「同朋箴規(どうほうしんき)しおり」で80万6千おまけ
家庭を崩壊させるような敬虔に過ぎる信仰生活は考えモノですが、少しばかりの信心は、人の道を踏み外さぬため持っていた方がヨロシイ。
「死後裁きにあう」、「悪いことをすれば地獄に堕ちる」、皆そう思えば、ウソを云う政治家、薄給で苛酷な労働を強いる経営者・上司は世の中から一掃されます。それを承知で人に苦しみを与える人は、それだけの良い仕事をやりとげ、見返りを与えてくれるに違いありません。地獄への道行きを見送ってあげましょう。
宗教団体・個人が、世のため人のため活動されるのは結構なことですが、政治と結び付き生活に干渉するようでは困ります。信心は強制されるものではない。われわれ凡夫は、お天道様に恥じぬ生活を全うすれば、安心な来世が待っている、くらいに思い、寺社に行き会えば、ちょっとアタマを下げるくらいで充分です。
古本屋の店先のガラクタ箱の中から、こんなモノを見つけました。
「しおり」です。「防共」の文字に、日独伊三国の国旗(当時)が描かれています。一番下には「東本願寺」の文字があります。ナゼ、浄土真宗で三国防共協定なのか? 意図は図りかねますが、面白いのでご紹介する次第です。
この「東本願寺」は、「真宗大谷派」。現在は、ここから分派した「東本願寺派東本願寺」があるソーで、記述に気を遣うトコロなのですが、三国防共協定締結―日独が結んでいた協定にイタリアが加わった―は昭和12(1937)年、分派は1981年の事なので、この「しおり」と直接の関係は無いと云えるでしょう。
「防共」と「東本願寺」の間には、「新生活の指標」として、何やら難しい言葉が書いてあります。モダンで明るい赤文字とは対称的な書体です。
同朋箴規(どうほうしんき)
正信
一、己を捨てて無碍(むげ)の大道に皈(帰(き))す
正見
一、人生を正しく見て禍福に惑わず
正行
一、報恩の至誠を以て国家に盡(つく)す
東本願寺
『真宗教徒の信条―同朋箴規の使命―』(河崎顕了、破塵閣書房、昭和12年11月)は、この「同朋箴規」の解説書です。「真宗の教義を最も直裁簡明に、且つ現実生活に対して力強き指導精神を与えるように説明」したものとあります。
浄土真宗は、歴史教科書の中に「一向宗」や、「石山本願寺」の名前を見たり、「大谷探検隊」が出ていたり、昭和史読み物の中で、戦時中は戦争に協力していた、くらいの事しか「兵器生活」主筆は知りません。浄土真宗の寺名を刻んだ門柱に「本願寺派」「大谷派」とあるのは目にしてましたが、どっちがどっちなんて気にしておらず、築地本願寺はどっちのお寺なのか、答えることも出来ません(とは記すが、ネット検索くらいはしている)。
浅薄な理解のゆえに、読者諸氏の中には何かしら不愉快な感じを受けるやもしれません。あらかじめお断りしておきます。
と、下手に出ておいて何ですが、この本、面白いことが書いてあります。
本書が書かれた=「同朋箴規」が制定された背景には、「我が教団に於いても教義の解説に関して、在来の儘にては 現代人を直ちに首肯せしむる事は出来難いから それに対して何等か考慮しなければ成らぬ」と云う問題意識があります。そこには、
在来の既成教団の教義では、現代人を指導する力を有しない。現代人を指導するものは新興宗教であるとし、進んで其の教壇の下に走る者が前後相次ぎ、而も其の中には近代科学の教育を受けたる知識階級に属する者が多いと云う現象を呈しておる
と云う観察もあるのです。インテリに避けられていたのですね。オウム真理教事件の実行犯に、高学歴者が含まれていた事実を彷彿とさせます。当時の既成宗教者が抱いたであろう危機感の強さも伺えます。それゆえに、「東本願寺」では昭和12年4月14日に、「同朋箴規」を発布したのでした。「今後此の三綱領に基いて、一派の教義を宣説する事」としたとあり、その位置づけの重さが伺えます。著者は、「日頃念願しておった子供が生れ出たような思(おもい)が致し、慶賀の念に堪え無い」とまで述べているのです。
『真宗教徒の信条』は、「同朋箴規」各条文の解説であり、各地の指導者向けに書かれた―講話の速記録のように見えます―ものですが、興味深い記述に出会えます。
「一、己を捨てて無碍(むげ)の大道に帰(き)す」の解説では、
現時の国状を顧みて痛嘆に堪え無いのは、個人と云わず、団体と云わず、孰(いず)れも自説を主張して一歩も他に譲らず、それが為に孰れの方面にも互譲の精神の欠けておると云う事である。
(略)各自の主張を聴いてみると 尤もだと感心さるものは幾多もあるのであるが、而もそれが成り立た無くて現状の打開が出来ず、いつまで経っても是では成らぬと慨嘆するのみで歳月を送って居るのである。
(略)挙国一致して国難の打開に邁進する事が出来無いのは実に可笑(おか)しな事である。
今の世の中そのままですね(笑)。
その原因は「近代の教育」にあると云います(そのモノ云いも同じ)。「余りに個性を尊重し過ぎた為」、「環境の事情を第二として個性を第一に置いた為」に、
環境の事情が自己の行動を許さぬ事であると、生き甲斐が無いように思い、憤然としてそれを争うのである。(略)其処に個人主義が台頭し、家族主義の影が薄く成り、それが国家の上にも顕(あらわ)れ来たりて、自他協調の大我の世界が出現しなく成ったと思うのである。
そして「世に時めいた人」が、疑獄事件で社会から葬り去られることに対し、
是等の人々が少しく自己の欲望を抑制する自制心を有して居ったならば、断じて是等の不祥事を惹起することは無かったであろうと思うのである。利欲の念(おもい)とか、権勢の念とか云う小さな欲望に駆られ、(略)一生を葬ってしもうたのである。(略)国家とか社会とか云う大我を顧みて行動したならば、決して斯様の事態を生じはしなかったと思うのである。
と感嘆します。それは「己を捨てて」物事にあたっていないからだ、となるわけです。
後半の「無碍の大道に帰す」は、「阿弥陀如来の大法に帰依し、其の信徳に依って、此の複雑多難なる人生を踏破する者である」と説明しています。ここは信仰の指針ですから、驚くには値しません。
続く「一、人生を正しく見て禍福に惑わず」は、生きる上で有益な考え方が書いてあります。
あらゆる物事を正しく見てそれに対応すれば、善悪其の孰れにしても適当に解決することが出来るものであるに、(略)自分の一時の観察に依って速断するが為に、其処に疑惑と誤解を生じて相互に嫌な思いをしなければならぬ事が生じ来って、此の人生を煩悶と苦痛の坩堝(るつぼ)にして了(しま)うのである。
「正しく見る」事自体は、多忙な昨今にあっては難事ですが、「一時の速断」の誤りが、諍いの原因になるとの指摘は、「恋文は一晩置いて出す」「ムキになって反論しない」ことにも通じます。肝に銘じておきたいものです。しかし、この条目の本旨はもう少し深いところにあると云います。仏教的な人生観が語られるのです。
仏教を理解せぬ者は(略)此の人生を安楽処と思い、それを実現せんと欲して日夜苦労しておるのである。殊に近代の教育を受けたる者はその念願が熾烈で、理想の生活だとか、愛の生活だとか、生甲斐ある生活だとか、享楽の生活だとか、色々と勝手な願望を懐いて、それの実現に憂き身を悄(やつ)している
当時の文学(小説家)に対して、かなり含むトコロがあるような書きぶりです。
此の人生に於てあらゆる自己の願望が達せらるるものと肯定してかかると、(略)それが実現せぬ事となると、其処に絶望と悲観を生じて進取の意気を砕き、気の弱い者は自暴自棄に陥り、それで無い者は他を呪詛し、他を怨嗟し、(略)無意義に徒消(としょう)することに成るのである。
なるほどと思えてきます。では、仏教に親しむ人はどうなのか。著者はこう記します。
此処に安楽を求めず、私の理想の全分の実現を求めず、人生の真実相を凝視して、それに善処せんと努力して居るのである。(略)海水浴に行いた時に、波に逆らわず波に身を託したような気分で、此の人生の苦難の荒波の中を乗切っておるのである。
なぜ、そう出来るのかと云えば、「其の目的を永遠に置く者には、刻下の苦難の如きは何等意に介することなく、平然としてそれを踏破する意気が生じ来る」と云うのですね。
こんな云い方もしています。
私共の長い生命の道程は 形の変わった一つの学校だと観ずべきである。学校には小学校もあれば中学校もあり、又大学もある。(略)併し小学校は何処まで行っても小学校であり、それに数十年間在学した所で中学校の学課の学修は出来ない。小学校を卒業して中学校に入らなければ、その学課を学修する事は出来ぬ。(略)此の人生に於て如何に最善の修善を為しても、決して此の人生に於いては法性常楽の生活は出来ない、いつまで経っても五濁の苦難を受けなければならぬ。而も此の苦難の中に怨まず、訴えずそれに善処して最善の勤めを果たすのが、此の人生の小学校に在学する私共の業務であると信ずるのである。
この世に生きてる限り、濁った現世からは出られないと諦観しています。今が「小学校」だとしたら、その学習内容を飛び越えることは出来ない、やってみたところで理解・体得は出来ない。しかし、だから何もしないのではなく、物事には善処し最善を尽くさなければならないと云います。それが「長い生命」(仏になるまで生まれ変わりを繰り返す)の一局面である、「人生の小学校」の業務・課題だからと云うわけです。「何十年在学した所で中学校の学課の学修は出来ない」、怖ろしいですね。
「この世」にある限り、「悟り」に至ることはありえない、とする考え方は、「世界を挙(こぞ)って此の人生の平和を願望しつつあるにも拘らず、それは実現せずして国際間には動乱は次から次へと生ずる。(略)これが五濁の真実相である」と云う世界観に通じます。これは真宗の教えと云うよりは、著者、河崎顕了個人の見解とすべきところでしょう。
「兵器生活」主筆は、古代・中世・近世・近代・現代と世の姿が変わってきているのだから、やり方さえわかれば、この世にも平和は訪れると信じています。世の変化を、所詮、校舎が木造から鉄筋コンクリートになり、汲み取り便所が温水洗浄つきの水洗式になっただけの事で、小学校は小学校のままと見るか、英会話が加わり、忠君愛国なんて教えなくなったぢゃあないか、と見るか、見解は分かれるところです。
また、「人生は私一人にて出来上がって居るものでなく、他の幾多の力をかり来って其処に成立しておるものであると云う事を知らねばならぬ」とも云います。
自他相互の力が、相寄り相扶けて私の今日をあらしめたものであるとするのであります。(略)如何なる事でも、私一人にては断じて実現するものでなく、必ず他の幾多の助力を得なければならぬのである。
ここまでは納得出来るのですが、こんな事も語っています。
良い行為を致しておっても、若し其の縁に立つ所のものがよろしからざる時は、予期した結果が生じないことは幾等もあるのであります。
これは怖い。相手によっては、いくら良い行いをしても、報われない(予期した結果が生じない)事がナンボでもあると云うのです。想いが通じない、努力が実らないとは理不尽な―世間には少なくない―話ではありますが、以下の理由があると云います。
(人は)此の世一代のみのものでない。過去幾百世の以前から未来幾百世の後に至る迄、生死を重ね来たり、又重ね行く者である。それであるからして過去に為した業因の中にて、過去に於いて業果を受けないものは、今生に於いてそれを受くるのである。それだから、自分としては少しも知らぬような事が、頻々として顕れ来たる事があるのである。
こう説明されるとグウの音も出ません(苦笑)。全部「過去の因縁」で説明出来てしまう。究極の「自己責任論」ですが、「水子」や「先祖」の祟りはあり得なくなります。
そして、世間に暮らす人の多くがが悩み苦しんでいるのは、「私共仏教徒が深切に我が仏教の根底を為しておる原理を説かなかった為である」と反省しているのです。
「やれば出来る」「想いは通じる」そう思っていると、うまく行かなければ、裏切られた・邪魔をされたと恨みに思って悪い縁を生んでしまう。今、生きている人生しか無いと思えば、焦りと絶望を迎えるか、刹那的快楽を求めるようになる。これでは「人生の小学校」を卒業出来ません。
そして、いよいよ最後の「一、報恩の至誠を以て国家に盡(つく)す」になるのですが、ここだけあまり面白くない(笑)。
「本条は正しく私共が真宗教徒として実行すべき俗諦の本義を明確に指示されたものであります」とあり、当時の教義の柱であった「真俗二諦の教え」―仏法を真諦とし、 王法を俗諦として、それぞれが相依り相資ける―の「俗」すなわち生活者としての心構えを語っているわけですが、
本條の指示は、私共が帝国の臣民としての本務を全うするに対し、最も適切なる指示條項であり、他に是に勝るものはないと思うのであります。
一般国民(臣民)と変わるトコロは無いとアッサリ云われてしまいます。
結論はコウなのですが、指導者向け解説書なので、「報恩と云う事には不審は立てられぬと思うが、併し其の報恩に就いても、其の対象が国家と指示されてある処には、一種の疑念を懐かるるかとも思う」と、信者が抱くであろう疑念を取り上げています。こんな発言もあります。
主として仏恩報謝と教えられ また其の報謝には称名念仏すればよいので、何も殊更に国家に尽くすと云うような角立つたることを指示されなくてもよいではないか、との疑念を懐かれるかも知れませぬ。
(略)報恩の対象を国家と指示されることは結構である、(略)仏恩の事が明記してないのは何う云う訳かと申さるる方もあります。
「政教分離」に近い意見、国家の恩より仏の恩を強調すべき意見もあったと云います。昭和10年代初めの日本人がみんな「国家ファースト」だったわけでも無かった事がわかります。それらに対し、著者は「王法を先とし仁義を本とせよとの他の一面のあることに私共は深く考慮しなければならぬ」と、蓮如が遺した「御文」を引いて諭します。
商いもし奉公をもし、猟漁(りょうすなど)りもせよとの教示は、(略)各自の生活其の儘にて念仏を欣(よろこ)べばよい。従って其の日常生活は他の人々とは何等異なった所は無いが、併し其の生活を無意義のものたらしめず、王法仁義の厳粛なる心掛けを為し、それに違反せざる様にせよと教示されたるものである。(略)その生活を浄化すべき王法仁義の教示を閑却するような事があっては、真の念仏行者の生活とは申すことは出来ないのであります。
さらに云います。
「身を修め家を養うと云うのが最終の目的ではない。そうした健全なる生活を為して、国家の御用に立つと云うのでなければ、真の忠良の臣民と申す事は出来ない」、敬虔な門徒(信者)は忠良の臣民でなければならぬ、こう述べているのです。
此の一條の指示を中心として、私共の日常生活を浄化せんと努めておるのであり、それには本條の指示は、私共が帝国の臣民としての本務を全うするに対し、最も適切なる指示條項であり、他に是に勝るものはないと思うのであります。
国家と信仰の重みは同じと決めてしまっている。こうなると、よき信者であろうとする限り、国策を積極的に支持するしかありません。日独伊三国防共協定を結んだら、それを称揚する。「同朋箴規のしおり」に、ハーケンクロイツなどが描かれてしまうわけです。
(おまけのおまけ)
「しおり」の紹介が「同朋箴規」解説書の紹介に化けてしまいました。著者の河崎顕了が敗戦の日を迎えられたのかは、ネットの検索では出て来なかったので、今回は不明としておきます。港区立の図書館に行って人名事典の類をいくつか繙いてはみたのですが、載ってませんでした。これ以上調べようとすると、今月の更新に間に合いません。
さて、東本願寺(真宗大谷派)は、戦争に協力してきた事を反省します。
私たちの宗門は宗祖親鸞聖人の仰せになきことを仰せとして語り、戦争に協力してきたという罪責を抱えています。さらに、国益のための侵略を「聖戦」と呼び、中国や朝鮮半島の人々をはじめ、アジア太平洋地域のみならず、世界中に苦痛と悲しみを強いました。
(2018年4月 真宗大谷派(東本願寺)第18回非戦平和展『兵戈無用(ひょうがむよう) 正義と正義の対立を超えて』パンフレット)
と語っています。このパンフレットには、明治から昭和敗戦まで、教団が戦争にどう向き合ってきたかが、平易に記されていて、一読の価値があります。「同朋箴規」にも触れられています。つまり捨てられてしまったわけです。
(おまけの報恩)
本文では言及しませんでしたが、「報恩」に引っかかっています。
「親の恩」は、産んだことなのか? 親の子となったのは「縁」だとは納得できるのですが、「恩」と云われると、頼んだわけじゃあねぇや、なんてクチを利きたくなります。育ててもらったのは「恩」以外の何物でもありませんが。
帝国日本に生まれたことを幸せに思い国に尽くせ、とは戦前・戦中の本に出て来る理屈であり、今もそんな考え方を教え込もうとする向きもあります。公的な教育が受けられ、戦禍にも遭わず今日まで生きてこられたのは「幾多の力」あっての事ではある。「恩」かもしれない。しかし「恩着せがましい」態度で来られると反発したくなってしまいます。
(おまけの謝辞)
本稿を書き上げるのに際し、ブログ「ささやかな思考の足跡」(http://ono-blog.cocolog-nifty.com/sikou/)の記事、「戦争協力示す3か条 真宗大谷派が額展示」(2015年3月17日付 http://ono-blog.cocolog-nifty.com/sikou/2015/03/post-5ad7.html)が大変参考になりました。国立国会図書館のデジタル資料の『真宗教徒の信条』を読むことが出来たのは、この記事のおかげです。この場を使い、厚く御礼申し上げる次第です。