「誘惑撃退術」で79万9千おまけ
本の山から、こんな冊子が出てくる。
モダン手ほどき
大正5(1916)年創刊、100年以上も続いている『婦人公論』の200号記念附録、その名も「モダン手ほどき」。昭和7(1932)年―90年前の―4月号の附録だ。
装幀はご覧の通り洒落ており、編集者は巻末で、
「モダン手ほどき」は時には正確な科学者であり、親切な医者であり、物分かりの良い小父さんであり、懐かしい学校の先生であり、お勝手を明るくする家政婦であり、快活なお友達でありあなたを更に若く美しくする美容師です。
と高らかに謳い(こんな人間関係が持てたらいいですね)、「あなたの前途を円滑にすることと信じて疑いません」とまで記す。しかし、「御飯のふけるのを待つ僅かな時間を利用して」読むモノで、「あなたの知りたい活きた知識が完全に把握できる」は自画自賛に過ぎないか。婦人の人生軽く見てないか。
掲載されている項目は以下のとおり。同類項をざっとまとめて記す。
モダン会話術 モダン表情術
訪問取次術 接客術
婦人求職術 職業婦人成功術 婦人商売繁盛術
夫婦円満術 恋愛成功術 見合成功術
スピート化粧術 美髪術 美爪術
家庭簿記術 モダン買物術 貯蓄利殖術
女中指南術 掃除消毒術 洗濯術
不妊症治療術 安産術 赤ちゃん健康術 優良児指導術 性教育術
贈答術 洋食食べ方術 婦人礼装術 結婚作法術
モダン若返り術 香水選択術 宝石選択術 ダンス作法術
誘惑撃退術
借地借家術 災難避難術
肺病征服術 性病駆逐術 ビタミン換算術
台所改善術 燃料経済術
家庭看護術 応急手当術 食品新古鑑別術
モダン室内照明術 家庭園芸術 愛犬術
簡易天文術 音楽鑑賞術 映画鑑賞術
手紙書き方術 新聞読方術
テニス上達術 野球観賞術 ラグビイ観賞術 水泳上達術
社交、就職、結婚、健康、家事、趣味、スポーツに集約出来る。これくらい知っておくべきと云う、編集者の意識が伺える。政治・経済・社会・文学に関する項は無いが、その知識が女性に不要と考えているわけではない。
「見合成功術」の中に、「時には鋭敏な社会観察といったもの、例えば(略)ファッショ(註:『ファッション』に非ず『ファシズム』『ファシスト』)の傾向といったもの(略)、新聞の市場価格や相場欄の見方くらいは知って」、また「新聞読方術」なら、「政治的経済的な大きな動きに一刻でも注意を怠ってはなりません」、「家庭にある婦人で、忙しくて新聞を読む暇はないなどと云う婦人は、進み行く時代と共に生きる資格がないと云わなければなりません」くらいの事は記してある。さすが婦人に向けた公論(口論に非ず)を表題にする雑誌だ。
各項の分量は新書の見開き相当だから、対象に深入りするレベルには至らぬ。ましてや90年も前の情報であるから、読む方が積極的に面白がらなければ駄目だ。
と云うわけで、今回はいちばん解りやすそうな「誘惑撃退術」をご紹介する。
一言にまとめれば、「相手にするな」。なら読むには及ぶまい。しかし視線の向きを改めると、「不良少年」が繰り出すあの手・この手が詳述されている、昭和初期のナンパ手法紹介記事でもあるのだ。
嫌がる相手にやれば犯罪行為として処罰されることは必定だし、上手くやってのける心構え、なんて事は記事の性格上載せようもないので実用性には乏しい。「兵器生活」記事に実用性を求める手合いは無いし、話のタネにはなる。
例によってタテのものをヨコにし、仮名遣い等を改めてある。
誘惑撃退術
一、握り 婦人のどこかに欠点があると、すぐ不良少年が初歩的誘惑の一手を須(もち)います。場所が仮に邦楽座だとすれば、暗い座席の隣りの青年の手が、そっとのびて、手を握るか、殊更にこちらに接近して、体重の厚みをこちらにまで感じさせるものです。これを握り、または触りというんです。こんなとき不必要な恐怖心を起こしたり、他を憚ったりして、黙って、手を弄ぶに任せて置きますと、もう後には引こうにも引かれない羽目に追い込まれますから、そんな場合は、一本平打ちでまいるほどの勇気をもたねばなりません。何しろ向こうが図々しいのですからね。処女のたしなみとしてそれはさし控えるにしても、つと立上がって、座席をかえるとか、チェッと舌打ちをして、握られた手をふりほどいて、甘くは見て貰いますまいという毅然たる態度に出ることが絶対必要です。
「欠点」は、現代なら「隙」と書くところだ。具体的にどんな着付けや仕草を指すのか?
『大正ガールズコレクション』(石川桂子編、河出書房新社)に再録された、「漫画家の見たる女学生」(藤本斥夫、『婦人世界』大正15年9月)に、
ご婦人のお行儀が日を追って破壊されていきます。(略)襟をキチンと閉めたのが、匂やかに、胸をY字形にあらわして(略)女学生にはあまりにはしたなく感じられます。とある。和装なら襟の閉じ具合、洋装なら足の見え具合、学校の風紀係が目を付けそうなトコロを思えば大きくはずす事にはなるまい。
不良のやってる事は、現代の痴漢をマイルドにしたヨーなものである(もっと酷い事をやっているかも知れぬが、つぶさに記すと風俗壊乱で記事が出せなくなる)。よって毅然と(相手・周囲にもわかるよう)拒絶するに限る。平手打ち(ビンタ)を張る勇気は必要だが、実地にやってはいけないと云う(安手のドラマの主人公になってしまう)。
「引こうにも引かれない羽目」とはドンナ状態なのが気になるところだが、それを綴る材料は主筆のもとにはない。当時の通俗小説・映画を集めれば、何かしらの解は得られる気はするのだが。そんなのを集めた読み物が―修士論文を手直ししたモノではないのが―ひとつ欲しいトコロ。
二、追いかけ ふと気がつくと、電車の中で、食入るように見ていた青年が、あるいは此頃では不良老年が、何げなく、しかし注意ぶかくついて来ることがあるものです。それが夜ならば一番近い交番に方向を転換することも一方法です。もし形勢不穏と察知したならば、どんな家でもいいのです。どんどん這入っていって、この家は、自分の親戚だぞと、いう表情をしてやることです。根気のよい彼氏も、これは油断ならないぞと退却を開始するでしょう。
後をついて来る怪しい者があれば、逃げるか助けを求める。現代と変わらない。この「不良老年」は何歳くらいをイメージしていたのだろう。人間齢55を過ぎると、こんなトコロが気になってならぬ。
三、語り 電車の中などで、婦人の動作や、表情を巧みに読んで動揺につれてすりより乍ら 「随分こみますね」とか「今日は少し遅かったですね」とか話しかけて来るとんだ社交的な不良があるものです 「ええ、ほんとうによくこみますわね」とか「遅刻しそうですわ」とか、気をゆるして話したら、誘惑の手に半分乗ったといっていいでしょう。こんなときは、吊革をもちかえて 世の中で一番苦いものを呑み込んだ時のようににがり切ってやるものです。
映画やイベントの開場待ちの列であれば、この手の会話はあっても良いと思う。もちろん「話が解っている」のが前提ではある。
四、打ち込み 名刺や、ラブレターを袂(たもと)の中に投げ込む不良があるものです。名刺は手に渡すもの、手紙は郵便に出すものと礼儀作法はきまったものです。それなのにこんな直接交渉をやる者は、下劣な性格と見ねばなりません。こんなときの手紙は、家族の誰かに渡すなり、火に投げこむなりしていいのです へんに自惚れて、返事を出したりすると、不良少年の方では、第二弾の手段に訴えて来るでしょうから。
携帯電話・スマーフォン全盛の当今、こんな手に訴える者がいるんだろうか、と思う。あえてやれば新鮮に受け取られるかもしれない(文章の出来映え次第だが)。下心あっての行為ではあるから、受け取った側は無視するに越したことは無い。
名刺は渡す、手紙はポストに入れる。当たり前の事が文字になっているだけなのに、改めて文章で読むと新鮮な印象がある。
五、足踏み これも電車の雑踏している時です。足をいやというほど踏んで「とうも、すみません」と気を引いて来る手があります。こんなときは簡単に「痛かったわよ」という意志を向うに通じればいいので、それ以上にやさしい眸まで送る必要は毛頭ありません。
草履履きの足―白足袋なんか履いている―をわざと踏む! 怖ろしくて自分には出来ない(笑)。
足を踏まれてもなお、やさしい視線を流せる人があるならお目に掛かってみたい。
六、躓き 不良少年の智慧は、実に小学生を大きくしたようなもので、滑稽なほど馬鹿馬鹿しい罠をかけるのがあります。婦人にぶつかるようにして、はっと体をかわすはずみに躓いて倒れるという凡そ手の組んだ誘惑過程をとることがあります。つまり同情させようというのです「あら、お怪我なさいませんでした?」と走り寄れば、その手をぐっと握らないものでもありません。こんなトリックは一目見ればわかるものですから、同情も人相を見てからなすべきです。
ひところ、駅の階段・通路で女性にわざとぶつかってくるオッサンの話がニュースになっていたが、それとは目的が違う。「不良少年の智慧は(略)小学生を大きくしたようなもの」とは、なかなか手厳しい。しかし「同情も人相を見てから」と、「道でぶつかって始まる出会い」そのものは否定していない。これは編集者の願望か?
七、お尋ね 「もしもし このへんに××ってお家ありましょうか」などと、出来るだけ、ありそうな家の名を尋ねる若い男があるとします。「さア、よく存じません」の、不愛想な巨弾を放って、彼等の手に乗ぜないだけの聡明さがありたいものです。
「無愛想な巨弾」は、少し前の云い廻しで云う「塩対応」あたりか。
八、プログラム 映画館の切符売場の前にいて、売切れではいれないで困っている婦人に「切符が二枚あるのです。友だちが来るといって来ないんです。失礼ですが、さしあげましょうか」と羊のようにやさしく出る飛入りの親切者があるものです。実は狼のような…、もちろん「折角ですが」と断る手よりないでしょう。
下心なくて誰が余計にチケットを買うものか!
邪な想いの見え見えなタダ券と、ダフ屋・転売屋の暴利を呑み込むか、悩ましいところである。動画配信もビデオソフトも無い時代の話だから、そこに出かけて観るしかないのだ。
なお、「下心」は、チケットを渡す相手に向けるものと、興行・制作をしている側を力づけるものとがあるので、一緒に観るのを迫られなければ、もらってやれば人助けになって、良いと思っている。
九、落ちます 櫛や、ヘアピンや、甚だしいものになると、袂からハンカチの落ちそうなのまで「落ちます」と、猟犬のように近づく不良があります。またその逆に
一〇、有難う 蟇口か何かを、その婦人の前を歩き乍ら、わざと落として、拾って貰い「有難うございました」といって、交渉しようという支那人のよう狡猾な不良もいます。そんな蟇口に限って紙幣のかわりに、新聞の切れっ端か何かあるものです。そんなものを態々拾ってやる親切なんて要りませんよ。
下心無し、ほんとうの親切心から声をかける人が、当時皆無だったとは思われぬ。わざと落としたのが分かるのなら、無視してかまわないだろうが、忘れ物で痛恨な思いをした我が身としては、声のひとつくらいかけても良いぢゃあないかと云いたい。
こうして「身持ちの堅い」、「悪い虫が寄りつかない」娘さんが出来上がる。それが親・親類の持ち込む見合い話にホイホイ乗せられ、アッサリ結婚してしまうのだから、世の中面白い。
(おまけのおまけ)
冊子の裏面は広告になっている。
状態が悪くて申し訳ない。化粧品の広告だ(下記引用文のカッコはルビを表す)。
マスター五百番衿白粉の濃肌色(こいはだいろ) いよいよ発売
処女美 おっとりと高尚な処女美の完成に マスター衿白粉の新肌色(にくきいろ)!
成女美(せいじょび) ぱっと生き生きはつらつな近代(モダーン) 美の素はマスター水白粉
自然美(スマートび) ほんとにスマートな自然(スマート)な美は マスターの濃肌色(こいはだいろ)の持つ力
「恋肌色」と記せば、1980年代後半の広告でも通用する気がする(どんな色になるのやら)。
「処女美」「成女美」が、どう云う女性美を指すのかは、今日では知るすべも無いが、想像の余地があると前向きに捉えておきたい。
さきに孫引きした「漫画家の見たる女学生」では、女学生の和装は(略)とき色の襟が、ハートの躍動をキリリッと締め付けて、袴が高くお乳の三分の一がとこ食って高く締め、長いたもとに風が踊っての軽快な格好なんぞは、さすがに日本歴史二千五百有余年が洗練した、(略)実に巧みな具衆美です。それが処女の肉美を相まってまたとない光輝です。なんてことを書いている。「処女美」とは、仏教美術の天人みたいな、細く締って躍動感ある姿を云うのだろう。
「自然」に「スマート」と振り仮名を付けるセンスは強烈だ。しかしコピーの同一文中に「スマート」を二度使うのは、スマートとは云えない。締切に追われて見落としたか?
(おまけの余談)
「誘惑撃退術」を実践する娘さん、を想像していたら、昔テレビで観た、公共広告機構(ACジャパン)「ツンツン娘」を思い出してしまう。あれも鬼さん恐ろしさにアッサリ愛想良くなるお話しでありました。
リンク先はACジャパンのページなので動画はありません(笑)。そのページにアニメーターの名前が載ってないのは不親切だと思う。こう云う良いアニメーションが「詠み人知らず」になっていて、アニメ大国は無い。