一人平均七円程度

上田市の飛行機献納要綱


 (ビンボーな)帝国陸海軍のため、篤志家や企業、各種団体がお金を出して兵器を献納したことは、「愛国号」「報国号」の名とともに知られている。しかし、そのお金がどう云うルートで軍に納められ、兵器に化けるのか―「このお金は絶対戦闘機に使って下さい」なんて要望が通るのかも含め―実のトコロよく解らない。

 今日の自衛隊に「愛国号」「報国号」に相当するモノが無いのは、その仕組みをもはや誰も思い出せないからなんじゃあないんだろうか、と思ったりしている。

 骨董市でこんな紙切れを見つけてきた。


大東亜戦争"上田号"飛行機献納要綱

 
 愛国の血潮今ぞ頂点へ…一機でも多く

 大東亜戦争"上田号"飛行機献納要綱

 主催協力団体
 翼賛会上田支部
 上田市区長会
 上田市連合軍人分会
 大日本婦人会上田支部
 上田市青少年団
 上田市翼賛壮年団


 上田市民の愛国心に愬う

 飛、飛、飛行機さえあれば!
 飛行機を前線に送ろう!

 学生は校門から戦線へ、女は競って挺身隊に、徴兵は十九才から、男子徴用年齢は四十五才に引上げられる、こうして銃後も精一杯の戦力増強へ進軍している、それでも米英軍がヂリヂリと祖国日本に迫る勢いは阻止出来ぬ。アッツの玉砕、タラワ、マキンの玉砕……ラバウルを護り、玉砕を食止め、敵米英軍を撃滅するには何が必要か、飛行機!飛行機!飛行機さえあればと前線の将兵は食糧や慰問品を撥ねる返しても飛行機を送って呉れと悲痛の叫びをあげている、前線に歯ぎしりして戦う父の、夫の、兄の、弟の、倅の!此の血涙の叫びに応えるのが飛行機の献納だ。国敗れて何の山河ぞや……長野県から計一〇〇機、上田市で三機、今こそ上田市民四万玉砕に代る愛国の至情を燃し、忠誠心を凝結せしめよう。

 献納機 三機 約廿四万円(上田市民に割当れば一人平均七円程度)

 一、献納者名簿保存 今回の献納者は大東亜戦争『上田号』飛行機献納者名簿に記して子々孫々へ伝う

 一、受領証 受領証は各人へお渡しせず市公報へ逐次発表して之に代う

 一、各区献納名簿 各区に於て作製、(区公会場等へ掲出も可也)保存の事

 一、取纏めは壮年団、区長さん各種団体幹部と協力して壮年団が責任取纏めを行う

 一、締切 二月五日限り

 特志献納
 特別な大口献納者や、特志な献納者がありました場合直に壮年団本部へ御通報下さい。


 ○金属類一切献納決議
  各種団体協議会、市常会、各区常会等に於て決議、今後金属類は見つかり次第献納いたしましょう。市役所持込、一月二十七、八両日


 必勝の鍵は飛行機だ!

 長野県上田市(『真田氏』の城下町)の翼賛会が、市民に呼びかけたチラシだ。

 この背景を『信濃毎日新聞』(上田市立図書館蔵)で追いかけてみる。
 昭和18(1943)年12月20日、タラワ・マキン守備隊玉砕が大本営から発表される。
 12月22日午前、首相官邸で行われた臨時地方長官会議にて、東条首相より航空戦力増強への邁進が説かれる。
 昭和19(1944)年元旦、長野県翼賛壮年団(26歳から45歳までで構成される)の都市団長会議が開催され、「タラワ・マキン両島玉砕部隊復仇米英撃摧軍用航空機献納運動」を含む指示が出る。
 1月11日、翼賛壮年団の上位組織である翼賛会常務委員会は、本年最初の会合を開き、先に翼壮が決めた航空機献納運動を、「翼壮だけの運動とせず一大県民運動として決行することになった」。

 こう云う動きの中で、このチラシが制作・頒布されている。

 

『信濃毎日新聞』19年1月13日付

 新聞によれば、

 即ち二月中旬までに飛行機百台献納を目標に翼壮、翼賛会一体の強力な「飛行機百機献納運動」を起こし各都市へ割当て 家庭は勿論各種団体の金属回収、勤労奉仕の謝礼金等をこれに当てることになったが 現金徴収は極力廃して 不用不急金属と労力により目的を達成しようというのである 

 との、活動方針が示されている。
 「県民の赤誠を結集」とありながら、実態は「各都市へ割当て」(要はノルマだ)。
 はたして一ヶ月ちょっとで、飛行機百機分8百万円(さきのチラシから、一機8万円と換算)が、勤労奉仕の労賃と金属回収(昭和16年からやっているはずだが、まだかき集めようと云うのか)でまかなえるのだろうか?

 目標達成のヒントは23日付の新聞に出ていた。


『信濃毎日新聞』1月23日付

 野たれ死でも覚悟
 老後の蓄えみんな…

 子供のいない69歳の女性は、「例え金を持っていても戦争に負けたらみんな憎い毛唐に取られる」と、「数年間の苦しい貯金五百円をそっくり」差し出して村長を感激させた。


 孫の乗る飛行機だ
 前線からも「頼むぞ」と棒給割いて

 ある集落での献納資金割当の場では、昨秋孫を甲種飛行予科練習生に送り出した65歳の女性が、「孫の乗る飛行機献納の資金なら私の小遣い銭から」と十円を差し出し、さきに前線から「米鬼英鬼をやっつけるには飛行機以外にはない」と、棒給から貯めた額面八十円の通帳を送りつけて村中を感激させていた上等兵の父親は、二円の供出を申し出る。これに他の常会参加者も続き、18戸に割当られた170円をその場で達成して、村内一番の好成績を達成した。


 この「美談」が示すのは、「現金徴収は極力廃して」の方針に拘泥せず、早く割当額を達成する方が望ましい、と云う身も蓋もない事実である。
 この記事の隣には、松本翼壮の活動が「街へ繰出す"回収隊"」のタイトルで紹介されているのだが、そもそも8万の人口を擁する都市と、18戸の集落が同じ活動を展開するのは無理と云うものがある。

 老後の蓄えを全部はき出し美談の主になってみても、戦争が終わるまでまだ1年と半年もある。この人はこの先に要請される債券などの割当を、どう切り抜けていったのだろう…。
 よその地区はさておき、上田市の成績はどうであったのか?


『信濃毎日新聞』2月16日付

 2月15日時点で、24万円の目標に対し、未収の一部法人分を除き25万4990円に到達。「わずか半ヶ月で見事愛国運動の実を結んだ」のみならず、「27万円をこす見込みである」と云う。立派なものだ。


 『長野県政史』(第二巻)掲載「大政翼賛会県支部主要実践活動一覧」には、「航空機100機献納運動(116機献納)」と記されている。
 運動は大成功だったと云える(戦争には負けましたが)。

(おまけ)
 上田市の献納運動が成功裏に終わったのは良しとして、それが全部「愛国号」になったのか、一部は「報国号」に廻ったのか、戦闘機か爆撃機か、「兵器生活」読者諸氏が最も関心を向ける、資金の行き先についてはサッパリわからない。ご当地戦闘機の存在が明確になれば、地域商業と模型業界に少しは貢献出来ると云うのに残念な話である。

 献納機つながりと云うことで、こんな資料が出て来た。


「報国第八十四号(第一児童号)命名式に当りて」

 平和な時期の事であれば、献納機の命名式が挙行され、関係者に記念の絵はがきが配布された事は知られている。
 これは昭和10年9月7日の命名式で来賓に配布されたしおりである。
 冒頭挨拶文の後半は、こう記されている。

 将来本機が何れの方面に行動せしめられるに致しましても、常に献納者の御精神を機上に載せて、何時にても直ちに軍事上の要求に即応し敏活なる行動に移り得るよう常に待機の姿勢にあることは申す迄もありません。斯様に優秀なる軍用機であり且つ何時実戦場裡に活躍するやも知れない関係もありますので、別表にお示し致します以外詳細な性能等も発表致し兼ねますと同時に、写真等の撮影に致しましても遠方から見ました全体的な概観以外、同機の細部的な撮影は此際御遠慮下さるよう特にお願致し置く次第であります。

 スポンサー向け文書のせいか、低姿勢で「細部撮影禁止」を訴えているのが面白い。
 「別表」は以下の通りだ。


要目表

 なんてヒドイ図面なんだろう(笑)。