東條中将「国防論」その5
帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号掲載、「国防とは何を為すことか」(陸軍中将・東條英教)再録の五回目です。
東條英機のお父上
「海軍だけで国防は全う出来る」、「朝鮮半島北端に防衛線を張れば、日本は安泰」と云う国防論を一蹴、真の国防(東條さんの見解である)を語るもの。
論文の見出しで振り返ると、以下の通りです。
一、浅薄幼稚の国防論は国家の生存を危くす
一、国防は物質的防禦と精神的防禦がある
一、精神的侵害の防禦は出来ぬ
一、二大国防戦が如何なる場合に起りたるかを回想せよ
一、専守的防禦でなく攻勢的防禦をせねばなるまい
今回は、「一、協商に信頼して武力を減ずるは誤りなり」のくだり。読者諸氏の便宜のため例の表記改変を施してあります。原文引用の青文字が連なり、やってる主筆も正直くさっておりますが、これが終わらないと次のネタを投じる気分にならないので、モーしばらくおつきあい願います。
一、協商に信頼して武力を減ずるは誤りなり
併しながら、論者(註:東條サンではありません)は、元来、日露協商の存ずる今日に在っては、日露両国間に於いて、最早葛藤の起こるべき謂われなきものであるとの見地に居る人であって、陸軍削減説も、亦、此に胚胎して居るのである。で、吾輩は、又、聊(いささ)かこのことに論及せざるを得ぬ。
抑(そもそ)も、日露協商の紙片が論者の言う如く、信頼され得べく、随って、将来、日露の開戦が絶無なるべしと信じ得べきものならば、朝鮮北境の守備の為、六、七個の師団を養うことも、亦、不要であると思われぬでもないが、それは、先ず、別論として措き、吾輩は、本来世間の協商とか、協約というものに、論者の如き、厚き信頼を置きかねるものである。思うに、斯かる見地に立つ者は、この論者に限らず、今日、世間に多いようであるが、吾輩は、何故、斯かる児戯に等しき所説が、堂々たる国士の口より出ずるかを知るに苦しむ。
日露戦争のあと、日露協約が1907(明治43)年成立する。以後1916年まで4次にわたり協約は結ばれ、日露ともに第一次世界大戦でドイツと戦うことになる。そう云う関係になったのだから、もう、(対ロシアの)軍備を減らしてもいいんじゃあないの、と云う論を東條さんは「児戯に等し」いと否定する。ロシアと日本双方が信頼しあい、戦争をやらないと信じられるのなら、それも良いだろうとは云うが、このヒトは国家間の協商・協約と云うモノを信用していないのだ。
抑も、協商又は協約と称するものは、二国、若しくは、敵国が、互いに対手国の武力に畏憚する所あってこそ始めて、成立するものではないか。太古堯舜の世ならば、イザ知らず、苟も、今日、国際上、名義は兎も角も、その内心に於いては、徳義全く地を攘い、只、利これ逐うの世の中に在って、己独占し得べき利益を取らずして、これを武力上憚りもせぬ他の一国に分かつ為、進んでこれと協商せんとするが如き好意を有する国があろうか。
現在の国際関係に徳義は無い。取る機会があれば取りに行く。それを躊躇させるものは、相手国の武力の強さだけとの認識を示す。こっちが独占できるもの(それがよそ様の土地なのがオソロシイ)を、なんで他国にお裾分けするヤツがあろうかと云うのだ。その上で「満洲の利権」を得た、日露の戦争を振り返る。
見るべし、明治三十七、八年の戦役以前に於いては、満洲の利権に関して、日露の間、何等協商の存ずるなく、露国は寧ろその利益を独占せんとしつつ在ったのであるが、この戦役を纏めるに及んで、露国をして我と協商するに余儀なからしめたることを。
これ、この戦争以前に於いては、露国は、我が日本の武力を侮蔑して、憚る所なく、而も、戦後に於いては、過去戦役の経験に徴し、我が武力の軽んず可らざることを悟り、随って、これに対して憚るの心を生じたのであって、協商締結の如きは、乃ち、その結果なることは明らかである。怖らく、この協商が、露国の好意に由るものとは、三尺の児童と雖も思うまい。
ロシアが日本と協商関係となったのは、日本と戦って、その武力侮り難しと認めた結果。好意でも何でもない、そう云いきる。余談だが、東條さん、「三尺の児童」を使うの好きだよなあ…。
相手を憚らせるに足る武力が無いとドーなるか?
今日、殆ど武力の見るべきものなき支那、又は、波斯(ペルシャ)に対する露国の挙動は如何(どう)であるか。今日、憐れむべき彼等両国をして、苛酷横暴なる要求、提議に泣かしめつつ在る露国も、我に対する露国も、同一露国なることを吾々は一日も、忘れてはならぬ。
ペルシャ(イラン)、中国を見ろと云う。先方の武力劣れるのを良いことに、取れるトコロを取りに出ているではないか、それがロシアと云う国なのだと警鐘を鳴らす。
それ、既に、協商、協約が、互いに相手国の武力に畏憚する所あって成立し居るものなることを知らば、若しも、その一方の武力の減損に由って、この権衡の破れたる暁には、この協商、協約は最早存立せざるか、又は、仮令、形式に於いて尚、僅かに、存立するも、毫も、効力なきものと化し去らんことは、火を見るよりも明らかであろう。
要するに、協商、協約の如きものは、国家武力の産む所にして、国家が常に武力を培養することは、即ち、此等契約紙片の効力を維持する所以である。彼の弾丸が戦時に於ける国防上武力の発顕なる如く、協商協約の如きものは、平時に於ける国際上武力の発顕である。
協商・協約が、双方が「手ぇ出したらヤバい」と思うだけの武力に裏付けられている、のであれば、そこが怪しくなれば反故も同然と考えざるを得ない。
帝政倒れ社会主義共和国連邦となった国と結んだ中立条約は、帝国日本を作り上げた武威が、かえって国を危殆に陥れたとき、紙クズ同然となった。かの国は、取り戻すべきトコロを取り戻し、取れるトコロを持って行き、取れればラッキーと欲しがったトコロは、さすがに差し止められたのである(笑)。
尚、一の比喩を設くれば、協商協約の武力に発することは、恰(あたか)も、樹幹が樹根から発して、生育しつつ在るものの如くであって、又、国際間に、此等契約が、効果を呈し、依って、以て、平和を保ち、且つ、双方の国民が各自相当の利権に浴すしつつ在るのは、恰も、その、樹木の枝葉が、繁茂し、花を咲かしめ、実を結ばしむるが如きものである。
然るに、今、人あって、樹木の繁茂し、花咲き実成るを見、この勢いならば、最早根を絶つも可ならんと言わば、聴く者、誰が、呆然たらぬであろうか。而も、今日、「日露の間に協商の存するあり戦争の起こることは、万なかるべし、故に、我はこの協商に信頼して武力を減ずるも可なりと」主張する者は頗(すこぶ)るこれに類する所がある。
「協商協約は武力に発する」
なるほど、三十年戦争がウエストファリア体制を用意し、世界大戦は国際連盟にヴェルサイユ体制を、第二次世界大戦が、今日の国際社会の枠組みを産みだしたとは云える。米ソ冷戦終結は直接武力(戦争)がもたらしたものではないが、ソ連がその武力に基づく「東側」秩序を維持できなくなったことを思えば、武力によるものと云えなくもない。
東條さんは、平和だからと武力を減らすのはもってのほかと云うが、平和な時に減らさずして、いつやれば良いんだと、平和教育で育った主筆は思ってしまう。
蓋し、論者(註:東條さんでは無い)は、斯くまで非常識な人とも思えぬ。諺に曰く「鹿を逐う猟師山を見ず」と。
怖らくは、これ、論者が、彼の大陸主義を排して、海洋主義を唱え、陸軍削減論を主張して、海軍拡張論を鼓吹せんとするの情に急にして 知らず識らずこの不合理の言を為すに至ったのであろう。若し、なもなくして、何等かの事情に駆られ、故意に斯かる曲論を事とし、牽強付会以て、国民を瞞着せんとするものならば、これ、予の甚だ取らぬ所である。
東條さん、「論者」の意見―「陸軍は、朝鮮の北境(鴨緑、豆満両江の沿線)の険阻なる地形に拠りて、敵の進入を阻止することに止め、これ以外の陸軍兵力は、不必要なるが故に、削減」する―を、「児戯に等しき」、「取るに足らぬ」とさんざ批判しておきながら、「海軍拡張論を鼓吹」するあまり、筆がすべったのだろうと度量のあるトコロを見せている。微笑ましい。
(おまけの余談)
ロシアはやっぱり信用できない、中国は危険だなど、床屋政談から「オピニオン誌」まで云い立てていますが、日本も未だ「カミカゼ」の国として、何をしでかすか知れたものでは無い、と思われているのではないでしょうか?
もちろん、主筆含め大概の日本人は、モーそんなエネルギーなんて無いですよ、平和ボケして戦争なんか出来ません、と思っていますし、「クールジャパン」なるモノで、その上書きをしていることも承知はしています。
平和を愛する道義の国、と思われたいのは山々ですが、よそ様がそう思うのなら、そこをうまく利用して無形の武力に出来れば、お金はかからないよなぁ…、とイヤな考えがアタマをよぎります。