人に人格、国に国格

東條英教「国防とは何を為すことか」の続きで80万1千500おまけ


 帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号掲載、「国防とは何を為すことか」(東條英機の父、陸軍中将・東條英教)は、当時唱えられた「海軍で国防は全う出来る」、あるいは「朝鮮半島の北端に防衛線を張れば、日本は安泰だ」と云う国防論を、浅薄幼稚なモノと批判、真の国防について説くものだ。文章は冗長、同じことを何度も述べるものだから、とても一回では紹介しきれない。分割してご紹介する次第。このページは二回目である。

 前回の内容を要約しておく。
 「防ぐ」には護る対象が必ずある。個人にあっては、その「生存」―生きて在る―だ。生存には「物質的」・「精神的」の二面があり、侵害もまた両面から行われるとする。「生存」を防禦するには、身体の防備では足りないと云う。「物質的侵害」は鎧甲(よろいかぶと)で防げるが、名誉・体面への「精神的侵害」に対しては、相手に報復し、謝罪を引き出せるだけの用意―力(ちから)―を見せることで、初めて相手を抑制でき、侵害を発生させない=「防ぐ」ことが出来ると云うのだ。
 これを前提として、東條中将の国防論は展開される。

 今回は、個人の防禦を国家に敷衍して論じる、「一、精神的侵害の防禦は出来ぬ」の部分である。例によってタテをヨコに、仮名遣いなど改め、ルビは最小限(かつカッコ書き)にしてある。

一、精神的侵害の防禦は出来ぬ
 凡そ、生存の意義と、これに対する人為的侵害の趣きと、又此の侵害に対する防禦の手段を考うるに、人類個々に於けると、国家に於けると、毫(ごう)も、異なるものではない。蓋し、人類に、人格の高下がある如く、国家にも、亦、国格の高下がある。而して、我が国の如きは、その国体から言っても、歴史から言っても、これを人類に譬うれば、極めて貴族的にして、又極めて崇高なる人格を有する者と等しいのである。随って、我が国が、自己の名誉を重んじ、体面を貴ぶこと、宜しく、貴族、又は、崇高なる人格のそれの如くならねばならぬことは言うまでもない。それ故、我が国家の生存という意義は、是非とも、物質的及び精神的の両方面を包容せねばならぬことが、明らかである。

 人に人格の高低があれば、国家にも「国格」の高低があるのだと云う。
 会社などの組織を「法人」と称し、契約行為の主体と捉える考え方は(漠然と)知っている。「日本は」、「アメリカは」、「中国は」、など国家を一人の人間みたいに、その善し悪し・性格を語ることはある。世界各国それぞれ、経済・文化・軍事等々分野によってレベルの違いがあるらしいと感じてもいる。しかし、そこに「高下」を感じるのは、論者に身分制の意識が抜けてない印象がある。先進国・後進国、文明国・未開国と分別するのと同じではないか、と思われる読者もおられるだろうが、「高下」(高低/上下)と露骨に表現するのとは微妙に違う。
 日本の「国体」は崇高であるとは、「愛国者」が好んで語ることではある。だが、貴族的とまで云われると、日本から貴族が消えて久しい今日では、むしろ厭味に聞こえる。
 日本が、「貴族、又は、崇高なる人格のそれの如くならねばならぬ」のは、国家の理想、向かうべき方向として捉えるべきなのだが、それを現在の状態と思ってしまうと危うい。名誉・体面は行為・待遇どちらにも関係するが、後者ばかりを考えていたら、もっと危うい。

 而して、既に人類個々に就いて得たる侵害及び生存防護に関する結論を、今、国家の上に拡張して考うることとせんか、凡そ、国家が、完全なる意義に於ける生存(国土及び国土上に存在する物件と、名誉、体面との保存)を防護せんと思わば、例えば、侮辱者あらば、先ず樽俎(そんそ)の間に交渉し、若しも、対手にして謝罪することを肯せざらば、進み撃ってこれを屈服せしめ得べきほどの積極的用意を有することが、必要であって、彼の人類が単に、堅甲を被り世を過さんとすることの、完全の意義に於ける生存を保つ所以にあらざる如く、国家も、亦この堅甲に類する設備のみに依って、完全なる生存を保つことの不可能であることを知らねばならぬ。
 而して、尚、この必要は、人類個々に於けるよりも、国家の上に於いて、一層、緊切である。何となれば、人類個々の上には、その生存を保護する所の政府の設備があって、幾分か、その効力を及ぼし、仮令(たとえ)、本人が自己の精神的生存を防護すべきほどの力を有せざるも、例えば、名誉回復の訴訟をも起こし得べくして、即ち生存に危険を蒙ることの甚だしからざるべきに反し、国家の上には、全く、斯かる保護を欠き、乃ち、国家は、絶対的、自らこれを防護するより外、他に依るべき道なきが故である。

 個人の生存防護の話が繰り返される。「樽俎(そんそ)」は(酒食をともなう)宴席の意味。まずは交渉して相手に謝罪を要求するが、通らなければ力攻めで屈服させ、「生存」をまっとうさせる用意の必要を説く。
 個人が、国内在住の相手に謝罪と賠償を求める場合、文明国であれば警察・裁判所などが後押ししてくれる。しかし、国家をバックアップしてくれる国は無いので、どうしても自らの実力に頼るしかないと云う。当時は国際連合どころか国際連盟も無いから、こう云う考えになるのはやむを得ぬところだ。

 今や、吾輩は、此に、尚、一歩を進めて、本論の表題たる「国防」という働きの目的に論及し得べき機会に到着したのである。さて、ソコで若し、世の論者が、国防の目的は、「敵に、国土及び国土上に存在する物件を、奪取、又は、蹂躙せしめざるに在るのみ」と言わば、吾輩は、只、その見地の卑低狭少なるを笑って止むより外はない。否、吾輩は、笑って止みもしようが、国家の名誉と体面とを放棄して、これを防禦圏外に置くが如きは、取りも直さず、国家生存の一半を放棄して、顧みぬに当たるのであって、斯かることは、怖らく、一般の道理がこれを許すまいと思う。即ち、国家が、或る他の一国から、凌辱せられた場合に於いて口舌のよく、名誉と体面とを回復し得べきにあらざる以上は、武力に依ってこれを回復し、又は、最初より武力に依って斯かる凌辱を未然に予防することは、天地自然の道理がこれを要求するであろう。縦(よ)しや、今日、世間に流行する国防論者が、如何に、巧みに、牽強付会するも、このことを取って国防圏外に放棄せんと、曲論するが如きことは、乃ち、徒労なる企図であって、怖らく、そういうことは出来まい。
 それ、既に、国家の名誉と体面とを防護することを国防圏内のものとし、即ち、国防とは、武力に依って、国家の完全なる生存(物質的及び精神的両方面に於ける)を防護する働きの謂いなりとせんか、又、一方に、国家に対する凌辱、即ち、精神的侵害が、嚢(さき)にも言った如く、必ずしも、国土に対する物質的侵害と共にのみ至るものにあらずとせんか、彼の辛うじて、国境の地形に拠り、僅かに、敵の進入を支うることを目的とする少許(すこしばかり)の陸軍や、国土周囲の海上を遊弋する艦隊が、果たして能く、国家の生存を、如何なる場合にも、防護し得るであろうか。蓋し、物質的侵害を防禦することは、或いは、これに依って全(まった)かり得べきも 所謂精神的侵害は、決して、この手段に依って、防ぎ得るべきものではない。これが為には、国家は攻勢的動作に出でざる可らざるものであって、このことは、嚢に人類個々の生存防護に就いて論じた趣旨と毫も異なるものではない。

 国家の範囲を、国土・国民とその財産(カタチのあるもの)と捉えるか、名誉・体面(カタチのないもの)まで含むのか?
 東條英教が、どっちの見解にあるかは云うまでもあるまい。名誉・体面までも国家に含む以上、侵攻軍を国境外に押し返すに留めたり、海軍力で外敵の侵入を阻止すれば良いとする専守防衛論は、国を半分失うに等しいものと否定するしかない。「精神的侵害」には無力である。相手国まで攻め入り、名誉を回復させる「攻勢的動作」までやれるだけの軍備がなければ、諸外国からの「精神的侵害」を防ぐことは出来ない。外国に侮られぬだけの軍備充実を希求せざるを得ないのだ。
 「天然自然の道理」が要求する、とは云え、なんと面倒なモノではありませんか!
 体面が損なわれれば謝罪を求め、受け入れられぬと見れば、ゲンコツに訴えねば、さらに体面が傷つくのだから、貴族などやるモノではない。庶民階級の主筆は、そう思う。

 国家における「名誉」・「体面」とは何か? 東條中将は、論を個人から国家へ拡げるにあたり、個人に用いられる「体面」という言葉が、国家に対しても使えると思っているので説明は無い。だからこちらで考えてみる。

 ネット辞書(コトバンク)を引くと、名誉は、
 「人の才能や特定の技能などに関するすぐれた評判。よい評判を得ていること。」
 「個人、または集団の人格に対して、社会的に承認された価値。また、それに対する自覚。」
 といった説明を載せている。そして体面は、
 「外から見える様子。体裁(ていさい)。ありさま。姿。」
 「世間に対する体裁。面目。みえ。世間体。」
 などを挙げる。ちなみに「体裁」は、「外から見たときの感じ。様子。外観。」、「他人から見られた時のかっこう。みえ。面目。」などある。
 名誉は評判・価値。体面は外観、外から見える姿としてみよう。個人で考えれば納得出来るが、国家に拡張すると、名誉はともかく(個人や団体に向けられたそれが、国家に向けられる)、体面を具体的に思い浮かべるのは難しい。先進国会議の記念写真に指導者が並ぶ位置、壮麗な首都の街並、規律正しく行進する観閲式の軍隊、国土の自然美、GNP・GDPなんて指標(低くなってしまったようだが)、その要素を挙げることは出来ても、国家の体面と呼ぶにはしっとり来ない。
 むしろ国家の体面が傷つけられる(と見なされる)場合を考えた方が良さそうだ。

 ・他国に攻め込まれ国が滅びる
 ・自国領土の一部が他国によって占拠される
 ・他国から国政の指導を受けなければならない
 ・自国で罪を犯した他国人を裁くことができない
 ・役所、企業などの要職に他国人を就けねばならない
 ・関税を決められない。徴収できない。
 ・国の要人が他国人に殺傷される(第一次世界大戦の原因であり、『大津事件』では時の政府が狼狽している)
 ・自国民が、その国籍を理由に他国から迫害・排斥される
 ・国際機関から排除される
 ・国際的な交易から締め出される
 ・オリンピックなど国際的スポーツ大会で国の代表が敗れる(実力が無ければ仕方ないのに、そうは思わぬ人が少なく無い)
 ・自国の文化財が他国人によって故意に毀損される

 「外国で、自国を(根拠なく)悪く云う言説が出回る」は、名誉の毀損だからはずす。「国が滅びる」や「自国民への迫害」、「文化財の毀損」は、「物質的侵害」そのものだが、その結果体面が損なわれるから残す。
 ざっと書き出してみると、半分以上は歴史の授業で習った、「不平等条約」、「日韓併合」、「対華二十一ヶ条要求」等の説明に書いてある気がしてきた。「国家主権の喪失・制限」と「自国民への迫害」ですか(汗)。
 どれも戦争の原因になりうる(敗戦・占領は結果だが、次の戦争を準備する可能性がある)。戦争反対の主筆にしてみれば、危ないったりゃあない。
 日本の政府は、幕末から「条約改正」まで、よく堪え忍んで来たものだ。「崇高なる人格」だから、世界相手に戦争して勝てる見込みが無いで自重していた、と云えば格好が良いが、なに攘夷に失敗した連中でこさえた新政府だもの、自制は効く。必ずしも戦争になるわけでは無い。

 世界相手には戦えないが、隣の国ひとつだけなら…。
 東條は、「一、二大国防戦が如何なる場合に起こりたるかを回想せよ」と日清・日露の戦争役を語り出す。

 次回につづく。
(おまけの考え直し)
 「国家への精神的侵害」を考えているとイヤな気分になってくる。
 日本を、人類にたとえれば「貴族」・「崇高な人格」だと臆面もなく記すところは、笑ってしまうトコロであり、この記事をテキスト化している原動力なのだが、個人として、自分の名誉・体面はともかくとしても、信条に殉じるべきか節を曲げ生存を図るかの選択を迫られたらドーするか、なんて普段は考えてもない事に向き合わざるを得ない。
 戦争は、自国の領土拡張や経済発展のため行われる―私利の追求で―認識でいたのだが、名誉・体面のために行う場合もあり得ることが、否定できなくなって当惑している。

 主筆は、国家を国民の集合体と捉えている。国民があって初めて国家が成立すると云う考え方だ。だから東條の論は誤っているとは云わぬが、古くさいとは思っている。しかし、明治の人―明治時代に働いていた人達―の多くは、自分のように戦後民主主義的な認識を持っていたのだろうか? 彼のしつこい文章を書き写し、記述のひとつひとつを読み、ツッコミどころを探しているうちに、当時の人々が思う国家は、上から下りて来たに等しく、体面同様、精神的なモノだったのでは? と考えが変わって来る。

 そして「物質的」・「精神的」生存を自明のモノとする考え方は、江戸時代の身分制度が、当時の人々の中に、色濃く残っているトコロから来ている可能性も考えなければならない。
 先日読んだ『お白洲から見る江戸時代』(尾脇秀和、NHK出版新書)は、時代劇でおなじみの「お白洲」の実態を説き明かす面白い本だ。
 時代劇では、奉行がいる座敷の下、白砂利を敷き詰めた庭に、善人悪人揃ってお裁きを受けているが、実際に砂利に座るのは、農民・町人といった庶民で、身分が上である武士や坊主などは、建物の縁側に座るのだと云う。奉行所―公儀―は、「どこに所属する(どこの管轄を受ける)如何なる地位の個人か」を見て、「お白洲」で座る場所を「差別」して、身分の「見える化」を行っていたのだ。
 縁側に座る身分の人が罪状アリと拘置が決まると、「足と腰とを捕まえ、後ろ返しにして砂利に引き下ろした」とある。被疑者は、「その不意に驚き、狼狽せざるものなく、実に気の毒にてあわれ」なものであったと紹介されている。身から出た錆とは云え、これぞ「精神的侵害」だ。
 身分制の世界(世間)では、その身分―衣食住・立ち居振る舞いまで―を含めて、「自分」であると認識していたのではないか? そうなると、東條英教が述べる人類(人・個人の意味でこの語を使っている)が「物質的本体」・「精神的本体」から成り立っている認識を、変だと切り捨てるわけに行かなくなってくる。