流線型で国産で

「トヨダ」自動車宣伝ハガキで81万9千おまけ


 出来心で、『国策と国産自動車』と云う、安くもない冊子を買ってしまう。


中央の折り目から左側が表紙、右が裏表紙


 「昭和11(1936)年7月」と記された、「東京トヨダ自動車販売株式会社」のパンフレットだ。
 「トヨダ」とは、なんて書きたくはないのだけど、世界の「TOYOTA」が、その母胎、豊田自動織機製作所の中で、自動車製作を始めた時の名称である。

 「トヨタ自動車75年史」を見る。昭和8(1933)年より試作が始まり、翌9年に自動車製作工場が出来る。昭和10(1935)年5月にA1型試作乗用車、8月にG1型トラックが完成、昭和11年9月に東京で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」が開催され、乗用車・トラック・バス(シャーシー)など15台が大々的に展示されたと云う。10月に、「トヨタ・マーク」が制定されるとともに、名称は「トヨタ」となり、現在の「TOYOTA」に至る。

 「東京トヨダ自動車販売株式会社」は、昭和10(1935)年12月に設立された、2番目のトヨタ自動車販売会社である。トヨタからの出資を受けない、独立資本の販売会社だ。各府県に一社ずつ、販売会社が設立されることで、トヨタ車の販売網は形成されて行く。
 当時、日本の国策は、国産自動車メーカーの育成、市場を占有している外国メーカーの排除に向かっていた。昭和10(1935)年8月の、「自動車工業確立ニ関スル件」閣議決定。自動車製造は、
 ・一定の数量を製造出来る企業だけに許可する。
 ・株式の過半数を「日本臣民」が保有するか、法人の議決権の過半数が「日本臣民」に属する事業者だけを許可する。
 ・既存企業(外資の日本フォード、日本ゼネラルモーターズ(GM)を暗に示す)は、「現存範囲内ニ於テノミ(略)其ノ事業ノ遂行ヲ許容」する(工場の新設など事業の拡張を認めない)
 などの原則が明言され、翌11年の「自動車製造事業法」(5月公布・7月施行)に至る。今、政府がコンナ事を云い出したら、アメリカ軍が爆弾を落としに来るぞ(笑)。
 この情勢を見て、外車の販売店が国産車の販売を志向する動きが起こる。この「東京トヨダ自動車販売株式会社」も、シボレー販売店からの転進組なのだ。
 トヨタ車の黎明期をざっと押さえると、この冊子が自動車製造を始め、市販にこぎつけて間もない時期に作られていた事がわかる。

 ページを開くと、

 最早生活の必需品とも申すべき此自動車を何時迄も此儘海外よりの輸入に仰がねばならぬ事は時代錯誤の甚だしきものとして絶対に許すべきものでなく当然自給自足を計らねばならぬ次第であります

 とある。生活必需品となった自動車を、輸入に頼るのは時代錯誤、国産メーカーによる自給自足を訴え、国産自動車の使用を勧める(つまり買ってくれと云う事だ)言葉が、読みづらい文章で列ねてある。句読点は最小限しかなく、行頭の一字下げも無いのだ。
 日本の自動車政策の動きを知ったアタマで、

 商売上の立場から輸入車販売員が心にもなき虚偽の非難を国産車に浴びせるものあるを耳にいたします

 と云う、パンフの言葉を読むと、外車から国産車販売に切り替えた、商売人の変わり身・手の平返しの凄まじさに舌を巻く。あなた方もツイ先日までは、国産自動車? まだ時期尚早だと思いますヨ、くらいの事は云っていただろうに(笑)。

 この冊子に、オマケのハガキが付いている(ハガキ付きと目録にあったのだ)。これが「世界のTOYOTA」黎明期の宣伝かと思うと、感慨深い。


 私のトヨダ

 トヨダは流線型よ
 トヨダはスバラシイ乗心地よ
 トヨダは国産自動車よ
 ドライブは断然トヨダにいたしましょう

 AA型の画が愛らしく描かれた紙面に記された、この言葉は誰に向けられたものなのか? どう見ても金出してクルマを買う人ぢゃあない。乗せてもらう方。奥さん・お嬢さん・お妾さんだろう(買う人も運転手を雇って自分では運転しないのかも知れない)。
 このクルマの「売り」は、「流線型」、「乗り心地」、そして「国産」だ。「国内生産」を謳う、農産物・水産物みたいモノである。クルマを愛国心に訴えて売ろうとしていた時代もあったのだ。

 ハガキの反対側は、こう印刷されている。


 宛先にあらかじめ「御中」と印刷してあるトコロが面白い。「行」を「御中」に書き直させる煩わしさを排除するため、敢えてしたか。
 切手貼付部には「一銭五厘をお貼り下さい」とある。「兵隊一人の値段」とも云われる―実際はメシ喰わせて教練して…とコストはかかっている―額面だ。左側に住所、氏名を記載する欄があり、右側は「御希望欄」としてフリースペースになっている。「どうぞ御記入の上お送り下さい 美しい写真をお送りします」。書いて送ったら、美麗に焼き付けされた乗用車の写真と、セールス・マンがやって来ることになる。「将を射るならまず馬を射よ」のやり口だ。

 ハガキを手にした人が、「美しい写真」を欲しがらなかったおかげで、これが現代に残った事になる。
(おまけの疑問)
 このパンフレットを作ったのは「東京トヨダ自動車販売株式会社」で良いのだろうか? 各府県ごとに独立採算の販売店が置かれ始めていたとは云え、こう云う冊子が、販売店ごと独自に作られていたとは、考えづらい。ハガキの送り先が工場になっている事を思うと、同じ内容で、販売店名だけ替えたモノが、メーカーから提供されていたのではないだろうか。
(おまけの余談)
 今回、パンフレット本文の紹介はしない。万金出した冊子だ。一度で使い切るには惜しい(笑)。
(おまけの参考)
 本文にも記した通り、「トヨタ75年史」の記述を大いに参考にしている。当時のカタログが読めるとは思わなかった。出来心でカタログに手を出さずに済む。