絶対不敗の方法

『週報』巻頭言で(ほぼ)79万4千おまけ


 「おみくじの大吉を必ず引き当てる方法」がある。
 高田馬場の予備校に通っていた頃、国電(当時)新大久保駅横にある稲荷神社で、模試のたんびに籤を引き、結果(もちろん試験のではない)に一喜一憂していた者としては、興味津々ならざるを得ない。方法は簡単、
 「大吉が出るまで引き続ける」

 美しく無い。卑怯未練。神意をないがしろにするにも程がある。知って憤慨したものだ。
 しかし、新年早々悪い籤を引き、一日気分が晴れぬまま過ごすなら、賽銭フンパツしたつもりで、大吉を射止める方があとの気分は良いだろう。文字通り「幸運を引き寄せる」行為でもある。
 籤を引き続ければいつかは「大吉」に至るのだが、その前にお金/籤が無くなる可能性が実はある。そうなった時の精神的ダメージは「天罰」そのものだろう。「幸運を引き寄せる」ため籤を引き直すことが許されるのなら、「不幸/心配を遠ざける」ことも許されるべき話である。そして「大吉」を当てるより「凶」から逃れる方が簡単なのは云うまでもない。「神事をやりなおす」やましさを感じずにそれが出来るなら、最早おみくじを引く必要なんかありませんよね。
 と云うわけで、今では賽銭百円放り込み、アタマだけ下げている。

 『週報』446号(昭和20年6月6日号)巻頭の「週言」を紹介する。


『週報』446号

 例によってタテのものをヨコにして、仮名遣いを改め、読者の便宜のためと称し適宜改行を施してある(安易にコピペすると恥かくよ、と云うことデス)。

 「こちらが苦しい時は敵も苦しい。」
 「敵は甘いことをいって、こちらの戦意を挫(くじ)き、若しこちらがこれに乗って手を挙げたらのしかかって来る。」
 「勝敗の差は紙一重できまる。」
 緒戦以来こういうことが、講演や訓示で幾度も繰返されたが、戦場が遠く距
(へだた)っている頃は、戦争の理論として成る程と聞き流す程度であった。然るに昨今の戦局に於ては、こういう言葉がひしひしと実感をもって迫ってくる。
 弱気の者や、頭だけよくて肚の据わらぬ者は取り越し苦労をしたり、悲観したり、その他さまざまな妄念に取りつかれ易い。強気の者、肚の据わった者でも、傍の者が弱気を吐くのを聞くと、ふとそうかなと思うことがある。この時冒頭の言葉をもう一度味わってその意味をかみしめるならば、戦争に関する理論が実践に移ることとなる。

 戦争はこれからだ。これからがほんとの戦争だ。死ぬ気になってやれば出来ぬことはない。個人が捨身になるだけでなくて、日本人全体が捨身の覚悟を以て敵に当るならば、紙一重の差で勝ちはこちらに帰するのである。民族的捨身の戦法こそ勝利の鍵である。

 こんな文章が、よりによって「国民義勇隊問答」が掲載された号の冒頭に掲載されている。
 <国民義勇隊>は、地域・職域・学校単位で組織され、「皇土の防衛と食糧の増産とに重点を置」くものであるが、「地域が戦場化するような場合に立ち至れば、即ち戦闘義勇隊に転移して、軍の作戦行動に協力し、郷土を防衛死守する」、と「問答」には書いてある。
 「ほんとの戦争」(本土決戦)に向け、国民にカツを入れているわけだ。

 「負けを認めなければ<負け>ではない」
 こんな考え方がある。この文章にもそれがある。しかし、書いている者が本心から負けてない、と思っているかは別な問題だ。
 「弱気の者や、頭だけよくて肚の据わらぬ者」(中産階級・インテリ層)が、この戦争の行く末に対しネガティヴな言動を取ることを「妄念」と切り捨てつつも、「強気の者、肚の据わった者」(在郷軍人や町内会の顔役あたり)でも、「弱気」に同意してしまう現象が周囲―戦争指導をする側―にも存在している事を、書き手は否定していない。
 後ろ向きな発言をすると、「やる気あるのか?」、「勝つ気があるのか?」と叱責されてしまうのが世の中だ。当時も今もそう変わるものではない。ましてや文章が世に出たのは大戦争の真っ最中、それも「敗戦直前」である。

 なるほど、銃後国民にとっての「本当の戦争」は、これからかも知れない。しかし大都市は空襲で焼失し、地方都市が狙われ、空襲の死傷者は万人単位で出ている。沖縄は既に戦場だ。さて、大東亜戦争はこんな状況に国家国民を追い込むために始められた戦争だったのか?
 書き手の脳裡にある「勝利」とは何なのだろう…。

 「勝ち負け」と抽象化するのが良くない。
 目的が達成されているのか(蒋介石政権は屈服したか)? 目標に到達出来ているのか(敵艦隊、爆撃機群を殲滅・撃退てきているのか)? そしてソロバン勘定は取れているのか(戦争継続・国家存続のための資源は、食糧は、人員は足りているか)…。そこに立ち帰れば、おのづと勝敗は見えて来る。
 相手からどう見られているかも考えなければならぬ。当人ひとり意気がっていても「相手にされてない」事はままある(『兵器生活』もそのクチだよな)。

 大東亜戦中の国家運営、国民への指導の酷さは否定のしようが無い。それを増長させたマスコミも、乗った一般国民もみんなバカ揃いだったと云うのも一理ある。教育が悪い、マスコミが悪い、理由はドーとでもつけられる。しかし、この1年の社会の混乱を当事者の一人として思うに、戦前・戦中も現代も、人間の程度はそれほど変わっていないのではないか。
 道を誤った自覚はある。しかし後には引けないと思い込んでしまう。エライ人が云い出して、あるいはうまくノセて始めてしまったために、状況が、前提が変わっているのに、依然「走りながら考える」ことをやめられない。
 生まれながらに偉い存在である天皇・皇族は別として、組織で偉くなるのは常に「勝ってきた人たち」だ。前向きさ積極性が無ければ幹部にはなれない。「負け=失敗」を認めれば当人の前途はなくなり、それを指摘すれば物議を醸す。解決に結び付かぬ云い訳を山ほど作らせ、毒喰らわば皿までと突っ走ってしまう。誰もそっちに行きたくないのに、誰かがやってくれるだろう、やってくれればいいなと滝壺に真っ逆さま。

 「負け=失敗」は認め、改めなければならない。山道で迷ったら、来た道を引き返すのが鉄則だ。フられた相手に執着するのはストーカー行為である。
 「負けてない」と云い続けることは出来る。しかし「負けている」事実は、それを語る本人がイタい程良く知っている。単なる云い訳でも、開き直りでもない、卑屈にならず責任転嫁もしない、「当事者として負けを認めることば」が求められている。
(おまけのおまけ)
 2020年のオリンピックが2021年に開かれようと云う時に、こんなネタを持ち出すのは時局便乗と云われても仕方の無いことだが、たまたま目についた冊子を使ってみたまでのことで、他意は無い。エアコンの無い夏場の総督府でネタの発掘を続けるのは、命にかかわりかねないのだ。
 生活環境は悪い。作ったコンテンツは黙殺され続ける。主筆の人生は正直「負けが込んでいる」。その自覚はある。
(おまけのついで)
 読みたい方だけ読んでいただければ良い、と云うのはホンネだが、黙殺が続いているのに甘んじ続けていられる程、人間は出来上がってはいない。
 世の中の多くは、主筆が書いた記事よりも、こんな記事があるんだと云う、元ネダの画像があれば充分なんだろう、なんて事さえ思うようになってしまった。ソンナ世間に迎合し元記事を画像で載せてみる。


 (文章を、読みづらいカタチで紹介して何が面白いんだろう、とは思っています)