ケチつけられるも宰相の務め

『軍国宰相論』のさわりで81万6千おまけ


 批判されるもの。プロ野球の監督、職場の上長、時の首相。
 人の上に立つとは、有象無象の悪口を日々突き付けられる事でもある。結果も出ないうち(仕事が始まる前)に引きずり下ろされる事もある。ともに覇を競うどころか、スタートラインにさえ立てぬ、我々凡俗に何やかんやケチをつけられるのに耐えうる(気にもしない)者だけが、信じた道を行くことが出来る。栄光が待っている保証は無い。それでも進み続けるのだから、その過程自体に、主筆なんぞの想像もつかぬ「いいこと」があるのだろう。

 高円寺の古書会館で、戦前・戦中の政治パンフの類を何冊か買う。安かったのだ。殆どは値段相応、一度目を通せば充分なシロモノだったが、内容はともかく、文章が面白いものがあったので、紹介する。
 東京情報社発行『軍国宰相論 どんな人がよい』(大沼広喜)は、昭和18年6月1日発行の奥付を持つ、31ページの冊子である。


『軍国宰相論 どんな人がよい』

目次は以下の通り。

 一、宰相の評判
 二、宰相とは何か
 三、平和時の宰相
 四、軍国の宰相 上
 五、軍国の宰相 下
 六、東條首相

 冊子の出た昭和18年、新春早々の1月1日付『朝日新聞』に、中野正剛の筆による「戦時宰相論」が掲載される。「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには誠忠に、謹慎に廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ」と結ばれたこの論考を、時の首相、東條英機が読んで激怒したことが知られている。

 何が彼の怒りを買ったのだろう?
 第一次世界大戦時のドイツの将軍、ヒンデンブルグ、ルーデンドルフを「全軍の総指揮権を握った刹那、彼らは半可通の専制政治家に転落した」、と書いたのが、軍人宰相となった我が身に対する皮肉と受け取ったのか。あるいは、日露戦争時の首相、桂太郎が、「山県公に頭が上がらず、井上侯に叱られ、伊藤公を奉り、外交には天下の賢才小村を用い、出征軍に大山を頂き、連合艦隊に東郷を推し、鬼才児玉源太郎をして文武の連絡たらしめ、傲岸なる山本権兵衛をも懼れずして閣内の重鎮とした」ことで国家の難局を乗り切ったと述べたのを、器量不足を当てこすっていると読んだのか。理由は解らぬが、名指ししたわけでもない(暗に批判しているのは確かなんだろうが)、新聞の論説に激怒したのは狭量だ。宰相の資質としてマイナスである。

 冊子を読むと、戦時の宰相として、日清戦争当時の伊藤博文、日露戦争時の桂太郎、それに続く第三の戦時首相として、東條が語られている。「戦時宰相論」への反駁のため、東條首相の関係者から頼まれて書いたモノだろう。とは云え現役の首相、かつ戦争も継続しているから、東條首相については、「筆者の知る範囲で又直観する所では先ず評判がよい」、「陣頭指揮的に活動する」、議会では「堂に這入った答弁が多い」と、評価とは云えぬ言辞を弄するに留まっている。
 そして著者は、

 戦時下の宰相を語り、東條首相に及んだが、駄文多く、辻褄の合わぬことも多く、その意十分ならざりしものあるも、余白なく、此の辺で筆を擱く、読者の諒を求む

 と巻末に記している。カタチにするのに苦労したんだろうなぁ…。
 冊子の内容は、それほど面白いモノでは無いのだが、「一、宰相の評判」が、「宰相=首相批判」に対する反論となっていて、その論調が興味深い読み物になっている。

 と云うわけで、この部分を例の改変で掲載する。

 一、宰相の評判
 宰相、即ち、内閣総理大臣なるものは、我が内閣官制が制定されてから、約六十年足らずであるが、その地位、職掌が、最高のものであるにも拘らず、現職者は、必ずしも、国民から好評を博するとは限らなかった。

 勿論、国民は、この顕要な職にある人に対して、一面絶大な尊敬を表示するが、一部の人々、政治的知識階級、又は、政党時代ならば、その反対党なる人々は、首相、その人の政策を、かれこれ批評し、そればかりでなく、一言居士なる批評家がいて、悪しざまに云わねば、気がすまぬかにさえ、見えるものがあった。
 時の宰相、内閣に付和雷同して、一にも二にも、之に迎合するのも、必ずしも、国民のよい習慣ではあるまいが、これと反対に、無闇と、内閣の政策に、なま半可な批評を加えたりケチをつけるのも考えものである。

 今は、既に、十年の昔時ともなったが、政党の華やかで、猫でも杓子でも、政党入りをし、憲政の常道とか云うやつで、政権争奪をしていた頃は、反対党の首領が、内閣の首班となった時には、何が何でも反対したのは、これは、止むを得ぬとしても、政策以外の、人身攻撃迄やるのだから、首相とか大臣と云うものは、欠陥だらけ、政策は、失敗だらけで、なってないように、新聞などには書かれたものである。
 だが、苟(いやしく)も、大命を拝受して、内閣の首班に立つが如き人は、尋常一様の凡人でなく、六千万、八千万、一億と云う国民の中でも、傑出した人であるから、そんな馬鹿々々しいことのあるものではないが、人間と云うのは、人のアラは探せるし、あれこれは云えるものである。

 まず、内閣総理大臣が崇高な地位・職掌を持つ存在であることが語られる。しかし、現職者は必ずしも国民からの良い評判を得られることは無い。
 批判されるには、それなりの理由がある。失政は云うに及ばず、人品に問題がある(パワハラの常習や贈収賄など)といった、当人の言動が招いた正当なものから、所属政党を支持しない、とにかく気に喰わないなど、批判する側の一方的な想いによるものと、如何様にでも理由をつけられる。しかし、この冊子は、それらを「馬鹿々々しい」と一蹴する。
 現在は、国会で総理大臣使命選挙が行われ、議会の多数を占める政党の代表が総理大臣に就任するが、戦前・戦中(大日本帝国憲法下)では、元老・重臣などエライ人が、この人と決めた相手に「大命降下」される仕組みである。そこは戦前の政党政治全盛期でも変わらない。つまり、立派な人しかなりようが無い建前なのだ。それゆえ国民の殆どは、その職制に敬意を払っているのに、一部のインテリ(一言居士なんて云い方をされている)、野党支持者だけが、邪な想いで人身攻撃を含む、言葉の暴力を見舞っていたとしている。
 迎合はよい習慣ではない、とは云うが、首相になる=「尋常一様の凡人でなく(略)傑出した人」なのだから、庶民は黙って従え、と云う結論になる。それは続く文章でも明らかだ。


 最近、政党内閣が退却して、軍国の内閣が組織されるようになってから、宰相に対してあれこれと、聞き苦しい批評をする新聞もなければ、人もなくなった。
 況んや、支那事変が、深刻となり、大東亜戦となってからは、挙国一致、国家の為めに奮励努力するときであるから、内閣の区々たる政策のあげ足をとる時ではない。
 その為めでもあるまいが、現首相の東條大将は、宰相としては、評判のよい一人であると云える。

 かけ声だった「非常時」から、支那事変の拡大・長期化で戦時下の日常となり、政府批判は国内の結束を乱す、利敵行為とされてしまう。必然的に首相その人への批判も影を潜める。こうなると国民は行き着くところまで引きずられて行くしかない。それが敗戦に至る歴史であった。誤りがあれば異義申し立てせねばならぬ。圧する動きには抗わなければならぬ。
 本文に戻ろう。

 一体、日本の宰相なる人々は、心なき人々のいろいろの批判はあっても、天下一流の人物であった。
 初代の内閣総理大臣となった伊藤博文は、維新の元勲たるは云わずもがな、山県有朋、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望と数え上げると、皆、英雄偉人と奉るような人々である。
 だが、最近、昭和の時代に入ってからは、以前のように、必ずしも一流の人物でなければ、内閣の首相になれぬと云うことでなく、政党の首領であれば、必ずしも一流でなくとも首相になれたし、最近では、二流、三流の人と思われる人でも、首相の位置につくようになった。
 支那事変以後、内閣の平均寿命が、六ヶ月とか云うから、仏蘭西の有名な内閣更迭のレコードが、日本に来るでないかと悪口のたたかれた位であったから、従って、必ずしも一流の人物のみで、組閣は出来なかった。
 が、必ずしも、二、三流の人物だけが、組閣した訳でなく、一流の人物として、平沼、近衛と云う、金箔のついた人もあった。


 政権批判が無くなった時代の文である。首相は皆「天下一流」の人になる。しかし、そうなる前、政党内閣時代は必ずしもそうでもなく、支那事変勃発後の短命内閣の時代もまた、二流。三流の首相はあった云う。その中でも平沼騏一郎・近衛文麿は一流としているが、現代の評価は違うだろう。

 一流の人物が、首相に適するか、二、三流の人が首相に適さないかと云うことになると、それには、又、いろいろと議論がある。
 尤も、人は、生まれながら、一流の人物になって、首相の資格を有するものでなく、政界の功績と人物の錬磨とで、一流の人物となるのだから、二、三流の人物と看做される人でも、一度大命を拝し、国政爕理に当り、その宜しきを得て、一流の人物になり、立派に首相の職責を盡すこともある。
 日露戦前に、風雲急な頃、首相の職に就任した、桂太郎公は、当時、未だ、五十四、五歳の少壮で、先ず、どう見ても、一流の人物ではない。二、三流とでも云いたい、大臣級の人物であった。
 戦前のことで、政策が、仲々むづかしい。それで、内閣の主班になる人がないので お鉢は陸軍大臣を長くやった桂大将へ廻った。
 世間の岡焼きや、悪口屋は、三日天下、緞帳内閣、の何のと批評したが、日露の風雲が雷となり雨となって、戦の嵐の中に、前後五ヶ年、日本の最長期の内閣を維持して、天晴れ、天下の大宰相となった。
 だから、二流、三流と思われた人物が、必ずしも、不適当な宰相とは限らない。これと反対に一流の人物が組閣しても好く行かぬこともある。

 就任時は二、三流の人物と見られたが、日露戦争を乗り切ったことで一流と認められた人として、ここでも桂太郎が語られる。しかし、三度目の政権は「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて」と批判され、「大正政変」の敵役として歴史に名を残すに至っている。「天下の大宰相」が時流に乗れず、二、三流に堕ちたか、「一流の人物が組閣しても好く行かぬこともある」実例となったのか。


 閑話休題だが、話は、元に戻って、現宰相の東條大将は、首相となる前の人物観としても、公平に見て、一流ではなく、先ず、二、三流、大臣級の人とみられた。
 それが、近衛内閣動揺の地震の中に、首相の印綬を帯びたのだから、一寸意外とした国民が多かった。
 然し、宰相としての点数は、やって見なければ、わからぬことで、人物の箔が少ないからとて、早く点数をつけるものではあるまい。
 前述の如く、日露戦前後の桂首相の例もある。
 そは別として、一中将、一陸軍大臣の東條が、日支事変、欧州大戦、日米交渉と、かたつばを飲む空前の緊張裡に、宰相となって、満一ヶ年半にもなったが、東條宰相は、何等迎合的意味でなしに、公平冷静に見て、可なりの好評の下に、東奔西走の奮闘であると云える。
 東條宰相の好評は、必ずしも戦時なるが為めのみであるのか、それとも、その人物手腕によるのか。
 戦は、宰相の身の上に影響もあろうが、宰相の人物手腕が、一原因かも知れない。

 著者の東條英機評価は、桂太郎に擬して語るくらい、高いモノである。それが大東亜戦争緒戦の戦果によるのか、人物手腕によるか、回りくどく記しているが、当人の手腕だと読める。しかし「宰相としての点数は、やって見なければ」判らない―戦争が終わらなければ結論は出せない―わけで、「早く点数をつけるものではあるまい」と、逃げ道は残してある(笑)。
 宰相の値打ちは、国利民福を(広く)もたらすか否かに掛かっている。「負けた戦争を始めた首相」は、人物がどんなに優れていたとしても、国家が続く限り、ケチをつけられ続けるしか無いのだ。
 云うまでも無いが、国家・社会は宰相ひとりの力で廻っているわけでは無い。また、戦争を始めざるを得ない状況を招いた人たちも責めを免れるべきではない。この冊子では近衛文麿を「一流」扱いにしているが、後の「三、平和時の宰相」の中では、

 近衛公の如きは、聡明であり、家柄は貴族として申し分ないから、平和で大したことのない時は、先ず無難な宰相たる資格を具備している。
 第一次の近衛内閣は、それに近い例と見てよい。
 だが、その次の近衛内閣はどうかと云うと、これは、平和の宰相たると、戦時前の宰相たるとを問わず、組閣、そのものに、吾人の了解に苦しむ数々があった。
 その為めかどうかは別として、組閣後の内閣は無頼の難行で、改造又改造、遂には、大命を拝辞して内閣を投げ出し、辛うじて、第三次内閣を組織すると云うことになり、好ましからぬ結果となった。

 と、点数は辛い。近衛サンが第三次内閣を投げ出したあとを任されたのが東條サンだから、当然と云えば当然か。

(おまけのおまけ)
 「一、宰相の評判」の書きぶりが面白いので、その部分を紹介したのだが、通読すると論理が雑、あるいは矛盾しているトコロが見られる。
 「三、平和時の宰相」では、

 平和時の宰相は、軍国の宰相とは異なって、国家の非常時、国運を賭して戦うと云う様な時でないから、その責任に於いて、多少軽しとも云える。身軽でないにしても、ユトリのあるのを思わしめる。
 然し、考え方では、平和時と雖、常に国運の進展に努めねばならず、戦にも備えるから一概に、楽だとは云えぬ。

 と記す。それでいて、上に引いた近衛評に続いてしまうのだ。この項の結びが、

 平時の宰相には、何人がなろうと、国運を左右する程の重責はないから、陛下の大命あるものは、何人と雖も差支えなく、その責に任すると云うてよい

 なので、ハッキリしろと云いたくなってくる(笑)。
 しかし、平時の中に変事の種子は蒔かれ、根を張り枝を伸ばす。有事・戦時にならぬよう務めるのも、「平時の宰相」の仕事だ。著者自身、「一概に、楽だとは云えぬ」とは書いている。それなのに、「何人と雖も差支えなく」と云うのは、いくら総理大臣の選考に関われないからとて、『軍国宰相論』を書く人の言葉では無い。
(おまけの余談)
 『朝日新聞』に掲載された、中野正剛の論考のタイトルは「戦時宰相論」として知られている。今回のネタのため、図書館で縮刷を見ていたら、大阪版・西部版では「非常時宰相論」と記載されていて、ちょっと驚いてしまう。
 紙面も、東京版は、中央に大きく「誠忠・絶対に強かれ」とあるのが、大阪は「国民の愛国心と同化」少し活字を小さくして「揺るがぬ強き自信もて邁進」、西部では「」絶対的強さ第一義」、少し小さく「確たる自信で国民を導け」とあって、印象が異なる。
 小見出しは、東京は「国民の愛国熱と同化」、「尽忠の至誠を捧げよ」、「謹慎にして廉潔たれ」、「天下の人材を活用」と謳い、大阪では小見出しは使わず本文の一部を大きくしている。「絶対に強きこと」、「国民を信頼せず」、「仮令英雄の本質」、「己の盛名を厭う」、「公平無私にして」、「彼は孔明のよう」と、論旨を要約・強調しないのが面白い。西部は小見出しで「国民の情熱と同化」、「匪躬の節を尽せよ」、「桂公の心の奥底」と付けている。
 本文の内容とは直接関係しない、まったくの余談だが面白い。