言えよvs察して

『男性への抗議・女性への反駁』で80万7千おまけ


 男女平等、性差撤廃が実現されるべき事とされて、10年は経っているヨーに思う(提唱されてからなら、モット長い)。
 それをドウ捉えるかは人さまざま。ゆえに実現は難しい。しかし、オトコだから・オンナだからと物事を決めつける言動が、良識ある(と自認しているを含む)人達から批判される世の中になりつつあるとは感じている。

 部屋を発掘していたら、『男性への抗議・女性への反駁』と云う冊子が出て来る。読売新聞社編、森田書房発行(昭和10年10月発行)で、たぶん新聞に掲載された記事をまとめたもの。


『男性への抗議・女性への反駁』


 女性に参政権も無ければ(敗戦後に実現)、職業選択の自由も限られていた時代だ。どんな「抗議」が載っているのか興味津々で読んでみる。
 「抗議」の殆どは妻の立場から、夫と彼が属する社会に向けられたもの。「反駁」も当然ソー云う視点のものとなる。
 よって、当時ならではの味は、言葉の使い方など表層だけで、語られる中身は、「昔も今も変わらない」印象が強く、何より夫婦の問題と集約できるだけ視野が狭い。それが当時の女性観の限界だ、と冊子ひとつで結論づけるには不十分でもある。しかし、「当時ならではの味」には捨てがたいモノがあるので、紹介する次第だ。

 今日の人権意識とは、相容れられぬ文がいくつかある。主筆にそれを鼓吹する意図は無い。言葉のなかに当時のモノの考え方が含まれているのだから、そこは評価とは別な次元で味わうべきだ。ことばを抹殺すれば差別偏見悪意が無くなるわけではない。
 抗議・反駁のタイトルと、論旨を挙げる。最初が抗議、次が反駁だ。
 語った人の肩書きは殆ど記載がない。調べると今月の「兵器生活」更新に間に合わぬので手抜きをした。申し訳ない。

 女の気持を掬わぬ
 男―って馬鹿ね
 留守を守る女心はいつも寂しい(金子しげり)

 口に出さねば感じぬ
 女―って鈍感だね
 外で流す涙の味は女には判らぬ(村松梢風)

 「早く良人(おっと)が時間に戻ってくればいい」と云う(二人の時間を過ごしたい)、妻の気持ちを思わぬ夫と、「個人の家庭というものなどを全く考慮に入れないところの官庁・銀行・会社等の制度」―男社会―への抗議。
 反駁は、「女房はいいもんだと思うです」と文字にはすれど、その気持ちは「綺麗な六尺の褌(ふんどし)」と同じ、外に見せぬのが良いとする。その一方、男は外で妻にも云えぬ苦労をしているのに、口に出さねば女は無いものと思っていやがると批判する。
 夫婦なんだから(論者がそう云う関係と云うわけではない)、話し合えよ―それが出来れば苦労は無いが―と思う。


 男の往生際の悪さ
 女房は堪らない
 社会と自分との関係すら判らぬ(平田のぶ)

 女の「安全第一主義」は
 男を殺すものだ
 男には「死が仕事」の場合すらある(杉山平助)

 「平凡な中産階級の 裕(ゆた)かでない家に生まれた者などに 洋々たる希望などあり得ない」のだから、出世の見込みが途絶えたなら、「倹約して子供に不自由をかけず家庭を楽しむ、為になる本を読む」など、楽しい家庭生活を営めば良いと思う妻から、いつまでも来ない出世に鬱屈してグチを云い、夫婦の仲まで冷やしてしまう、サラリーマン夫への抗議。
 男の反駁は、出世などほどほどで良いとする妻を、「安全第一主義」と決めつけ、男は仕事と力と言い切るモノ。
 人生観の違いは大きい。


 この頃の男たちは
 見ちゃ居れんワイ
 潮に干満ある道理を知りなさい(河口愛子)

 新婚当時の無理を
 水準と思い込む
 女はロマンチストであり過ぎる(新居格)

 今どきの男は女に甘い。 「暇さえあればネチャネチャ女房としとる」から倦怠期がすぐに来る。昔は、「妻は万事夫を見習う、又良人(おっと)は礼儀正しく威厳を保っている」から、永続性のある夫婦生活が営めたと云う、古風なひと(当時61歳)からの抗議(なのか?)。
 対する反駁は、女は「一度幸福な異例な状態を経験すると、その状態が普通の水準であると信じ込む」からいけない。「一介のサラリーマンにロマンスがあるなどと思うのが大変な間違い」と述べるモノ。釣った魚にエサやる馬鹿はいない、と云うヤツだ。「反駁」が、むしろ遠回しな同意になっているのが面白い。


 妻を籠の鳥にして
 老けさせる暴君
 かくて男は自ら墓穴を掘るもの(厨川蝶子)

 早老を亭主の責任に
 帰すとは虫がよすぎる
 緊張しとらん証拠ぢゃないか(大迫元繁)

 「女は十人のうち九人までが女中と同じ境遇に置かれる」
 炊事・掃除・洗濯・買い物と、家事労働をやっていたのが女中である。電気掃除機・電気洗濯機が普及する前の時代である。自由な時間は今とは比べられぬほど少ない。
 「娘時代なら映画を観に行ってもお茶を飲んでも誰に憚るところなくノウノウと楽しめ」たのが、ひとたび妻となると「過去の周囲との間に太い線が引かれる」。つまり自由時間でも制約はある。であれば夫と一緒に…となるのだが、夫には、妻と共に楽しもうと云う気持ちが無いから、結果、妻を早く老け込ませてしまうとの抗議。
 男の方はと云うと、「カナダ、アメリカを遍(あまね)く歩いた時、(略)何処へ行っても美人が居らんのぢゃ、(略)日本の女も馬鹿にならん(略)と思ったが、方々のカレッヂタウン―大学都市だね、(略)大学の半分を占めている女の綺麗なこと。(略)美は結局健康と頭脳の問題だとな」などと云う。
 日本の女性は女学生時代こそ運動はするが、そのあとが無いとのたまう。せめて食事はユックリ噛んで、栄養を摂るべしと云う。美醜は気持ち一つでどうでもなると、どこかズレた反駁である。


 若さを享楽し乍(なが)
 若さを愚痴る男
 その癖(くせ)教える親切さはない(小寺菊子)

 どう仕りまして、女は
 早熟ですからなァ
 ただ一言「男は説明が嫌い」ですよ(浅原梅一)

 「独立して生活が営めるようになってから結婚するとすれば、お嫁さんとは七つか十年位自然歳が違って」しまう(註:昔の話デス)。世間に疎い年若い妻を愛でながらも、世間知を教えようとしない夫への抗議だ(姑の存在が無視されているトコロが、奇異に感じられる)。
 「男ってものは一人で生活しながら世間をみてきた。(略)「自分を失わずに世の中がわたってこられた。(略)女にはこの経験がない」よって、女も自分で経験してみて眼を開き、静かに判断することだと反駁する。
 「男は説明が嫌いだ!」と云いきっているから、聞く耳は持っていない(笑)。
 余談だが、夏目金之助が明治29年6月に結婚したときの年齢は、数えで30。新婦鏡子は20歳で、10年の差があった。


 白髪のいい年で
 小娘にデレつく
 おだててさえあれば喜ぶ甘さ(酒井―旧姓櫻内―明枝)

 女房あっての浮気心
 自責は罪を償(つぐな)
 ヒステリだけはお止めなさい(島中雄作)

 「男は自分が若く、世間へ出るのに力が足りない時は確(しっか)りした妻の力添えが欲しい」のに、「自分の地位や力に目鼻がついてくると、もう女房が煙ったくてしょうがない」。醒めた目で男を見ている。だから花柳界に入り浸る男を、「オシッコ臭いチンピラ芸者になんかうつつを抜かしている」なんて云う。
 「『家(うち)の米の飯より隣家の麦飯』男ってみんなこれです。「女は夫一人しか我物ではなく、(略)男は手当たり次第」と強い抗議だ。
 対する論駁は、「御婦人は非常に教養の高い方でも事亭主の浮気に関する限り―(略)芸者をはんべらせた、女給に取り囲まれて英気を養った―位の些細なことにでも―神経を尖鋭化してヒステリーを起こし勝ちだ(略)これに刃向かう刃はありません」と、問題を矮小化して論点をズラす。
 さらには「細君あっての浮気心です」と逃げを打つ。深夜の帰宅に際しては、「車のバックミラーでネクタイを直したり、ハンカチで頬を拭いたり、唾を吐いたり、その気苦労は大変なものです」と述べ、「これまで自責の念を与えるなら、もうそれで十分ぢゃないですか」と開き直る。
 妻が心配の余り「おそいぢゃありませんか、どうしたんです」と声をかけるのを、「この上 良人から何か引き出してとっちめようなどと云うのは 良き妻の態度ではない」と述べるのは、反駁とは云え、いくらなんでもヒド過ぎる。


 毛脛丸出しの姿で
 銀座を歩く紳士
 之が日本を背負ってる知識階級(深尾須磨子)

 服を着たからって
 外国の儀礼を真似る要はない
 日本の男には男の習慣がある(宮川曼魚)

 本音かドウかは判らぬが、女は「何をしたって男にはかなわない」、「一人前のことが出来る女なんていない」と云い、「男好きと思われてもかまわない」論者が、「浴衣の裾を脇の下に挟んで」、スネ毛丸出しで銀座の街中を行く男たちを歎く。
 「教育や頭脳は仕事の時だけ」、「日常生活の細かい部分や、婦人に対する場合にまで教育は及んでいない」と抗議する。
 それに対する反駁は、「男でも女でも、東京や大阪では昔は真昼間浴衣で外へなど出なかった」と述懐する。今はそこまで堅苦しくなくなったが、「日盛りに銀座を浴衣で歩いていいと云うではない」とは思ってもいる。そう云うトコロでは両者歩み寄ることは出来そうなのだが、「外国人の眼から見て変であっても、日本人が何とも感じないものであればそれでいい」と、抗議は取り合わない。
 彼は「もう十年―雑然とした、と仰言(おっしゃ)られる日本の男を標準として、世界の男を見直す時がくる」、こう断言する。この発言の10年後、すなわち昭和20年の終わりには、日本男子の権威はもとより、体力・気力もドン底に落ちることを、神ならぬ論者は知る由もない。
 婦人参政権を始め、女性の教育、社会進出、あるいは娼妓・女給・女中や寡婦の生活問題など、女性が声を上げるテーマはいくつもあるはずなのに(現代でも問題であり続けているモノも少なくない)、それに眼を向けさせない・気付かせないためなのか、実に小さい問題を論じている。
 男は上から目線でエラソーであり、女は卑屈でさえある。挙げられた抗議の殆どは「夫婦の問題」だ。ちゃんと話し合えば、抗議・反駁にはならず、お互い歩み寄れるトコロが見いだせそうなものだ。男女ともに「そういうもんだ」と気が付けば、余計な心配をするに及ばず、余計なひとことで関係にヒビを入れる事もない、と独身生活の主筆が書いてしまうンだから、イヤになる。

 論者の一人、酒井明枝はこう云っている。
 「妻の正当な離婚の理由を周囲が認めてくれ、変な眼で女を見ることがなく、経済的にも独立が保証されるならば、日本の半数以上の女は離婚してしまうわね」

(おまけのおまけ)
 ページに青い文字が無いと、自分の記事で無い心持ちがするので、ひとつふたつ載せておく。

 どう仕りまして、女は
 早熟ですからなァ
 ただ一言「男は説明が嫌い」ですよ(浅原梅一)

 此頃の女ははしたないね、君、上ッ面ばかりみる、表面の感じでばかり物事の判断を下す 特に良人(おっと)の友人を見る場合それが多い。
 「おい! いるか、いないのか! まだ寝てンのか」
 玄関の外から大声で怒鳴ってくる男など、もう好かない。
 「暑いなァ、冷たいコーヒーもいいがビールはないか、うんと冷えたの何とかしろよ」
 こんな言葉を聞こうものなら、キリキリ目尻をつりあげて、
 「なんて不作法な図々しい人でしょう、どこがよくて友達にしているのかしら!」
 と亭主にまで当たりがくる
 「ようこそ、いらっしゃいました…」
 などと挨拶はしても、何かにつけて平静でない態度を示す。
 「ちょっと、あいつの所へ行ってくるぜ」
 と云うと
 「勝手に行ってらっしゃい。また酔っぱらってくるんでしょう」
 碌々
(ろくろく)亭主に挨拶もしない。

 男にはさまざまの友達がある。仕事の上での友達、飲み友達、遊びの友人、趣味の友…と実に多種多様だ。そのどれもが男には重要であるし、自分が今日あるのは その凡ての友達のお陰であることも男には判っている。複雑な周囲、各種各様の友達と接近し、お互いに触れ合って来たからこそ 今日の自分があるのだ。
 「おい、飲もう、どうだ、今晩は河岸をかえるか、かまうもんか、明日の朝までいいやね」
 酒を飲むことは悪いことかもしれないが、この男と飲んでいればいい気持ちだ、酒の味もよくなるなら もう立派にいい友達だ。堂々と勝負事が争えるなら 之もいい。面白く遊べるならこれも嬉しい。
 「酒飲みは不可
(いか)ん、遊び好きは困る…」
 と頭から選り好みして友達は得られる筈もなし、いい友達など見つかるわけはない。


 「朱に交われば赤くなるです、友達は扶(たす)け合える、相談に…」
 などと女が云うのはチャンチャラおかしい。酒、女、煙草、賭事―人間の悪い反面の現れ勝ちな、斯うした事柄で、愉快に交際の出来る者でなくて どうしていい友達と云えますか、女は悪い事での友達は頭から悪い人だときめて了う、これは間違いだ。ただ男は そうした事柄をくどくど説明したくないのだ。説明して判って貰うんなら判ってくれなくてもいいのだ。
 「あれは不作法だが こうで、またあれは…」
 なんて云えるもんぢゃない。何事に対してもそうですよ。男ってものは一人で生活しながら世間をみてきた、世の中や人を見る眼を養ってきた。それでこそ自分を失わずに世の中がわたってこられた。それが出来なかった奴は駄目だ。ところが女にはこの経験がない。判断を下す前に感情が動く。これからの女はこれでは不可
(いけ)ない。いい家庭が持てない。自分が経験してみて自ら眼を開くんですな、静かに判断するんですな。

 男は説明が嫌いだ!
 これですよ 説明しなくても判るよう―これですよ 導き方が悪い。教えようとはしない。親切気がない…と女がこぼすのは、男の気持ちを知らないからだ。男に頼ってばかりいるからだ。十年年齢が違えば凡てに十年の開きがあると仰るが どう致しまして 女は早熟ですからな。若さだって…男の気持ちが判らぬからですよ、では…

 「玄関の外から大声で怒鳴ってくる」そりゃあ奥さんイヤがるでしょう。ひとの家に上がり込んで暑いからと冷えたビールを要求するのも、良識ある人のふるまいでは無い。
 夫の友人は必ずしも妻の友人にはならない。つきあってきた歳月、交わりの深さ(お互いの性質・力量の測り具合)が、それこそ10年ぐらい違うのだ。紹介されたばかりの夫の友人と、いきなり10年の知己のように応対なんかした日には、俺からコイツに乗り換えるツモリかと疑心暗鬼になって、あとで「色目使ってるんじゃあねぇ!」となるのがオチだ。

 ヒドいトコロをもう一つ。

 女房あっての浮気心
 自責は罪を償(つぐな)
 ヒステリだけはお止めなさい(島中雄作)

 御婦人は非常に教養の高い方でも 事亭主の浮気に関する限り―厳密な意味では浮気でも何でもなく、酒席へ芸者をはんべらせた、女給に取囲まれて英気を養った―位の些細なことにでも―神経を尖鋭化してヒステリーを起こし勝ちだ、神様は実に公平なもので、体力、智力、意思その他凡(すべ)ての点で女は到底男に及ぶべくもないが、此の実力豊富な男子にして、猶を且つ敵も得ない武器を女に与えなされていられる、ヒステリーという兵器ですな、これに刃向かう刃はありませんな。
 ヒステリーには医学的にみるとそれ自体に連続発作的慣性があるのかもしれませんが、一度これを現して男子に立向かってみると、男子が容易くヘナヘナになるので、味をしめて、又…というような傾向も女性側にはあるようですな、併し一種の神経病であるヒステリーを起こすべく理由なくして起こしているとすれば、これは自身の肉体のためにも、良人(おっと)のためにも慎む方が家庭のためです。

 プラトーなどはこう云っていますね、男には常に完全なるものを求める気持ちがある、芸術、宗教 道徳、何事に対しても此の止むに止まれぬ欲求が現れる―とね、文化がギリシャの昔から今日まで進化してきたのは、凡て此の気持ちの発動のおかげなのですよ、女に対しても同様のことが云える、どれが理想型かは自らも判らないし、又理想型など此の世にある筈もないが 無意識にこれを求める気持ちだけはある。
 女房が針金のように痩せていれば 栄養十分で発育良好の女性に魅力を感する、女房が小さければ大きい女に心が動く、ひっつめなら水もたれるような日本髪に、お喋りなら無口の女に、唇が厚ければ薄いのに、ガニ股なら小股の切れ上がったのにと 精神的にも実に細かい部分にまで及んで完全を求める気持ちが働く 併し此の憎めない男の芸術的な気持ちの基礎をなし、完全なもののサンプルをなすものは何かと云えば始終傍らにあって良きベターハーフである細君であります、此処(このところ)が大事な点です。

 細君を模型としてあれこれ気持ちが動く、つまり細君あっての浮気心です、ですから御覧なさい、一寸外で浮気心を動かして夜遅く我家へ戻る時など、何度車のバックミラーでネクタイを猶したり、ハンカチで頬を拭いたり、唾を吐いたり、その気苦労は大変なものです。靴音をわざと高くしてお世辞の一つも細君に云ったり―女房よりいいものはない、女房に済まない―と云う気持ちがあるからでしょう、犯した罪の償(おぎな)いとは云え、関白の亭主にこれまで自責の念を与えるなら、もうそれで十分ぢゃないですか、安心して可なりです、何も云う所がないでしょうが
 「おそいぢゃありませんか、どうしたんです…」
 などと此の上良人
(おっと)から何か引出してとっちめようなどと云うのは 良き妻の態度ではない。

 悪いと思っているものを叱り、罵ることは凡てを無にするおそれがある。夫婦間のヒビはこんな処から入り勝ちだ、大和魂ではないが、男の浮気心は止むに止まれぬ理由が根本にあることを考え、妻は自らを完全なものにし、欠点をなくしようとする所に女の進歩も夫婦生活の完成もあるわけだ、ここが大切です、自ら反省することを忘れて、男を責めるに急でありすぎるのは惜しんでも余りある。

 妻が痩せてれば豊満な女性、小さければ大きい方に心が動くのだから、妻が年齢を重ねれば若い娘に心惹かれるのは当然、と暗に云っているヨーなものである。
 「妻は自らを完全なものにし」だの、「自ら反省することを忘れて」と述べる、このヒトの「心の棚」の高さにあきれ果てる。
 この談話が出た夜、血の雨が降ったんぢゃあないかと心配になる。それとも、外でこんな暴言を吐いても奥さんは意に介さぬくらいの愛妻家で、家では妻の尻に敷かれているのだろうか?