主筆読書録

2000年8月〜12月


8月14日

 イエローサブマリンにて「中国名机珍蔵」を発見。ついに大陸の兵器本が模型屋に入荷する時代となった。中華人民国時代からの中国航空史(当然中共寄りの)と、一般的な航空機の知識が記された良書である。掲載されている写真は北京空軍博物館所蔵のものなので、同所に出かけるまでもなく、所蔵機の概要をつかむことも出来るお得な本でもある。

8月30日

 中公文庫が血迷ったのか、戦時中の戦記小説を突如発売した。とりあえず山岡荘八「海底戦記」、日比野士朗「呉淞クリーク/野戦病院」を読む。
 「海底戦記」は伏字復刻版となっており、原著を古本屋で何千円?出して買うよりもお得。これに集録されている「印度洋制圧」によると潜水艦伊6号の艦内神社は「皇大神宮」と云うことになっている。
 「皇大神宮」は天照大神を奉った神社で、その別名を伊勢の「内宮」と云う。早い話が軍艦にある艦内神社は、すべて伊勢の末社と云うわけである。当時の天皇は神サマであったから、当たり前と云えばアタリマエの話であった。

 「呉淞クリーク」が掘り出し物で、昭和14年の作品であるが、戦意高揚モノでもなければ反戦モノでも無い(当然か)。作者の分身である一人の歩兵が、戦場に於いて何を思い、どう行動したかを淡々と描いた「小説」である。日中戦争初期の激戦−一般に云われている程、当時の中国軍は脆弱では無い−の様子を記した貴重な作品である。一読をお勧めする。モノがモノだけにこの機会を逃すと、二度と目にすることが出来なくなるのは確実。

9月3日

 出久根達郎「朝茶と一冊」を読む。あとがきにいわく
 「本の解説は、する方も、される方もつまらぬ、ということだった。むしろ、その本に関連する雑談を持ち出すと、人は耳を傾けるという事実だった。雑談が下世話な話題であるほど、人は面白がる。」
 勝てないな、と思った(血中沢木度70%)。この人の小説はまったく読まないのだが、本ネタ本だけはついつい手が伸びてしまうのである。

9月5日

 小林信彦「一少年の観た<聖戦>」(ちくま文庫)を読む。
 「国策映画」と云いながら、当時の日本映画がいかに米国映画の影響下にあったかを示す良著。都市大衆のアメリカ好きは、別に占領されたからと云うわけではなかった事がよくわかる。
 東京人で映画好きの著者が疎開してしまったため、「桃太郎 海の神兵」を観た感想が無いのが非常に惜しい! 当時観た、「轟沈」「空の神兵」「加藤隼戦闘隊」「雷撃隊出動」等(もちろん「姿三四郎」「無法松の一生」のような「名作」も含め)の映画としての評まで読めてしまうお買い得品。
 もちろん映画の話だけでなく、「モダン東京」で育った一少年が、戦争とどのようにかかわらざるを得なかったかを綴っているので、「兵器生活」読者諸賢は、是非一読をお勧めするのであります。

 「ライカとその時代」(酒井修一 朝日文庫)を読む。今をときめくニコンS3(オリジナル)を父より拝領した私であるが、流石にライカには手は出ない。
 戦前のライカ、コンタックスの価格が載っていたので購入。実は戦中カメラマンネタの増補を考えているのである。


 戦前、戦中に関する本を読んでいると、物価に関する記述が必ず出てくる。当然ながらそこでの物価は、本のテーマに関するものであるから、カメラの価格があっても大福の価格は無く、三八式歩兵銃が77円と光人社NF文庫「小銃 拳銃 機関銃」(佐山二郎)にあっても、米一升がいくらかは書いてない。様々なモノの価格を一つにまとめてみると、面白いのではないかと思っている。Excelのシートにしたら架空戦記を書こうと考えている人の参考となるだろう。←と云っても本当に「やる」とは一言も書いてないので誤解されないように!

9月11日

 唐沢 俊一「古本マニア雑学ノート」(幻冬舎文庫)読了。帯にある「落伍者のための名作フェア」と云うのは勘弁して欲しい。他人がどう云おうと私は「落伍者」になった覚えは無い(笑)。
 一部世間では「ネオ古本ブーム」なのだそうだが、軍事関係の古書がブームになっていると云う話はなぜか寡聞にして聞かない。謎だ。

9月16日

 ようやく「世界の駄っ作機2」(岡部ださく 大日本絵画)を読む。こう云うネタは一度はやってみたいが、それを可能とする知識と資料を得るコストを考えると、かなりつらい。しかし前にも書いたが、「駄っ作機」ではなく「駄作機」に<だっさくき>とルビを振った方が私好みである。
 ルビ(振り仮名)が昨今の書籍から無くなって久しい。とかく疑似漢語や人名が多い軍事関係の書籍には、やはりルビが欲しいものである。そうすれば色々と恥をかく心配も少なくなるのだが…。


 「太平洋戦争下の学校生活」(岡野 薫子 平凡社ライブラリー)読了。
 以前紹介した「一少年の見た<聖戦>」同様、東京出身者による、戦前、戦中回顧話。こちらは戦前のサラリーマン家庭(ただし後に父親は病没し、残された母子は親類からの金銭援助を得て、東京に留まる)出身と云うところと、「山の手」寄りの生活をしてるところが異なる。

 内容そのものは、現物をお読みいただくとして、こちらの著者も「聖戦」「天皇崇拝」を当然のものとしていた、と云う記述をしており、年少者への教育効果の大きさを物語っている。
 教育担当者および教育商業界にたずさわる方々、そして政治、世論操作にかかわる方々は、50年後の日本の行く末を決めるつもりで「教育改革」に取り組んでもらいたい(とここで云ったところでどうなると云うものでは無いのだが…)。


 「アーマーモデリング」10月号読了。

9月24日

 「魔窟・大観園の解剖」(満洲国警務総局保安局 原書房)読了。立ち読みした時は「おおおっ!」と思い、大枚はたいて購入し、半年放置の後に読んだのだが、民族的偏見の凄さにイヤ気がさしてしまう。時代が時代であり、著者が著者だけに仕方が無い、と云えばそれまでなのだが…。資料、猟奇読み物としては面白いし、参考になる本であるが、それを書いた日本人および日本ってそんなにごたいそうなモノなんでしょうか? と思える人以外にはお勧めしたくない。


 「中国人の思想構造」(邱 永漢 中公文庫)を読む。中国脅威論をぶつ人は必ず読んで欲しい。中国に対して色々と意見を云うのは良いことである事は私も同意見である。しかし表だって「仮想敵国」とするのは感心出来ない。
 長い目で見れば、中国も民主化していかざるを得ないし、平和裏にそれは可能であると云う内容である。悪い云い方をすれば、日本や台湾のマスコミの云う事を鵜呑みにしてはいけない、と云う事を説いた本でもある。
  邱 永漢と云うと、「お金もうけの人」と云う印象しか持っていなかったのだが、この一冊で評価急上昇である。もっとも「お金もうけ」本まで読む気は無い(笑)。

9月30日

 「アジアまぼろし画報」(荒俣 宏 平凡社)読了。戦前の米国雑誌「ASIA」の記事を紹介した本である。方法論としては「兵器生活」まんま(印度総督府の見解による)である。雑誌と云うものが、図版と文章でなりたっている以上、この方法論を採るしかないのだろう。
 内容は「ASIA」と云うアジア紹介(と旅行会社の広告)雑誌の記事で見る、戦前の日本およびアジア(日本もアジアなんだけどね)再録、と云うところか。内容自体は可もなければ不可もない無難なものである。「ASIA」の表紙については、以前荒俣本人が別な本でも紹介しているのだが、大枚はたいて購入したその本が出てこない(笑)!「アジア…」の著者紹介のところにでも書いておいてくれればこちらはラク出来るものを…。
 内容は面白いのだが、表紙が地味過ぎるし、タイトルも荒俣らしさが無い!(なんか怒ってるね)穿った見方をすれば「誰かに先を越される前に本にしちまえ」と云う意図が感じられないでもない(笑)。古書紹介と云う稼業?も因果なものである。
 たった1900円であるので、興味のある方には一読をお勧めする。


  「日本のアールデコ」(末續 堯 里文出版)を読む、と云うか見る。
 先の「ASIA」とも関連してくるテーマとして「アールデコ」の存在がある。クライスラービルだったり、カッサンドルのポスターだったり、カルビスの昔の広告(黒人問題!で引っ込められてしまったアレ)だったりする一連の表現スタイルの事である(詳細な定義は各人の辞書を参照の事)。
 戦前〜戦後日本のアールデコ商品を紹介した本である。よくもまあここまで収集したものである、と感心してしまう。
 東北地方で小作人が娘を売っていたころ、こう云う商品を買っていた人間もいた、と云う話でもあるし、そう云う商品が市場から姿を消した背景には、帝国日本の中国での「活躍」があった、と云うことでもある。また、戦後これらの商品を所持していた人が零落したために、コレクションの市場が形成された、と云う背景だってある。
 良いモノは末永く保存して、世人の眼福でありつづけてもらいたいものである。しかし本文89P「抒情画では、林静一…」と云うのはいくらなんでも杜撰が過ぎる。編集者は何をやっているんだと云いたくなる(校正者もだ)。3400円もするのだから、このあたりは気を付けて欲しい(と誰に云ってるんだろう…)。

10月4日

 馬来帰りの友人が、現地で入手した周セン(王に旋)のカセットを呉れたので、「何日君再来物語」(ホーリーチュンツァイライ物語と読む、中園 英助、河出文庫)を再読。
 周センは、1930〜40年代に活躍した、中国の歌手・女優である。亜細亜の「リリーマルレーン」とも云われる「何日君再来」の謎を解明した力作。日本軍、民国、共産党から迫害を受け続けながらも、今なお歌い継がれている名曲「何日君再来」が、いかなる経緯で広まったかを綴ったノンフィクションである。本も面白いし、曲も中々よろしいのである。

10月7日

 司馬遼太郎の「峠」(新潮文庫)を読み始める。面白い。

10月8日


 「峠」読了。面白いが、長岡藩のその後が触れられていないのが不満。己の主義主張その他の「美」の為に殉じる、と云うことはもの凄く魅力的なことではあるが、他人を不幸に陥れる「美」とは本当に「美」として賞賛して良いものなのか、と思うものの、目前の頭痛を口実に、それ以上考えないことにする。

 頭痛をまぎらわすための読書は続く。毎日新聞社「シリーズ20世紀の記憶 高度成長1961−1967」を読む。このシリーズ、先輩の「一億人の昭和史」が見るものだった反動か、読む部分が非常に多い。一冊真面目に読んでいると、2時間くらい平気で過ぎてしまうのだが、その実頭に残るものは少ないと云うシロモノで、それでいて「面白い」と云う困った本である。そう云えばこのシリーズ、軍事に関するネタが少ないようだ。


 日付は3〜4日遡るのだが、学研「局地戦闘機 雷電」を読む。私の出自はモデラーなので、技術的記述は「ほほう、これは凄い」で終わってしまうし、開発の経緯や戦歴についても「さいざんすか」と云う感想しか持ち得ない。
 モデラーと名乗っても、どうせ「雷電」のプラモを作る予定も無いので、実機写真や図版が豊富にあっても、「そのうち使えるな」(そのくせ使う予定など無い)、と冷淡なものである。そもそも私は「雷電」がキライなのだ(笑)。理由は簡単で、私には色気が感じられないからである。

 同じ帝国海軍戦闘機ならば零戦の方が美しいと思っている。太った戦闘機で許せるのは強風(まだ仕上がってねえや)までで、紫電も紫電改も、あのたるんだ尻尾が駄目である。日本人の手による飛行機は清楚・可憐であって欲しいのである。
 どうも日米戦争中に形を見た海軍単発戦闘機は、悪い意味での「なりふりかまわず」さを感じさせて面白く無い。この「なりふりかまわず」な印象はどこから来るのか、を考えるのは愉しそうなのだが、多分つまらない文章にしかならないので、これ以上の追求はやめる。

 余談が過ぎた(笑)。
 学研の「雷電」で評価される部分は、「特別企画1 究極の「雷電」デザイン」にある。
 従来、「趣味的兵器本」と云う種類の書籍は、基本的には「事実」の紹介に終始してきたと思う。あくまでも現実に存在した兵器を紹介するのが本質とされ、著者の評価はあくまでも実在した兵器と、兵器そのものは存在出来なかったが、少なくとも現実に存在した計画についてにのみ、述べられている。
 「私ならこうするね」と云うプランは、一部の例外(といっても私はフットワーク出版社 福島 巌「日本陸海軍 幻の最強兵器シミュレーション」くらいしか実例を知らないが)を除いて、兵器本界からはキワモノ扱いされてきた。
 正直なところ、モデラーとしての立場に立てば、この「究極…」もやはりキワモノであり、「兵器資料本」には無用のものと位置づける。しかし、「兵器生活」主筆としては、「兵器資料本」にこのような記事が登場したことを大いに歓迎するのである。

10月9日

 イエローサブマリンで、「STEEL MASTERS」1996−12−1997−1月号(とでも云うのであろうか)を購入する。ヴィッカース6トン戦車の記事が掲載されているように、表紙から推察されたからである(ああややこしい!)。各タイプの図面が掲載されており、金を払っただけの価値はある。しかし1/76の図面はないだろう、と贅沢の一つは云いたい。図面が読めないぞ!

10月11日

 宮部みゆき「蒲生邸事件」(文春文庫)を読み出す。面白い。実は初出(「サンデー毎日」に連載)の時から読む機会はあったのだが、読んでいなかったのである(元々現代の小説は面倒なので読まないタチなのだ)。それが書評で「面白い」となり、しかも日本SF大賞まで受賞してしまい、いよいよ「しまったなあ…」と思っていたところで、文庫化されたので、ようやく読んでみる気になった次第である。設定はSFで、内容はミステリで、舞台は歴史モノと云う、まったく困った本である。

10月18日

 櫻井 忠温「肉弾」(丁未出版社)読了。「蒲生邸事件」も、読み終える。現在は「九軍神は語らず」(牛島 秀彦 光人社NF文庫)を読んでいる。

10月19日

 「九軍神…」読了。合わせ技で「復刻 「少年マガジン」カラー大図解」も読み返してしまう。兵器系のネタが無いかと探してみたのだが、その手の「大図解」は残念ながら掲載されていなかった。時期がもう少し古いのだろうか。

 兵器情報がどのように伝播されたのかを解明しようと意気だけは盛んな「兵器生活」としては、戦後少年雑誌における兵器話にも、ゆくゆくは手を出さざるを得ない、と思っている。しかし、戦前・戦中でさえこのていたらくであるから、いつになることやら…。

10月29日

 山本夏彦「百年分を一時間で」(文春新書)を読む。同新書「誰か「戦前」を知らないか」の続編にあたる本である。例によって、老い先短いオヤジが好き勝手しゃべっているのに、何故か面白くて為になりクセになりそうな困った本である。

 「プロレタリア文学はものすごい」(荒俣宏 「太陽」の休刊を決めた平凡社新書)を買う。まだ開いてもいない。アリャマタコリャマタ先生の魔の手は、こんなトンデモナイ領域まで伸びてきてしまったのである。今時誰が読むんだ、と云う「プロ文」をあの好奇心のカタマリがどう料理するのかが楽しみであるのとともに、軍事雑誌領域に目を向けないことを切に希望する次第である。しかし「決戦下のユートピア」で戦時中の生活ネタに手を出してそのまま、と云う事を思うと安心も出来るのだが、私の印象では絶対接点が無いと思っていた「プロ文」と「アラマタ」が結びついた今、何があっても不思議では無い。
 しかしこの本によって「プロ文」いや、共産主義が再びブームになったりしたら、それはそれで×××。

11月1日

 「プロレタリア文学はものすごい」(荒俣宏 平凡社新書)読了。久々のアラマタパワー全開の書である。只の著名人を必要以上に怪しく紹介することにかけては定評のある氏であるから、面白くないわけがない。日本現代文学史に興味のある方は、是非一読されたい。ただし紹介された本を読んで「つまらん!」と思っても責任はとりませんよ、私も読んでいないのだから…。
 まったく根拠もへったくれも無いが、多分荒俣氏が兵器本に手を出す事はないだろう、と意味もなく確信する。

11月15日

 本屋で「文藝春秋」を購入。電車の中吊りで<『「捨てる!」技術』を一刀両断する>(立花 隆)と云う文字を見たからである。内容そのものは、読者諸賢誰しも思う事を理路整然と並べ立て、最期に今の社会(政治家)を切り捨てる、いかにも文春好みのものである。したがって内容そのものには立ち入らない。「同感」としか云いようがないからである。
 この文章のポイントは、

 (略)この本は一種の強迫神経症にかかった人が書いたものだということがよくわかる。

 と云う著者その人にまで向けられた批判にある。本文は以下延々とその理由が説明され、この部分の最期は

 著者のようにブチ切れて、すぐにじゃんじゃん捨てはじめるほうがおかしいのである。

 で結ばれている。無知と偏見と独断と暴言妄言の「兵器生活」主筆だってここまで無茶な言葉は使わない(ようなるべく心がけている、と日記には書いておこう)。

 私に限らず、軍事趣味(戦争趣味に非ず)や模型趣味に走っている人は、程度の差はあれ「捨てない人」であると思う。配偶者、恋人、親、子、同居人、友人等々から「捨てなさい」と云われて悩んでいる人、あるいは「捨てさせよう」と思っている人は一読をお勧めする。

 「他人の”とっても便利”は私の”じゃま”」ということには気がつくのに、どうして、「”他人のじゃま”は私の”大切”」ということもあるのだということに気がつかないのだろう。

 と云う一文は、たんなる家庭の問題に留まらず、人類社会全体にかかわっている。”じゃま”と云う言葉を”不便”に置き換えてみれば、良くわかると思う。

11月28日

 「三国志 きらめく群像」(高島 俊男 ちくま文庫)読了。中国文学史の立場から、「<演義>ではない三国志」に登場する人物を、例の辛辣な文体でつづる、と云うもの。

12月14日

 橋本 治「これも男の生きる道」(ちくま文庫)読了。基本的には「貧乏は正しい!」シリーズ(小学館文庫)や「失楽園の向こう側」(ビッグコミックスペリオール連載中)と同様の内容であるが、若い人や人生に迷っているような人は読んでおいた方が良い。そうでない人も読んで損は無い。

 小田 空「中国いかがですか?」(創美社/集英社)読了。年一回ペースで中国に出かけているせいか、中国旅行記の類は、なるべく立ち読みくらいはするようにしている。面白そうなモノは自腹で買う。
 10年前は、中国に単独渡航する事自体が本のネタとなっていたのだが、近年は色々差別化を図らないと本屋も出してはくれないようで、留学生活ネタだったり、屋台ネタだったり、対中国ビジネス顛末記だったりと、バリエーションは増えて来ている。
 しかし、依然としてウケるのは、「中国(に限らないのだが)ビンボー&失敗話」か「カルチャーギャップ話」か「中国は凄いorもうダメだ」と云う内容のようで(実際面白いモノは面白い)、読者としては、そろそろ別な切り口の中国モノの出現を期待したい。

 一介の勤め人である私が、今更長期留学や僻地への旅行なんぞ出来るわけもないので、そう云う系統の本を読んでいても、どこかで「こいつらには勝てないなあ」と云う寂しさを感じてしまうのである。

12月17日

 「図説 ロボット」(野田 昌宏 河出書房新社)読(?)了。発売の情報を知ってから、早く入手したいと思っていた本である。SF系ファンの読者諸賢には説明する必要も無いが、兵器原理主義の読者諸氏の便宜のため、少し解説する。
 この本は、TV番組製作会社社長にして、SF翻訳家・作家・研究家である氏の「野田コレクション」から戦前からの米国SF雑誌等に掲載された、ロボットのイラストを集めたモノである。好きな人にはたまらん本である。
 「兵器生活」のコーナーである、<新案・珍案兵器戦術博覧会>も、実は多大な影響を受けている。もっともこちらはネタ切れ状態になって久しい…。

12月24日

 島田 豊作「マレー戦車隊」(河出書房)、「サムライ戦車隊長」(光人社NF文庫)読了。ただし「サムライ…」の主要部分は「マレー」の全部であるので、「サムライ…」は真面目に読んだのは一部である。人間回り道も必要だ。

 「ストリートファッション1945−1995」(パルコ出版)を購入する。ウチのページとは殆ど関連性の無い本であるが、戦後史理解を側面支援する名目で購入。

 山中 恒「新聞は戦争を美化せよ!」(小学館)を購入する。副題の<戦時国家情報機構史>とあるように、戦中の情報統制の実態を明らかにする本(らしい)。正月休みに読むには丁度良いボリュームである。こう云う本を「SAPIO」の小学館が出すところに日本マスコミの力(否定的側面でこの言葉を使ってみた)を見る思いがする。
 しかし天下の小学館で4830円はちと痛い。

12月26日

 「ストリートファッション1945−1995」(パルコ出版)読了。<アプレゲール>や<渋カジ>あたりまでは、大脳をフル回転させることで追随出来た(ような気がする)のだが、90年代に入ってしまうと、正直云ってチンプンカンプンである。情けない。

 年代ごとの差異を楽しむ、と云う意味においては、兵器もファッションもたいして変わりは無いと云う事に今更ながら気付いた次第であった。で、ストリートファッションについても、年代ごとの細部の違いなど、私にとってはどうでも良いことである事を意識させられたのであった。


 「図解 茶の湯の心くばり」(原 宋哲 黙出版)読了。私にとって「茶」とは、所詮急須にお湯を淹れるか、お湯の中に紙パックを放り込むかのいずれかでしか無いのだが、総合芸術あるいは哲学としての「茶の湯」に関しては興味がある。

 「茶道の本」と云うと、世間では単なる茶会対応マニュアルとしての意味づけしか持たれていないようであるが(実際単なるマニュアル本と云うものも数多く存在する)、「茶道は日本古来のCS文化だ」などと云う単元を持つ、この本は単なるマニュアル本とは違う面を持っている(とは云え、基本はマニュアル本だけどね)。

 この本や、その他の本を読む限りでは、「茶の湯」と云うもののキモは、亭主(茶を出す側)と客が、<茶室>と云う隔離された異空間で、お互いの人間としての基本性能(人格、経験、知識、教養)を総動員して、一つの濃密な時間を創り出すものらしい。まあ将棋漫画で駒が光ったり、必殺パンチが決まると何故か背景が宇宙空間になってしまう世界と云うやつですな。
 で亭主と客の世界観がまったく異なってしまうと、利休と秀吉のような悲劇も生まれると…。


 これを別な趣味に置き換えるとなかなか面白いのである。
 例えばオーディオマニアにおける気合いの入ったリスニングルームなどは、明らかに上等な茶室に匹敵する。兵器趣味者の自慢のコレクションは、茶道具である。ファミレスで密かに行われていると云われている、プラモやガレージキットの品評会も、<お道具拝見>以外の何物でも無い。
 赤瀬川原平らの<中古カメラ茶会>は、それを意図的にやっているわけである。

 「図解 茶の湯の心くばり」によると、茶道の奥義は、文章にして部外者に公開してはならないものである云う…。

12月28日

 土門 周平「戦車と将軍」(光人社)読了。帝国日本戦車生みの親の一人、原乙未生の評伝。<山下視察団>のくだりまではテンポ良く読ませるものの、それ以降の描写にキレが無いのが惜しい。読み物としては不満である。

 「グランドパワー」2001年2月号<日本軍機甲部隊の編成・装備(1)>斜め読み。昨今のはやりなのか、色々詰め込んで何も印象に残らない編輯となってしまっている。記事そのものの内容を云々する事は出来ないが、知識がついたような気になる事は確かである。
 ここいらで個別の車輌(九七式中戦車、九四式軽装甲車 等)に特化した編輯があっても良いと思うし、市場はそれを必要としているはずである。どうも一部の戦車だけが優遇されすぎているように思えてならない。決して写真がクリアーとは云えない洋書が注目される以上、和書においても一車種一冊でのリリースは商売になるはずであるし、ならなけれぱ日本古典戦車界の未来は無い。

 「フネには手を出さない」と云いつつ、「世界の艦船」2001年2月号を購入する。<特集・21世紀の軍艦>と題して、今後10〜20年後に登場するであろう軍艦の紹介をしているのだが、戦艦大和でアタマの発育が止まっている私から見ると、ゲテモノにしか見えない軍艦ばかりである。米英の軍艦設計者はみんな火星人に違いない。


 なんでわざわざ「世界の艦船」なんぞを購入したかと云えば、手元にある「学生の科学」昭和15年10月号の口絵の<未来の軍艦>をネタ化するために他ならない。60年前の<未来の軍艦>を描いた絵師が、21世紀型軍艦を見たらショックで首をくくるのではないだろうか…。

12月31日

 田原 総一朗「日本の戦争」(小学館)を読み始める。何故、「勝ち目の無い戦に手を出したか」を検証する労作。私の大嫌いな(笑)雑誌「SAPIO」に掲載されていたもの。まったく小学館のバランス感覚には恐れ入谷の鬼子母神である。真田一族のようだ。
 もともと一冊の本になるようなテーマを複数取り上げているため、個々のツッコミが甘い! と思われる方も多かろうが、一冊で手軽に済ませたい(済む問題か、と云う向きもあろうが)時には重宝するだろう。

 歴史認識に限らないが、個人の思想、信条に関する書籍は、本人の評価=価値にかかわるものであるから、とりあえず世の中にどういう意見があるのかは、一通り感じておいた方が良い。複数の意見を使った方がハクが付くと云うものです。特定の人の意見を鵜呑みにするのは恥ずかしいし…。