知れぬが、昨今の「ワタシが見たくないものは世の中から消えて無くなれ」的な風潮に通じるものもある。町中から喫煙者が駆逐され、哀れ雨のなか駅前や街角の喫煙所に肩寄せ合っているのを見る。そこには非喫煙者が最も忌み嫌う煙がもうもうと漂っているではないか。見たくない・触れたくもないモノを排除しているはずが、むしろ悪く目立つようになる事もあり得るのだ。
 菊池寛は、文学・歴史読み物から自説を裏付ける話を持って来ているが、「黄表紙」は、紙面の殆どを画が占めていて、地の文、会話は画面の余白に押し込められている、絵本とストーリーマンガを掛け合わせたような読み物である。井原西鶴に代表される「浮世草子」―挿絵入り小説―とは、モノが違う。
 「浮世草子」を「黄表紙」中の一作品みたいに例示するから、永井荷風に(日記で)痛罵されるのだ。

 「鍋島藩の」と来れば『葉隠』である。三島由紀夫の『葉隠入門』は学生の頃読んだが、こんな話あったっけ? な有様である。便所の貸し借りが原因で課せられる「重刑」って何? 近所にある区立図書館の分館で、「日本の名著17『葉隠』(中央公論社、昭和44年)」―これしか置いて無い―に目をざぁーっと通す。見つけたのが以下の文章である(云うまでもないが原文はタテ書きだ)。
 一、ある男が、佐賀の町はずれの八戸(やえ)の宿を通りがかったとき、にわかに腹ぐあいが悪くなった。とある裏店へ走りこんで、便所を借りたいと言うと、その家には若い女一人がいたが、便所は奥の方にあると教えてくれた。男はその場へ袴を脱いでおいて便所へ駆けこんだ。ところが、そのあとへ亭主が帰ってきて、脱いである袴を見ると、密会をしていたに相違ないと思い込み、男とのあいだに口論が起こり、訴訟沙汰となった。直茂公は、この事件をお耳に入れられて、
 「密通ではないとしても、女が一人いる家で無遠慮に袴を脱いだこと、女もまた、夫の留守に見知らぬ男に袴を脱がせたこと、いずれも密通同然のふるまいである」とおおせになって、両人に死罪を命じられたそうである。
 鷹狩りのお供でなく、百姓家でも無い。鍋島直茂が怒ったのは、便所を借りた・貸した事ではなく、女ひとりしかいない家の中で、夫でもない男が袴を脱ぎ、女がそれを許したのが不義密通も同然と見なしたからなのだ。これでホントに首が飛んだら、奥さん、化けて出たんぢゃあないだろうか…。
 余談はさておき、菊池寛、脇が甘いと云わざるを得ない。

 そうなると、『春のめざめ』も、どんな記憶違いをしているか知れたものではなくなる。近所の図書館にあるのは、2009年に長崎出版から出た酒寄進一訳だ。母親のセリフが伝える内容はおおむね同じ―原文が同じなら大きく違うことは無いはず―であるが、「お前の年頃じゃ、まだ愛することが出来ないがね」は、「おまえの年ではまだできないような愛し方で愛さなければいけないのよ」と、性行為の存在がより強く暗示されている。
 少女ヴェンドラが妊娠してしまうのは菊池寛が記す通りだが、菊池寛が「何気なしに過ちを犯した」とするくだりを引くと…
<干し草置き場―メルヒオール、干し草の山の上に寝ている。ヴェントラが、梯子をあがってくる>
ヴェントラ こんなところにいたんだ。―みんな、探してるわよ。馬車を出すところなの。あなたにも手伝ってほしいんだって。嵐が来そうよ。
メルヒオール こっちに来るな!―来るなよ!
ヴェントラ どうしたの?―なんで顔を隠すの?
メルヒオール 行け、行けったら!―行かないと突き落とすぞ。
ヴェトンラ 行くもんですか。―(メルヒオールのそばにすわる)どうしてみんなといっしょに牧場へ行かないの、メルヒオール?―ここ、蒸しむしするし、暗いじゃない。着てるものまで汗びっしょりになっちゃうわ!
メルヒオール 干し草の匂いが好きなのさ。―外は、たぶん棺掛けをかぶせたみたいに真っ暗なはずだ。―見えるのは、きみの胸で光ってるケシの花だけだ―それから、きみの鼓動が聞こえる―。
ヴェントラ ―キスなんて、やめて、メルヒオール!―やめて!
メルヒオール ―きみの鼓動が―聞こえる―。
ヴェントラ ―キスすると―愛することになるのよ―いや、いや!
 これを、女性が乾草の香りに誘われ情交に及んでしまいました、とするのなら、世の性犯罪の半分くらいは説諭で片付いてしまうだろう。それはさておき、菊池寛云うように「性欲に関する知識を、はっきり教えられていたならば、こういう過誤を起さないで済んだにちがいない」のは確かである。メルヒオール(彼が主人公だ)も、自分の性衝動を意識しているから、「こっちに来るな」と云っていたのに…。

 この冊子、「菊池寛 著」とはあるが、実際のトコロは談話を誰かがリライトしたんぢゃあないか、と思う。一般論を興に任せて語るとき、話すことをキッチリ用意しておく人がどれだけあろう。うろ覚え・記憶違いでおかしな事をしゃべってしまうのは、菊池寛ならずとも誰にでも(永井荷風にだってきっと)ある。そこは活字になる際に、加筆修正すれば良いだけの話なのだが、こうツッコミ所が多いと、菊池寛、読者が(本を読まぬ)女性と侮り、校正の労を惜しんだ疑いがある。
(おまけのおまけ)
 菊池寛と和解するどころか貶してしまい、あわせて主筆の首を先々締めるような内容になってしまう。
 菊池寛に恨みは無い。元記事をテキスト化するだけではチト物足りないなと、図書館に足を運んだだけのはずだったのだ。鍋島直茂が「重刑に処した」とあったので実際のところはドーだったのかを知りたいと思い、乾草の上のムードに流されて…のあと、何が起こったのかを載せれば格好がつくと云う浅はかな考えが、菊池寛先生を貶すかのようなモノになってしまったのだ。これが夏なら「太陽のせいやがな」で誤魔化せるのだが、書いているのは6月の20日過ぎなので、永井荷風くらいしか責任の押しつけ先が無い。

 うろ覚え・脇の甘い資料の使い方は、主筆がちょくちょくやっている事である。「兵器生活」読者諸氏なら口にせずとも解っているところだ。今後改まるなんて期待はしないでいただきたい。
(おまけの俺もまだ甘い)
 菊池寛が、おおざっぱな例示をやらかしていたのは、本文に記した通り。しかし検証に使った資料は当人の死後に刊行されたものである。フェアとは云えぬ。当時読まれていた『春のめざめ』に、「秋草の香りに魅きつけられられる」云々の描写が載っていない保証はないのだ。ここは昔の版を探して目を通しておくべきトコロだろう。

 幸い、国会図書館のテジタル資料に、大正13(1924)年岩波書店刊(野上豊一郎訳)がある。例のシーンは酒寄訳と似たり寄ったり(原文が同じなら、大きく異なることは無い)だが、「キス」が「接吻」(キュッセンのルビ)なのが時代を感じさせる。そして「秋草の香り」云々の描写は無い。
 母親のセリフはこうだ。
ベルクマン夫人
―子供を産むのにはね―男をね―自分が結婚した男をね……愛しなけりゃならないの―愛しなけりゃならないのよ……愛されるだけ愛しなけりゃならないのよ! 有りったけの心で愛しなけりゃならないの。さあ―さあ何と云ったらいいだろう! あなたの年頃ではまだ愛することが出来ないような愛し方で愛しなけりゃならない……それでおわかりだろう。
 菊池寛が記したものとはだいぶん違う。彼が読んだのは、この版ではなさそうだ。
  大正13年に、新栄閣から出た柴田咲二訳を見る。
 ベルクマン夫人 子供の欲しい時はね―愛さなけりゃならないの―男をね―結婚した男の人をね―愛するのだよ。解ったかい―誰でも一人だけ男を愛することが出来るのよ! ありっ丈の心でもって愛さなけりゃあならないのだよ、そうだね! 何んて云ったらいいかね! その人を愛さなければならないのだよ。でもヴェンドラや、お前位の年頃にゃ、まだ愛することは出来ないがね―さあ、解ったらね!
 「ありったけ」が「丈」と記され、語尾が「〜だよ」になっている。この訳本を読んでいたのではないだろうか。
 さあ、ヴェンドラがメルヒオールに犯される場面がどうなっているか!
 …ページが抜かれて解らないのである。ダァ。