「東京新風景撮影案内記」で81万5千おまけ
捜し物のため、本棚に差し込んだ雑誌を引っ張り出す。その中にあったのが、これ。
『カメラ』昭和15(1940)年4月号
アルスが出していた『写真雑誌カメラ』。
渋谷の古本屋で、何か面白い写真でも載っていたらいいなぁと買ったは良いが、ピンと来るモノがなく、しまいこんでいたもの。例の如く今月の更新のネタが見つからず、ワラにもすがる思いで中を見る。「読者註文帖 東京新風景撮影案内記―最も効果的な新コース紹介―」(記事・写真 石津良介)なんて記事が載っている。これだ(笑)。
以下、東京に足を踏み入れない人を置き去りにしてしまう事を、あらかじめお詫びする。
東京市内を費用一円以内で最も効果的に撮影出来る新コースを誌上案内して下さい。(東京市・藤森 関男)
と云う、読者からの「註文」に、編集部が応えた記事。
丸ノ内風景>日比谷有楽街>銀座スナップ>築地河岸>隅田川情緒>浅草風景>神宮外苑と云うコース。
朝9時に丸ビル内の喫茶店を出て撮影開始。外苑前16時半到着で、「落陽風景しか撮れませんね」と終了となる。
作例が載っているわけではないのだけど、コースの案内をしているのが、戦前撮影した銀座の写真で、今もその名が知られている(古本屋の東京本コーナーに、写真集があるのを見ることが少なくない)、師岡宏次なので「おっ」となる。
その師岡さんが、ライカを構え写真を撮ったりしている姿が誌上にあるのだ。名前と作品をどこかで見ている、写真家当人の写真と、昭和15年当時のカメラマンの格好(の一例)がわかる、二重に興味深い記事なのだ。
建替え前の丸ビル前で
雑誌奥付から推測すると、3月の撮影になる。そのため厚手の外套を着てマフラーまで巻いている。帽子は被ってない(後ろの人もそうだ)。下げているのが「ライカ」だ(型を特定する自信はない)。
記事は、
石津「費用一円以内で 東京を最も効果的に写し廻ってみたいと、こんな心臓の丈夫な註文には 流石の僕もカブトを脱いだ形です。(略)朝寝坊で有名な師岡さんを叩き起こして、今日一日東京中を引ッ張り回してクタクタにしてやろうという 何としてもこれは大変な役割です(略)」
師岡「(略)先日石津さんからお話しのあった時以来、今日の撮影のために一生懸命にコースのプランを錬っていた位です。ホラご覧なさい。この通り。」
なんて云う、二人の会話を交え、撮影場所を移動していく。「一円以内で」「効果的に」(効率的に)廻る、と云うのは当時でも無茶に近いことらしい。
例によってタテの文字をヨコにしつつ、面白い発言だけ拾っていく。まずは丸ノ内。
師岡「丸ノ内ビル街で一ばん眼につくのは何と言ってもこの丸ビルです。無風流な建物だが、昔から唄になったりして有名なもんだから 東京風景としなれば是非一役買って出て貰いたいところです。然し、建築物それ自体はカメラの対象としてそれほどの興味はないと思いますね。それよりも、僕が面白いと思って居るのは、此所から日比谷の方へ抜ける途中の赤煉瓦街。一寸古めかしい感じですが情緒的で捨て難い趣を持って居ます。」
現代的(無風流)な丸ビルよりも、「一丁倫敦」と云われていた煉瓦街―戦後解体され、2000年代に「三菱一号館」一棟だけが再建された―を良しとしている。
ズボンに折り目があるかは解らない
主筆が物心つく前に取り壊されているから、歩いたことは無いが、1950〜60年代の映画を観ていると、チラホラ映っていると聞いたことはある。
「蜘蛛の巣みたいな目障りな電線がないだけでも、どんなに清潔で写真的であるか知れません」とも述べている。電線・電柱は好き嫌いがハッキリ出るものだ。
続く日比谷で望遠レンズが登場する。
師岡「高層建築物などを被写体とする場合には、この望遠レンズを使うととても効果的です 此所でカメラの対象として興味のあるのは日東紅茶売店の建物。このヴァルコニーは気が利いて居てカメラマンとしては見逃せない所です。それから徳川時代の侍屋敷の感じを匂わした格子型のデザインのある有楽座、東宝劇場など」
これらの建物も残っていない(三信ビルも無くなったからなぁ…)。
レンズ交換をするところ
望遠レンズ。90ミリなのだけど、キャプションだけでなく、会話でも「90センチ」となっていたりする。記事を書いた人は「ローライ使い」なので、ライカレンズの長さに留意していなかったんだろうなぁ、と推察出来るのが可笑しい。右親指上に見えているのは、望遠レンズ用の外付ファインダー。カバンは持ち歩かず、コートか上着のポケットにレンズ・フィルムを放り込んでいるようだ。
最初に挙げた写真でタバコも吹かしているから、マッチもあるはず(携帯灰皿はさすがに持ってないだろう)。
有楽街から日劇(現マリオン)前を通って銀座に出る。
石津「今日は強行軍ですからシッカリ腹拵えをして置きましょう。と言って読者側からの註文で、一人当たり一円以内の費用でという条件が付いて居るのだから、余り御馳走もサービス出来ないのは残念です」
という訳で食事費用として、一人当たり50銭也支出。
メシ代で費用の半分を使ってしまった。大丈夫なのか?
しかも師岡さん、ここでフィルム切れ。
師岡「大変だ。余りはりきって写して居たらフィルムがなくなっちゃった。換えフイルムは暗室装填なんだが、これは困りましたね」
石津「近くの材料店で暗室を借りますか」
師岡「いやそれには及びません。いい工夫がありますよ。ホラ斯うして外套を脱いでうまく袋状にまるめる。それから両腕を左右から通して、外套の中でフィルムの入れ換えが出来ます。即製暗室という訳ですね。慣れるまでは中々手際を要しましたが、何ァに別に大した稽古も要らないですよ。落ち着いてやればいいのです」
フイルム交換の技を見せる
ヤラセ臭い会話(笑)。巻いた外套の中でフィルムをマガジンに詰めるのは、写真の入門書に出て来る「ダークバッグ」の代用。カメラの中で切れたフィルムを取り出す時にも使う。当時はフィルム感度が低かったので、これでも問題は―詰め替えが上手く行けば―なかった。勿論、デジタル写真時代にこんな苦労は無い。
コートの下はダブルの上着、ネクタイまで締めている事がわかる。「一張羅」か「普段着」か?
銀座のあとは、バス(5銭)で築地へ。
師岡「築地の本願寺の建物も面白いが 時間の関係上、いきなり聖ロカ病院まで突っ走りましょう」
師岡「この十字架風景は月並だけど、それでも前景の扱い方次第ではまだまだ面白い画材として研究の余地がありますね」
聖路加病院の周りも様変わりしているが、十字架のところは今でもある。本願寺(ヨコから見ると情けないのだけど)も健在。築地市場は、素人が入り込むトコロではなかったのだろう、言及がない。
築地から永代橋、そこからいわゆる「一銭蒸気」(現代の水上バスにあたる)で浅草あづま橋。船賃7銭。
師岡「大川情緒も悪くないですが、御覧なさい、この永代橋の橋梁美はどうです。弧を描いて流れるなだらかな鋼鉄のカーブ、ドッシリとした重量感、これこそ近代的な東京の都会美の一つの面です」
「モダン」な永代橋の曲線は、今はレトロな魅力で語られるようになっている。
師岡「船から見上げて橋を写す時 注意しなければならないのは」
石津「余り夢中になって身体を乗出して河の中にボチャーン…でしょう」
師岡「まぜっかえしちゃいけません。(略)大切なことは撮影動作の機敏ということです。アラアラと泡喰ってる間に、被写体は遠慮会釈もなく頭の上を通過。もう撮り直しが利かない。橋が見えたら、もう充分な待機の姿勢で、一発必中主義でカチリとやるのです。正面から一枚。グルリと振り向いて逆の方向から一枚。危ない芸当で正にスリル満点というところです」
橋を撮る、行き交う船を撮る。撮影機材は進化しているけれど、行き当たりバッタリで傑作をモノにするのは難しい。
石津「浅草に着きました」
師岡「コースは月並みだけど、仲見世から入って、観音様に敬意を払ってそれから六区へ行きましょう」
石津「写運長久を祈ってね(略)」
「武運」ならぬ「写運」が面白い。銃後の余裕と見るか、緩みと見るかは人それぞれだ。
師岡「仁王門の大提灯、鳩の居る風景 露店スナップ。ここは中々画材豊富です。露店ものと云えば桑原甲子雄氏を想い出しますが、ああした材料は浅草が一番面白い」
師岡さんと並んで戦前の東京を数多く撮った、桑原甲子雄の名前がヒョイと出るのも楽しい。
師岡「六区へ出ました。映画、芝居、漫才、レビュー、…こうした色々な匂いも入りまじって」
石津「五目めしみたいな感じだと言いたいところでしょう」
師岡「適評です。しかしカメラでは中々その五目めしの感じが出しにくいですね」
「五目めし」、と云う形容はまだ通じるンだろうか。ふだん五目ご飯なんか食べないので、主筆にはピンと来ない。
映画館の出し物は「熱情の翼」
撮影行はいよいよ終盤だ。
六区で午後四時を迎え「地下鉄で一瀉千里、神宮外苑まで突っ走りましょう」となる。浅草から外苑前まで15銭。
石津「四時半です。これでは落陽風景しか撮れませんね。『暮れゆく外苑』とでも画題を付けますか」
師岡「然し、この静かな雰囲気は何とも言えませんね。実にいい感じです。絵画館のドームが仄かに落日の中に浮かび上がって…」
石津「崇厳美ですね」
夏場であれば、あと1時間くらい撮影が出来たのだろうが、今は冬。昔のフィルムは感度が低い。手ぶれのリスクが高くなってしまう。何せ暗室で現像・焼き付けしないと結果が解らない。そうそう気軽に悪条件下で撮影は出来ぬ。
東京駅前(丸ビル)起点で日比谷銀座築地まで行き、船で浅草、外苑前へは地下鉄を使っているとは云え、効率的とは思えぬ。外苑は切り離した方が無難か(帝都の距離感が無い読者諸氏には、重ねてお詫び申し上げる)。
日はトップリ暮れた。街に灯がついて私達の新東京カメラ案内のプログラムも、これで幕を閉じようと思う。では皆さんオヤスミナサイ。
日は暮れても、まだ夕方の5時(17時)だ。カメラはお役御免にして、二人で「反省会」に出かけたに違いない。銀座に行くのか、渋谷・新宿に向かうのか。昼間はひとり一円の枷はあったが、夜はサイフにあるだけ呑み喰いしたに違いない。呑んだ場所まで書いておいてくれればなぁ…。
昼メシ50銭、銀座−築地のバス5銭、永代橋−吾妻橋船賃7銭、浅草−外苑前15銭。しめて77銭。朝、撮影開始前の喫茶店代まで入れても1円には収まる。
(おまけのおまけ)
雑誌表紙はヒゲ面の兵隊さんなのに、こんな長閑な記事が載っている。
とは云え、記事中にも
「ライカ判だと今日でも外国品が自由にとまでは行かないが、とにかく曲りなりには手に入るんだから羨ましいな。映画の方のネガを適当にカットして小型カメラ用として売っているんですってね」
「いや35oフィルムも品不足で御同様苦労が絶えません」と、フィルム不足が語られてはいる。
「フィルム飢饉時代」は切り抜けられた、とも語っているのだが、翌昭和16年12月に対米英戦争が始まることで、「フィルム飢饉時代」の方が、よっぽどマシだったなぁと、日本全国津々浦々で云い合うのかと思うと、複雑な心境にならざるを得ぬ。