「運動碁」

三宅雪嶺の思いつきで79万5千5百おまけ


 西新宿はずれの総督府、渋谷に出なければならぬ時は、新宿駅に出て電車に乗るのではなく、山手通りに出て渋谷駅行きのバスに乗る。時間はかかるが駅階段の上り下りをやらずに済み、目的地は「たばこと塩の博物館」―墨田区に移転して足が遠のいてしまった―だから、渋谷区役所前で下車すれば駅前のスクランブル交差点を渡るくらいの距離でついてしまえる。ラクなのだ。
 バスは、山手通りを南下して小田急線代々木八幡駅を跨ぎ、井の頭通りとの交差点を東に転じ、代々木公園、NHKの横を通り改築なった渋谷区役所を経て渋谷駅に向かって行く。

 在所に来てそれほど経ってないある日、バスの車窓から外の景色を眺めていたら、木立の中に、まんまるな窓を付けたコンクリート造の建物がチラと見えた。(何だあれは?) 意識が向いた時には、バスは遥か先…。
 それから何度かバスに乗るたび、その建物を探しては見えず、ボーっとしていたら目に留まって慌てたりして、ようやくバス停「初台坂下」の近くにある確信を得る。
 総督府から歩いて行けぬ距離では無い。カメラを持って現地に行き、屋敷裏の高台の下に立つ。バスで通り過ぎたときには凄い建物だと思っていたのだが、立ち止まってじっくり眺めてみると、「丸窓」に騙されていたようで、建物自体は面白味のないハコにしか見えない。ファインダーから覗いてみれば、遠いし木立に囲まれているしで「画にならない」。1枚2枚撮って引き揚げてしまう。
 大したモノではない、と結論づけてしまえば、バスの窓から血眼で探すこともしないし、見えれば軽く目で追うくらいになる。気が付くと建築工事の囲いが出来ていた。

 建物があったことを忘れそうになった頃、立派なマンションが出来上がる。冴えない建物だったが惜しい事をしたなあなんて思ってそれっきりになるはずが、ある休日、初台駅の南口から代々木八幡前に至る坂道―「初台坂」、商店街でもある―を歩いて来て、ここいらに建物があったんだよな、と気付く。
 古びたスタイルの建物があるなぁと近寄って見れば、例の丸窓物件である。


左側の建物がそれ

 建物と山手通りの間にマンションが出来たため、バスからは見えなくなってしまったのだが、建物は残されていたのだ。


丸窓の部分がバスから見えていた

 トーフ、あるいはカステラを無造作に切った、良く云えば質実剛健、普通に云っても趣味に欠けるスタイルである。丸窓が無かったら誰も目に留めないと思う。丸窓はともかく、下の窓の位置はアンバランスだ。


画になりづらい建物なのだ(笑)

 名建築とは云い難いこの建物、三宅雪嶺の「書庫」だったもの。
 三宅雪嶺(本名雄二郎)は、幕末の万延元年(1860)生まれ。明治中期の自由民権運動に関わり、当時の欧化政策を批判して国粋主義を唱え、昭和20年(19451945)敗戦の年の11月に85歳で没するまで、第一線の言論人としてあり続けた人だ。
 「帝国大学」になる前の「東京大学」で哲学を学ぶ。当時―明治10年代―の東京大学で哲学を専修したのは、16年卒業の三宅以外には、13年卒業の井上哲次郎―東京帝国大学文学部哲学科教授となる―、18年卒業の井上円了―東洋大学の前身「哲学館」を創設、「妖怪博士」としても知られる―の三人しかおらず、講師一人・生徒一人の講義を受けていたと云う。大学を出たあと、「哲学館」の講師をしていた時期もある。
  「戦時宰相論」を書き、東條英機の逆鱗に触れて捕縛され、釈放後割腹した中野正剛は娘婿で、近所(代々木本町)に住んでいた。

 上の記述で参照した、人物叢書『三宅雪嶺』(中野目徹、吉川弘文館)はこう記す、

 (略)権力や財力に一切おもねることなく常に主宰する雑誌を維持し、あくまで個人として時代社会と対峙して課題を発見し、それを議論として読者を介在させて投げ返す。そのような言論活動を通して時代社会を彼の考えるよりよき方向に導いていく、そうした営みを死の直前まで全うした(略)

 読者諸氏は、エライ人だったところだけ認識していただければ良い。
 雪嶺は、昭和7年8月より、野依秀市―個性ある出版人として知られる―が主宰する『帝都日日新聞』に、隔日でコラムを連載するようになり、その1年分が1冊として逐次書籍化される(『三宅雪嶺 異例の哲学』鷲田小彌太、言視舎より)。そのひとつに『初台雑記』(秀文閣書房、昭和11年)がある。初台は雪嶺が住んでいたところで、つまり「書庫」が現存している場所だ。
 吉祥寺の古本屋でこの本を見つける。雪嶺の書庫が今もあり、所在地の「初台」を表題にした本がある。書庫と本を一枚写真にすれば、これはネタになるぞと買い求め「序」を読む。

 (略)帝日社(註:帝都日日新聞社)から『初台雑記』ではどうかとの話があり、余り結構とも覚えず、結構ならばオケッコウ、オケッコウは烏骨鶏即ちオコツケイの転訛、コッケイからケッコウが出るならば、それでも結構と云うもの。
 『初台雑記』とは自分が初台町に居るので題名となったとし、内容は何処に居っても替わりようがなく、初台町と少しの関係がない。(略)

 箱付きとは云え、3千円払った出先の足払い。ドウと転んでドーしたものか。写真一枚に本を写し込むのも、現地で試してみたがイマイチで取りやめる。
 一通り読む。イタリアのエチオピア侵攻や、2.26事件の始末、選挙や政党人事などのコラムが並ぶ。総督府のある十二社(じゅうにそう)が散歩の行き先になっていて、防空演習のとき暗闇でボート遊びをする者がおり、料理屋で盛り上がっているのがあると記した記事も見つかる。自分が歩いているこの道が、雪嶺先生も歩いていたやも知れぬと思えば愉快だ。

 今回はその『初台雑記』の一編をご紹介する。タイトルは「運動碁」。
 例によってタテのものをヨコとし、仮名遣いなどを改め、踊り字は元の文字に(やりたくはないが)替え、読みやすさのため行あけも追加してある。
 エライ人が書いた文章である事を念頭に置いてお読み頂きたい。
運動碁
 五十幾年も前、自分が頻りに碁をうった頃の事、自分は碁に関して二つ考えた。第一は碁石の円形より思い付いたもの、即ち一個の円形を完全に囲むに四個の円形で足らず、必ず六個を要し、即ち碁盤を六角にすべしと云うのであって、これは職人に誂えて直ぐ出来上がったが、さて愈々囲碁するとなると、余りに早く終結し、一向に面白くない。碁は円で円を囲むと見え、実は円で円を囲むのでなく、「四面楚歌」とか、「四面敵を受く」とか云うが如く、仮定的の「四面」であって、石を四角にしても、三角にしても、瓢箪型にしても差支無い。六個の円で一個の円を囲むとの自分の案は、幾何学に囚われ過ぎた。

 第二は運動不足より思い付いたもの、即ち自分等は平素読んだり書いたりし、謂わば坐業に属して居り、それが閑を得て更に何時間か碁盤に向かっては、どうも運動を欠くと云うのであって、そこで考えたのは碁盤を八畳敷大にし、又は更に幾層か大きくし、砲丸大の碁石を運搬しようとの案であった。これは適当な場所がなく、設備も一寸やそっと出来そうもないので、その儘になった。然し此の方は設備の問題であって、碁の実質に触れず、設備さえ出来上がれば、囲碁の趣味を充たし、併せて身体の運動を遂げることになる。

 囲碁は静粛に端坐し、パチリパチリとうつ所に妙味があると思う者が相応に多く、老人は一般にそうとすべけれど、碁を好みながら運動不足に困る者も少ないとしない。端坐も悪いことで無く、悪いどころか、力を丹田に入れるの効能あるにせよ、いつもそわそわした人にこそ端坐も結構なれ、机に向かうことが多い上、更に碁盤に向かって端坐しては、聊か面壁九年に類似し、身体に異状を及ぼすを免れない。誰にでもと云う訳でなく、パチリパチリ好きな者はパチリパチリするとし、身体を動かしつつ、砲丸大の石を運びたい者に其れ相応の道を開いてはどうか。

 自分は口授するにも立って歩くことが多く、遊戯にまで足の痺れを辛抱して居れず、坐って遊ぶ代りに散歩することにし、それで碁は笊碁に止まり、碁を打とうとも思わなかった。今「運動碁」でもなけれど、小さいのは八畳敷大にし、熊手のような物で石を置き、大きいのは百メートル四方、又は一層大きくし、その上を歩いて石を運ぶことにしたならば、遊戯と運動とを兼ねることが出来そうに考えられる。パチリパチリの連中は聞いただけでも顔をしかめようが、新興国を背負って立つの意気込があり、老人本位の碁を青年本位に改めようとするならば、広い庭園で大皿の如き石を運ぶも面白いではないか。
(昭和11、8、7)

 主筆の家には碁盤・碁石が無かったので囲碁を知らない。今しがた初心者向けの解説を読み、「碁盤の目」を誤って認識していた事を知り、密かに冷汗を流す。

 余談さておき、雪嶺の第一の「思いつき」を図示してみる。囲碁のルール、上下左右を囲むと相手の石が取れるのを、「四個の円形で囲む」と記している。

四個の円形で囲む(囲碁)

 「四個の円形で足らず」だが、白丸の間に白ひとつずつ入れれば、八個でスキマなく包囲が完成する。

八個で完全包囲

 それが二個少ない六個で完全に囲めると云うのだ。
 主筆の脳力は、タテ線ヨコ線の交点に石を置くことまでは解るが、六個で一個を囲めるような線を引くことが出来ない。
 ウォーゲーム世界でお馴染みの六角形のマス目(ヘックス)に置き換えてみる。

六個の円で一個の円を囲む

 こうしてやれば六個で囲めることは納得出来るが、線と線の交点がなくなってしまうと、「囲碁」にはならぬ。
 たぶん、線が交わる角度のあり方がポイントなのだろう。それを掴むべく補助線を引いてみる。

石の上に補助線を引く

 石の中心に線があるべきが、そうなってないのは、主筆の図がテキトーだからで、読者の目のせいではない。安心召されよ。
 六角マスには用は無い。

六角マスを消す

 碁盤を工夫してみた感じが出て来るが、これでは交点が多すぎる。各線は平行していないと交点がぐちゃぐちゃになって石が置けなくなるから、そこは維持する。横線を消したら元の碁盤目を90度廻したのと殆ど同じなので、タテ線を残してヨコ線だけを傾けてやる…

 碁盤の目には見えなくなってしまうが、黒を白六個で囲めるようにはなっている。タテ線が気になる方は首をかしげて見て下さい(笑)。

 「幾何学に囚われ過ぎた」とあるから、雪嶺は、囲む石の数から、線の角度を割り出しているに違いない。しかし主筆に数学をやれと云うのは、死んでこいと云うに等しいので、これ以上のことはやらぬ。雪嶺が誂えさせた「碁盤」は、こんな盤面だったかも知れない、としておこう。
 自分は囲碁をやらぬから、これで本当に早く決着がつくのか、語る言葉は無い。

 第二の思いつきは、囲碁をやりつつ身体の鍛錬もやろうと云う欲張ったモノだ。その名も「運動碁」。
 「砲丸大」―重さもそれに匹敵するのだろう―の石を用いる。碁盤も「八畳敷」と云うのだから総督府より広い。ゲームの準備をするだけで疲れてしまいそうだし、碁盤をひっくり返して勝負をうやむやにする事も出来ぬ。碁石ひとつでも、アタマの上から落としてやれば血の雨が降る。「熊手のような物」で石を置くとあるが(バクチ場でチップをかき集めるアレ)、石が乱れてしまわないか? そもそも、置いた石は動かしてはならぬ―石を取る時は別―のではなかったか?
 石を重くするのはかえって健康を害する虞がある。しかし碁盤を拡大し、その上を歩き廻って(それほど重たくはない)石を置くだけなら、その間に手足を伸ばしたり出来るし、ちょっとした散歩の代用にもなりそうで、「運動碁」の名にはふさわしい。

 碁盤の大きさは、縦1尺5寸(約45.55cm)×横1尺4寸(約42.55cm)が一般的とされる。八畳敷きは「京間」で3.82m×3.82mの正方形だ。江戸間なら3.48m×3.48m。京間八畳敷きに碁盤を置くと下図のようになる。

中央にあるのが、もとの碁盤

 盤面の隅々まで目が届かなくならないか?

 これが「庭園で大皿の如き石を運ぶ」、「百メートル四方」になると、碁盤の端なんか見えない(ウソだと思うなら、百メートル先に落ちている一万円札を探してみるが良い)。「百メートル四方」に「八畳敷き」を敷き詰めると下の図になる。


「八畳敷き」を百メートル四方に敷き詰める
(一辺あたり26。ただし半端は切り捨ててある)

 普通の対局なら八畳間ひとつで良いトコロを、650も占有してしまうのだ。「新興国を背負って立つ意気」なんぞ無いから、端から端まで「大皿の如き石」を置きに行くと想像するだけでゲッソリしてしまう。
 それで盤面が見通せないのだから、局面を一望するために、台に乗ったり、ハシゴに登らなければならなくなる。戦争で高台の取り合いをやり、気球・飛行機・ドローンが歓迎される理由が良くわかる。ゲームは、プレイヤー自ら動くのではなく、人に石を置かせる・人を石に見立てるように変質していくに違いない。こうなると運動は諦めて、局面が座ったままで一望出来る、普通の碁盤で対局するのが、準備も片付けも手軽で便利なのである。つまりは元の木阿弥だ。
 「囲碁」を優先すれば今までと変わらず、重いモノで遊ぶのなら、ボーリングかカーリングか、神社で苔むして久しい「力石」でも持ち上げる方が盛り上がるだろう。


 座ったままでやる遊戯と云えば、現代のテレビ・ゲーム(近々死語になりそうだ)、パソコンやスマホのゲームもそうだ。雪嶺先生的考えをすれば、コントローラーを重たく―ウラに鉛でも貼り付けてやる―すれば、腕相撲が少しばかし強くなるかも知れぬ。重りをはずせば「目にも留まらぬ速さ」で動けるヨーになるのがお約束だが、それでゲームが強くなるかは保証の限りにあらず。

 座業と運動をうまく結合する方法は、「動きながらやる」ところに収斂していく。雪嶺先生が今いたら、「ウォーキング/ランニングマシーン」「フィットネスバイク」をやりつつ、パチリパチリと一局やっているのかも知れない。
(おまけのおまけ)
 今回は参考資料を2冊使っている。人物叢書『三宅雪嶺』は2019年刊、『三宅雪嶺 異例の哲学』は2021年刊で、大きな新刊本屋に行けば、まだ並んでいるだろう(2021年9月現在)。

 人物叢書は、ウィキペディアの記述に飽きたらぬ人にはお勧めの読み物だ。例の「書庫」のことも書いてある。
 東京市建築技師であった長男が、昭和3年に建築現場で事故死したので、請負業者が建てたのだと云う。出来た時期は巻末年譜では昭和6年と記載され、本文には16年とある。15年3月『婦人之友』の紹介記事が言及されているので、本文は記述ミスだろう。16年では建材が手に入るまい。

 「異例の哲学」は、雪嶺の著作に何が記されているかを解説する本だが、覚え書き・控え帳・ノートと云うべき体裁になっていて、ふつうの本だと思って読み始めると、一度は投げ捨てたくなる「異例な本」である。そこを乗り越えると、雪嶺の本を古本屋・図書館で探さなくても良いヨーな気分になれる。しかし『初台雑記』を記した項に「運動碁」は出て来なかったから、あえて書き落とした些末な事がそれなりにあると思う。
 本書では雪嶺が「晩節を汚した」とハッキリ書いてある。
 先に読むなら人物叢書。どちらか一つ選べと云われれば、やはり人物叢書になる。

(おまけのついで)
 野依秀市の評伝、『天下無敵のメディア人間 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市』(佐藤卓己、新潮選書)が、表題を『負け組のメディア史―天下無敵 野依秀市伝』と改め、岩波現代文庫から、これを書いている最中に出た。文庫版あとがき、解説(平山昇)も加わっていてお買い得になっている。

(おまけの変節)
 アクセスカウンターが「千」動くところで一ヶ月なので、「○千おまけ」と称していたが、「兵器生活」いよいよ時流から取り残され、「負け組(ひとり)メディア」街道を邁進することになった。
 と云うわけで、今回は「5千5百おまけ」とならざるを得なくなる。更新サイクルが短くなる、なんてぬか喜びせぬよう申し上げておく次第。