「海軍全能的国防主義」は真正の国防にはあらず

東條中将「国防論」その6


 帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号掲載、「国防とは何を為すことか」(陸軍中将・東條英教)再録六回目。

 日本の国防は、敵を寄せ付けぬ強力な艦隊があれば充分。陸軍軍備は縮小すべき。このような国防論を「浅薄幼稚」と否定し、真の国防を論ずるもの。
 この記事は、

 一、浅薄幼稚の国防論は国家の生存を危くす
 一、国防は物質的防禦と精神的防禦がある
 一、精神的侵害の防禦は出来ぬ
 一、二大国防戦が如何なる場合に起りたるかを回想せよ
 一、専守的防禦でなく攻勢的防禦をせねばなるまい
 一、協商に信頼して武力を減ずるは誤りなり

 と続いてきた。
 国防には、国土を護る「物質的防禦」、国家の名誉を護る「精神的防禦」があり、どちらもこなせる武力が必要だとする。精神的侵害の予防は困難なので、何かあったら進んで相手国を攻め謝罪させる。それにより列国間での地位が確保され、他国から公然と無礼を働かれることがなくなると云うのだ。
 この考え方を現代にあてはめる。日本がアメリカにNOと云えぬのは、一度大負けに負け逆らったらヤバいと思っているからであり、北朝鮮が日本海へのミサイルの打ち込みをやめぬのは、日本が武力に訴えることが無いと見ているからだ。ご説ごもっともだが人類もう少し進歩しようぜ、と私は云いたい。
 今回は「一、海軍全能的国防主義は真正なる国防の目的ではない」を紹介する。例によってタテの文章をヨコにして、仮名遣いなどを調整している。

 一、海軍全能的国防主義は真正なる国防の目的ではない
 右の如く言えばとて、吾輩は、強ち、大陸主義者でもなく、これと同時に、又、海洋主義者でもない。只、吾輩は過度にこの両主義の一方に偏し、為に国防の正鵠を誤るが如きことを、擯斥するものである。
 抑も、今日、過度に、海洋主義に偏する者の常に口にする所を聞けば、曰く「四面環海の国に在っては、強勢なる艦隊があって、近海を制すれば、敵の一兵だも足跡を国土に印すること能わざらしむるものであって、乃ちこれ、国防の最上乗なるものである。若しそれ、斯くの如くならば、陸軍は怖らく一発の弾丸と雖も費やすべき余地なからん」と。
 吾輩は、常に、これを、海軍全能的国防論と名づけて心に笑って居る。併し、既に、本論の冒頭にも言った如く、斯かる議論は、最も俗耳に理解せられ易く、又、最も爽快なりとして歓び迎えらるべきが故に、有識の士に対しては、イザ知らず、天下の愚夫愚婦を首肯せしむるには、極めて適当なる議論である。

 優勢な艦隊を持ち、日本近海に睨みを効かせていれば、陸軍は不要に等しい、とする論を、東條さんは「海軍全能的国防論」とバカにしている。現代で云えば、核ミサイルがあれば他の軍備は不要、と主張するヨーなものか。今のところカゲもカタチもない日本の核武装とは異なり、日露戦争をともに戦い抜いたあとでの「海軍全能論」であることに留意されたい。以下に引くように、海軍関係者もそれを唱えているため、「陸軍中将」東條英教の筆は厭味の度を上げる。

 海軍全能的国防論者がその持論とする所を、我が日本の国防に当て嵌めて、これを世間に鼓吹する為には、「日本が四面環海の国である」ということは、最も大切なる主張の基礎となるのである。
 而して、海軍部内の或る高等の地位を占め居るこの種の論者は、日露戦争以前から怜悧にも、此に着眼し、この基礎の上に議論を築き上げて、頻りに、我が国の国防の海軍全能的ならざる可らざる所以を唱えて、以て、天下を風靡せんとしつつ在ったのであるが、生憎にも、この種の論者が、視て以て、大切なる主張の基礎とした日本の形勢が、三四年以来、動揺するに至ったのは、聊か、気の毒なる感がないでもない。蓋し、朝鮮半島の併有に依り、我が国が半大陸国となり、少なくとも、最早、純然たる四面環海国であると言い能わぬに至ったことは、論者の一大苦痛とする所であって、此に至って、論者の周章狼狽想うべきである。

 海軍万能論(=陸軍縮小論)の大前提は、日本が周囲を海に囲まれているトコロにある。それが朝鮮半島の領有により、支那・ロシアと地続きになってしまったのだ。「気の毒なる感」、「周章狼狽想うべきである」と記して、東條さんは「ザマァ見やがれ」と苦笑する。
 主筆は「苦笑する」と書いた。そこは「呵々大笑」とすべきトコロではないか? 話はまだ続くのだ。「陸軍中将」の筆誅は、追撃戦の様相を呈していく…。

 然るに怜悧なるこの論者は、今日、この形勢に於いても、尚、例の「四面環海説」を揮(ふ)り回し、以て、前説を満幅に固執し得る為、一の口実を案出して、これを、例の海軍全能的国防論の冒頭に添加して居る。即ち、近来、論者は、先ず我が国体の海内無比なるを説き、言を巧みにして、終(つい)に、我が国防の目的が、主として、本来の御領土を防護するに在ると説き落として居る。その言う所も亦珍奇であるが、コジ付けて此に至るまでの論者の苦心 誠に想うべきである。
 成るほど、所謂、本来の御領土のみを考えたならば、四面環海の形勢は、今日も、尚、依然たるもので、あって、論者が、由来、唱え来たった、海軍全能的国防論も、反故にはならず、論者の為には、至極便利であろう。抑も、論者の斯かる苦心惨憺には、吾輩も、亦、一片の同情を惜しむものではないが、天下少しく理性を有するの士は、果たして、斯かる浅薄なる論理に欺かれ、海軍全能的国防に謳歌するや否や。少なくも、吾輩は、何故今日、只、本来の御領土のみに着眼して国防を策し新附の御領土を国防圏外に置き、若しくは、これを軽視することが、我が国民の義務なるやを知るに苦しむ。
 凡そ、国家は、何時も、現在の全領土を慮って、国防を策する必要がある。この関係に於いて本来の御領土と新附の御領土とを区別すべきものではない。朝鮮半島を国防圏外に置き、否らざるも、国防上これを軽視し、マサカの場合に、この所謂新附の御領土を、敵足に蹂躙せしるが如きことあらば果たして我が皇(すめらぎ)の御稜威(みいず)を傷つけざるや。随って我が御国体を辱めざるや。斯くして、仮令、本来の御領土を全うし得るも、国家は甚痛なる侮辱を受けて何の誇りとする所があるか。
 朝鮮半島の北境に少許の陸軍を配置し、日露事あるに際して、一戦役間、終始、此に、専守防禦を為さんとすることの、決して、敵の防備を、為し遂げ得る所以にあらざる理由は、既に嚢にも言ったが、このことは、海軍戦術に於いては、イザ知らず、苟も、少しく陸戦戦術を研究したる者の怖らく疑わぬ戦理である。

 海軍万能論者は、朝鮮半島領有により帝国が、大陸とひと繋がりになった事態に対し、「本来の御領土を防護」する事こそ、国防の真の目的だと論じだしたと云うのだ。
 のち帝国日本が、対米英戦前の領土の保持どころか、「国体の護持」にまで国家の対外要求を下げ果てたあげく、その歴史を終えたことを思うと、海軍関係者が云ったとされるこの言説、実に味わい深い。現代の視点で見れば、日本は「四面環海」のまま進めば良かったと考えさせられてしまうが、そんな先のことなど知る由も無い東條中将である。「珍奇」・「コジ付け」とこき下ろすのは当然(笑)、前にも述べた理屈を改めて展開し、「新附の御領土」を侵されてしまえば、それは国家への侮辱であり、天皇・国体の威光を大きく傷つける事だと、天皇の権威まで持ち出して批判する。「海軍戦術に於いては、イザ知らず」と厭味の一撃を加えることも忘れない(だから大将になり損なったんぢゃあないのか?)。

 故に論者が如何に強弁するも、我が国が半大陸国となった今日に在っては、彼の海軍全能的国防論の主張の基礎の動揺したることは、争われぬ事実である。併しながら、吾輩は、強いて、この区々たる点に於いて、論者と争うことをせぬ。これ、本論は斯かる枝葉の点に於いて争うことを目的とせず、寧ろ海軍全能的国防論そのものに首肯し能わぬが故である。
 視るべし、仮令、我が国をして、今、尚、一の海島たらしめ、即ち、論者の希望する如く、四面環海の形勢に立たしむるも、論者の唱うる海軍全能的国防が、本論の主張する如き完全なる意義に於ける国家の生存を、満幅に、守護し得るや否やを。想うに、論者の主張する所は、恰も堅甲を被って稠人の中に立たんとするに等しくて、縦しや、他の鉄拳を蒙るの厄は免るるも 侮辱の厄を、如何にして、免れんとするや。海軍全能的国防主義が、真正なる国防の目的の為に、不十分なることを、以て知るべきである。

 東條中将云う「完全なる意義に於ける国家の生存」は、精神的侵害(侮辱)をも許さぬものである。相手国に攻め入る物理的手段の担保が無ければ―先方で「無礼打ち」が想起されなければ―成立を見ない。それゆえ陸軍軍備の縮小は許されない、とするのが、彼の持論である。そして、その考え方が、「暴支膺懲」のかけ声で中国とのドロ沼な戦争を惹起し、事態打開の打ち手が「真珠湾空襲」となり、国を亡ぼしてしまったと見て取っているのが、「兵器生活」主筆の立場なのだ。
(おまけのおまけ)
 前にも出た「三尺の児童」もそうだが、「愚夫愚婦」(フリガナが『ぐふぐふ』なのが可愛い♪)と、東條さんは俗論に惑わされる(自分の論を支持しない)「俗人」を馬鹿にしてかかっている。これに反する言葉が、「有識の士」、「理性を有するの士」と「士」の字を用いているところが面白い。武士は云うに及ばず、国士・壮士・烈士と並べると、東條さんの「士」への想いが伝わってくる。
 翻って現代、俗に「士業」と数えられるのは、弁護士、司法書士、弁理士、税理士、社会保険労務士、行政書士、土地家屋調査士、海事代理士、公認会計士、中小企業診断士、不動産鑑定士である。自衛官の「士」は、昔の軍隊なら「兵」であるから文字面だけ格上げされたことになる。いずれにせよ東條さん云う「士」とは別物。ことばも変われば漢字の印象も変わると云うことだ。