東條中将の「国防論」その7
帝国軍人後援会発行、『後援』大正2年3月号掲載、「国防とは何を為すことか」(陸軍中将 東條英教)。主筆も呆れるほど長々と紹介してきたが、いよいよ終盤に差し掛かる。
「国防」の範囲は、領土・財産・人民を保護するのみならず、国の尊厳にまで及ぶ、と云うのが東條さんの主張だ。体面を傷つけられたと感じれば、武力をもって攻め入ることも辞さない。個人も国家も、ナメられたらおしまい。
それは昔のサムライ、今のヤクザ屋さんの論理であって、現代の民主国家が取るべき道では無いのだが、百年前、第一次世界大戦が始まる直前の話である。傾聴はする。しかし取り入れてはならぬ。
前回、「海軍全能論的国防論」をさんざ批判してしまったので、陸海軍の仲介をしておこうと云うのが、今回の部分になる。題して、「陸海軍は陸戦の歩騎両兵種の働きに似て居る」。
例によってタテ書きをヨコにして、仮名遣いを今風に改め、東條さんが改行を入れずに延々文を連ねるトコロを、読者諸氏の便宜をはかって改行するなど、いろいろやっている。
一、陸海軍は陸戦の歩騎両兵種の働きに似て居る
蓋し、海軍全能的国防論者は、「国家若し、侮辱を受け、体面を汚損せられたる場合には、海軍を以て、攻勢を取り敵国を屈服せしめて、以て、その汚辱を濯げば足る」というであろう。否、この種論者の、平素主張する所を聞けば、曰く、「海軍は攻勢的性質を有し、陸軍は守勢的性質を有す、それ故陸軍は大陸方面の国境に守勢を取るに適し、海軍は、海洋方面に攻勢を取るに適す」と。
思うに、陸軍軍隊の行動の遅々たると、艦隊の行動の快速なるを、瞥見し、極めて卑低なる頭脳を以て判断すれば、或いは斯かる見解の起こるも無理からぬことであって、若しも、小学校の児童等に、問題として、科(か)したらば、或いは、斯かる答解を得ぬとも限らぬが、苟(いやしく)も戦争の如何なるものなるかを理解し居る者は、この説の児戯的なることを、直ちに了解し得るであろう。
若しも、試みに斯かる、論者に向かって、「海軍を以て或る一国に向かい、攻勢を取るには如何すべきか」と問わば、恐らく、具体的なる答弁に窮せざるを得まい。
「海軍全能的国防論者」は、国家の体面が傷つけられれば、速やかに艦隊を派遣して攻めれば良いと主張しているが、それは小学生レベルの考え方であると云う(三尺の児童よりは知恵があるらしい)。思慮の足らぬ児童と云うより、幕末のペリー来航か下関戦争(長州藩と西欧列強との武力衝突)あたりの「戦争」しか想像出来ない石アタマと云う方が近く感じる。
それへの論駁は、海軍でドー陸地を攻めるのだ? と云う、イソップ寓話の、ライオンとイルカの話(『陸の王』『海の王』が同盟を結ぶが…)のような理屈である。例の「イルカがせめてきたぞっ」は、未来の話だからここでは考えない。
抑(そもそ)も、国家が名誉と体面とを汚損せられたる場合に於いては、先ず、国際談判に依って、謝罪を要求することは、勿論であるが、若しも、平和的外交手段に依り満足を得ぬ暁に於いては、国家は、国防上から武力を発揚して、彼を膺懲し、以て謝罪に余儀なからしむるより外ないものであって、乃ち、これが為には、「攻勢的戦争」という一手段あるのみである。
然るに、大陸接攘の国に於いては攻勢、防勢に論なく、凡そ、戦争は、陸軍のみを用いても、これを為し得べく、仮令(たとえ)海軍がこれに参与することあるも、僅かに、一の補助戦たるに過ぎぬものであるが、我が日本の如く、海島を以て本国とし、此に海陸両軍の主力を擁する国はこれに反して、是非とも、海陸両軍を聯合せざれば、攻勢的戦争はこれを為し得るものでない。
抑も、陸軍が、未だ、我の制下に在らざる海面を渡って戦闘することの出来ぬのは言うまでもないが、艦隊が陸上に上って、敵国の死命を制し能わぬことも、亦(また)、勿論である。然るに、凡そ、戦争は、敵を終局の敗戦に導き、敵国をして、城下の盟(ちかい)を為さしむることを以て目的とするものであって、この目的の達成が、即ち、戦争の政略的目的(我が主張の貫徹)の達成を促すものである。
東條さん、「海軍のみで一国を如何に攻むるや」と問えば、「海軍万能論者」はグウの音も出なくなる、ヨーな事を軽やかに云い放っているが、シレッと「陸軍が(略)海面を渡って戦闘することの出来ぬのは言うまでもない」なんて書いているのが可笑しい。
尤も、この戦争の政略的目的は、時として、戦争の、この時期に至らずとも達し得ることがある。即ち、例えば、最初海戦に敗(はい)を取りたるのみにして敵が、早く、既に、抵抗の意を抛(なげう)ち、我が主張を容れることもあろう。又、進んで陸戦に移りたる上、敵が最初の緒戦闘に敗れたる結果、国土の一部が既に我が勢力下に浸潤したるを視て、その上、戦争を継続するも、勝算なきものと諦め遂に抵抗の意を抛ち、我が主張を容れることもあろう。現に、日清戦役の終期に於ける清国の事情の如きは、即ち、この終末の場合である。
併しながら、此等の場合は、特異なる出来事として視るの外なく、最初から斯くの如き場合を予想し、又はこれを、冀(こいねが)いて、戦争を始むべきものではない。既に戦争の決心を取りたる以上は学理上戦争の定義の示す如く、敵を城下の盟いまで圧迫するの覚悟を取らねばならぬものである。而して、既に、上にも言うた如く、艦隊を以て、陸上に、敵を終局の降伏に導くこと能わぬものとすれば、陸軍なくして、攻勢的戦争を開始し得るものであろうか。これ、吾輩が、見地を、戦争の定義に措き、彼の海軍のみを用いて、或る一国に向かい、攻勢的戦争を、為さんとする主張を目して、児戯に等しと評する所以である。
「敵を終局の敗戦に導」くところまで追い詰めなくとも、講和が成り立つことはある。日清戦争がその例に挙げられているが、日露戦争もソーだろう。しかし、それは「特異なる出来事」であって、そうなることをアテにして戦争を始めてはならないと云う。なるほどその通りだ。
日中戦争は敵国首都を占領まではしたが、そこで息切れして「大東亜戦争」に拡大。対米英戦争は云わずもがな。結局のトコロ、日本は戦争に勝つことが出来る国ではなかったのだ。「敵基地攻撃能力」確保への動きがニュースになっているが、いいとこ朝鮮半島の北半分止まりになるのだから(それ以上遠くを志向すれば『返り撃ち』だ)、これからもそうあり続けるのだろう。
しかし、東條さんにそれを云ったところで、相手は最早この世の人ではない。
思うに、攻勢的戦争に於ける海陸両軍の働きは、その関係が、よく、陸戦に於ける歩、騎両兵種のものに似て居る。
即ち、海軍は、騎兵の如きもので、先ず海上に於ける陸軍の前進の道を開き、又、陸戦間は、陸軍の背後の交通を守護し、時として、陸戦を助けるものである。併しながら、陸軍に於いて、戦闘の結末が、歩兵の手に在るものなる如く、戦争の結末は、陸軍の手に委せざる可らざるものである。
曾(かつ)て、前世紀の初葉に於ける英国が、如何に、優勢なる海軍を擁したりと雖も、仏帝国を、「トラファルガール」の海面に、亡ぼすこと能わずして、後日、これを、「ワーテルロー」の野に亡ぼし得たるが如きは、誠に、よく、この間の消息を語るものである。否、吾人は、遠く過去に、例証を求めるまでもなく、近く、明治二十七、八年及び三十七、八年の戦役は、よく、これを証して余りがある。
海軍・陸軍の関係を、騎兵・歩兵のそれとして論じつつ、歩兵=陸軍の価値を上に置く(やっぱり陸軍のヒトだ)。陸軍あっての英国の(対ナポレオン戦の)勝利であり、大日本帝国の隆盛(長続きしなかったが)なのだ。そして東條中将は「海軍全能論」の傷口に塩を擦りこみにかかる。粘着質なのか(笑)。
抑も、この戦役に於いて、清国、若しくは、露国に向かい、海軍のみを以て、攻勢を取りたると仮定し、サテ、如何にして、国家の汚辱を濯ぎ得たであろうか。海軍のみを以てする攻勢的戦争の成立せざるものなることは、これに由って視ても明らかである。而して、このことは、独り露国及び支那に向かってのみならず、論者が、海洋方面に於ける予想敵国とする所の、米国に向かっても、亦、同様であって、陸軍軍隊の輸送が、敵国の遠きに随って、益々不便ではあるが、戦争の原理が敵国の遠近に由って変わるものではない。それ故、如何なる国に対するにせよ、苟も、攻勢的戦争を開かんとするには、海、陸両軍とも相当の備えがなければならぬものであって、彼の大陸主義者が無謀なる陸軍拡張説を唱えて、海軍の勢力を等閑視することも、又、海洋主義者が、海軍全能論を唱えて、陸軍減少説を主張することも、真の意義に於ける国防の見地よりすれば、二者ともに着実なる議論なりと認めることは出来ぬ。
「ライオンとイルカ」的論理が繰り返される。とは云え、米国と戦うなら陸軍は海を渡らねばならぬ―日清・日露のときだってソーしているのだけど―から、海軍の悪口をいつまでも続けるわけには行かない。海軍も、陸軍も増強してもらわねば、攻勢的戦争=「国防」は出来ぬと結論づける。両軍にとっては穏当、しかし軍備にかかる費用を税金として負担し、自身あるいは子弟を兵に差し出す国民にとっては、「チョット待て」と云いたくなる結論に至るのだ。
(おまけの与太)
この「艦隊で攻める」論、第一次大戦後に提唱される「開戦劈頭、爆撃機の大編隊で敵首都を攻撃する」考え方に通じるモノがある。現在、アメリカが得意としている(ことになっている)精密誘導兵器で敵要衝・中枢だけを痛めつけるやり方もそうだ。いかに陸軍を使わないで戦争に勝つか、と云うトコロを狙ってやっているのに、本当に云う事を聞いているのか、歯向かうんぢゃあないか、なんて考え出すと、結局は陸軍を送り込まざるを得ず、相手が大人しくしてくれないと、戦争が終わったあとの方が「戦死者」が多かった、なんて事になりかねない。
人に云うことを聞かせる事自体、手間と時間がかかって面倒なのに、人の集まりの国家を相手にやるのだから(王様・親分ひとり丸め込めば良かった時代ならいざ知らず)、戦争に訴え―殺すぞと脅して―表向きは従わせても、恨まれるだけである。人類は、いいかげん新しい手段を考えるべきだ。
(おまけのヨタヨタ)
将棋は戦争を模したモノであるが、双方の手駒は同数であり、それぞれの運動能力も等しい。しかし、実際の戦争に関しては、国ごとに兵力の数、戦争に投じることの出来る資源の量は異なる。こちらは一度にコマひとつしか動かせぬのに、相手が一度に3つ4つ動かせたり、飛車角金の数が多かったりしたら、こっちは将棋盤をひっくり返すしかないだろう。
それを「勝ち」と呼んで良いものか?