ハイクする人々の参考に

ハイキングと要塞地帯法


 「兵器生活」更新のため、ネタの収集を続けていると、何でこんなモノを買ってしまったんだろう? と思う古本雑誌が、総督府に積んであったりする。

 例えば、古本屋で一束ナンボで売られていたコレである。
 買った理由は「手ぶらで店を出るのが忍びなかった」&「安かった」と云う、実に消極的なもので、そう云う買い方をしたものは、そのまま日の目を見ることが無い。


『軍機違反』には非ず

 この「純旅行雑誌 ハイキング」(ハイキング社発行)、手持ちのものを見ると、古いものは角書きが『純旅行雑誌』、新しくなると『徒歩旅行雑誌』に変わっている。
 内容は、軽登山から郊外散歩、冬場はスキーと記事はさまざまで、昭和戦前期のレジャー史のネタ本に使えそうなのだが、期待した服装や装備の話があまりなく、正直持て余している(笑)。
 『純旅行』の『純』は、『純喫茶』のそれと同じ意味なのだろうが、『純喫茶』の看板は今でも探せばありそうだが、ハイキングを『純旅行』なんて云う人はもはや居るまい。

 本屋の袋に入れたままでは、早晩化けて出るので、昭和7(1932)年8月号に掲載された以下の記事が面白かったので、今回のネタとする次第。
 記事が長めなので、途中に解説と与太を入れ、例によって改行・句点挿入等を施してある。

ハイキングと要塞地帯法
斉藤 文一郎

一、はしがき
 本誌五月号に「ハイキングとしての三浦半島」と題して、中井修二君の極めて有益な記事が掲載されていましたが、其中に、三浦半島は軍事上枢要な地で、要塞地帯に属すると述べて居られますが、今二三要塞地帯をハイキングする人々の参考に供したいと思って本稿を草しました。



二、ハイキングに適する要塞地帯
 国防上の必要から、我が日本には随分沢山な要塞が設けられて居るが、問題の起こりそうな所は、
  東京湾要塞、即ち三浦半島と房総半島。

  由良要塞、即ち和歌浦より淡路島、鳴戸(ママ)、撫養。
  下関要塞、即ち下関、壇の浦、小倉、八幡
 及び海軍だけに関係して居る呉要塞地の呉軍港、厳島等で何れも風光明媚な名所旧跡の地である。
 此等の地方をハイキングするのに、問題になるのは写真の撮影、風景のスケッチ、地形の録取及地図等である。


 先ず要塞地帯の旅行を計画するのに、五万分一より大(一字不明)尺の地図は秘密であるから手に入らない。
 折角の旅行で、よい風景と思ってスケッチや撮影をやると、要塞地帯法に触れて処断せられるからミリタリズムを呪わしくなる。僅少の区域の写真が幾何の害があるか、と反問も出るが、要塞の生命は其要塞の兵備ばかりでなく、其地帯内の水陸の形状、交通設備等にも関係するのである。
 兵備は改変が出来るが、水陸の形状は改変が不可能で、一度此等を盗撮せられ敵国に知られると云う事は、仮令一小部分でも苦痛此の上もない事で、世界各国共に法令に依て取締て居る。


 本文に入ったとたんに、文体が硬くなる。
 この号の編集後記に、「筆者工兵小佐斉藤文一郎氏は、陸軍省軍務局防備課に勤務せらるる方で御座いますが、年々要塞地帯法違反者が増加するのを慨かれ、この一文を本誌に御寄せ下すったのであります」とある。現役の軍人が、自分の職務に関わる記事を書く―上司も読むだろう―のだから、カタイ文章になるのはやむをえまい。
 「ミリタリズムが呪わしくなる」「幾何の害があるか」のくだりは、『大正デモクラシー』を経て、『非常時』に入る手前の民情がにじみ出ている記述だ。

 本記事のテーマ『要塞地帯法』は、日露戦争前の明治32(1899)年に出来た法律であるから、施行後30年を経てもなお、一般市民への浸透がなされていなかった事になる。同時期に『軍機保護法』も公布・施行されているのだが、「軍事上の秘密」―兵器や用兵など―の探知・漏洩は、当人が意図しなければ実行出来るものではない。しかし、ただの「よい風景」を記録する事が、場所によっては犯罪になってしまうことは、特に旅行者には納得しづらいものがあったのだろう。
 記事に戻る。


三、要塞地帯法
 要塞地帯法は、要塞防備諸機関の秘密保持上及要塞防備の必要上の諸件を規定したもので、其制限は文化、公衆の利益住民の利権等と国防の重要性とを較量して、必要の最小限度にせられてある。


 要塞地帯と云うのは国防の為建設した諸般の防禦営造物、例えば砲台、弾薬庫、観測所、電灯所等の周囲の地域で、陸地と水面とを問わず三区に区分して、其の区域に従って制限が異なる。第一区は此の営造物から約五百米以内、第二区は約千五百米以内、第三区は大(ママ)約四千米以内であるが、此の第三区の外方更に六千三百米迄(第四区と云うべき所である、通常区域と称して居る)は、何人も要塞司令官の許可を受けなければ水陸の形状の測量、撮影、模写、録取することが出来ない。航空は、更に陸軍大臣の認可を受ける必要がある。漁猟や採藻及艦船の繋泊することは第一区内では禁ぜられて居る。

 又、要塞司令官は地帯内にて、兵備の状況其の他地形等を視察すると認めた時は、之を地帯外に退去せしむることが出来る。
 此等の禁を犯した者は処罰される。昨年米国飛行家のパングボーンとハーンドンとの二人が共謀して無断で津軽要塞地帯を飛行した外に、函館付近の第一区の地形を、活動写真に撮影したので罰金に処せられたのは周知の事である。
 要塞地帯法の第二十二条には、禁を犯した者は一年以下の懲役若は十一日以上の拘留、又は五十円以下の罰金若は二円以上の科料に処すと明示してある。


 「パングポーンとハーンドン」は、青森の三沢から、初の太平洋無着陸横断を成功させたコンビとして知られている。日本人でさえひっかかる法律を、アメリカ人が知る由も無い(真偽はさておき)のだが、罰金で済んでよかったね、と云うしかない。
 記事中、「五百米」、「千五百米」、「四千米」、『通常区域』は「六千三百米」とあるが、条文は、「二百五十間」「七百五十間」「二千二百五十間」「三千五百間」で、記事はメートル法に換算されている。この頃には、距離に関してはメートル法の方が一般的になって来ているようだ。
 なお、区域の間隔は、昭和15(1940)年の改正により、「千メートル」「五千メートル」「一万五千メートル」に拡張、ついでにメートル法表記に改められ、必然的に「六千三百米」の『通常区域』は廃止となっている。
 再び記事に戻る。


四、地帯の標識
 要塞の地帯各区域には標識を必ず設けてある。此の標識の大きさ、設置の場所とか間隔とかは、其の地方の状況や地帯取締の必要を顧慮して設けるが、通常境界線の外方に向けて樹てて、要塞地帯内で、公衆の集合する場所とか、主要な道路とか、停車場とか、埠頭とかに見易い様に樹ててあるから、自分がもう地帯の何所に居ると云うことは直ぐに判明するが、猟師とか山男とかが通る様な小道には樹ててない所があるから注意が要る。


(イ)地帯標(区域標)

 上図は第一区地帯標を示す。第二区地帯標には F Z 2ndZと、第三区地帯標には F Z 3tdZ と記入す。
 区域標は第三区の外方六千三百米の区域を示すもの。


ロ)区域の境界線には左の標札を樹ててある。場所に依っては欧文がない。


(ハ)第一区の水面には左の標札が樹ててある。

(ニ)区域の境界線中の鉄道線路付近には左の標札が樹ててある。


(ホ)乗船上陸地又は列車内より望見し得る地点等には次の標札が樹ててある。

 標柱(地帯標)は、今なおかつての要塞地帯に残存しているものがあるようで、ネットで検索すれば、そのいくつかを容易に見ることが出来る。立て札の方は…外向に設置してあるから、一般人の手では、写真などには残しようが無い。


五、東京湾要塞
 東京湾の陸海軍営造物の地帯及区域は、要図の通りで実線以内は地帯で点線以内は区域であるが、此の内撮影と模写と録取とは、次の区域は制限を解除されている。


 鎌倉町の大町、小町、浄明寺の全部、鎌倉町の二階堂、雪の下、西御門、扇ケ谷、長谷、坂之下極楽寺及逗子町の小坪、桜山の一部及円覚寺及建長寺境内。
 詳しい事は要塞司令部か、当該区域所属の市町村役場、警察署、憲兵隊に備付の図面があるから之を調べれば一目瞭然である。


 東京湾要塞は、横須賀鎮守府司令長官と、要塞司令長官とが地帯を分割して管轄して居る。大体要図の「……」線内は鎮守府司令長官が管理して居る。其他は大概要塞司令長官の管理に属して居る。
 伊豆の大島は未だ要塞地帯になって居らない。


 東京にあった『要塞』と云うと、『お台場』か、横須賀の戦艦三笠の横から船が出ている『猿島』(上の図には記されてない)を思い浮かべるのがせいぜいなのだが、この図を見るとなるほど三浦半島の殆どと、房総半島の片面まるまるが、要塞地帯(実際には『地帯』と『区域』に分かれているが)と化している事になる。
 この記事は、あくまでもハイカー向けのものであるから、写真撮影やスケッチに関する注意に留まるが、第一、第二区内では、家屋等の新設にはその筋の許可が無ければならぬ等々、要塞建設以前からの住民に、不便を強いている事は云うまでもない。

 さて、本文には、「伊豆の大島は未だ要塞地帯になって居らない」とある。
 戦後書かれた「日本築城史」(浄法寺 朝美、原書房)には、
 「大島には大島第1と第2砲台建設のための、用地買収が終わったが、未着工のため要塞地帯法は敷かれなかった」の記述がある。
 アジア歴史資料センター公開資料を調べると、『東京湾要塞大島地区防禦営造物建設々計要領書送付に関する件』(レファレンスコード C01002569000)と云う記事が見つかる。これは、『大島に設置される防禦営造物の設計資料を要塞司令官に送付するので、あとは内規に従ってヨロシク♪』と云う、昭和4(1929)年9月6日付のもので、送付資料は昭和2年10月3日付『東京湾要塞整理建設要領書』に基づくものと云う。記事の「未だ」には、昭和4年夏前に用地取得が済んだものの、工事着工には至ってないとの意味が込められているようだ。
 これから作る要塞のありかを、民間人向けハイキング雑誌に書いてしまって良いのだろうか? と不思議に思うところだが、当時のモノの考え方は、現場・現物が分からねば、問題は無いらしい。
 余談がだんだん長くなっているが、記事本文に戻る。


六、撮影、模写及録取の許可
 地帯内の禁止制限の解除を告示せられてあるものは問題でないが、禁止制限せられてある事項で許可を受けるには、其管理して居る長官に出願すればよい。ハイキングをやる場合に記念の写真を撮す時は、前以て撮影目的、撮影期日、撮影場所、撮影本人及其住所等を明記して、長官に願い出て許可があれば許可条件に随って撮影が出来る。

 水陸の形状、地表の高低、地物の実況等が現れないで、単に神社、仏閣及防禦営造物にあらざる建築物の撮影模写は、法律で禁止する所でないから長官に願い出れば多分許可せられるが、此の許可は長官の考え一つであるから、撮影本人の素行が極めてデリゲート(ママ)な関係があると思う。即ち許可を名として、其付近に在る防禦営造物若しくは水陸の形状を窺写する虞ある者は、厳に取締る必要があるのである。

 模写は水陸の形状が現地と同様であったり、五万分の地図の様に詳しかったりすると、秘密保持の必要から処断せられるが、大体二十万分の地図程度のものは許可になる。
 此の模写は他人が許可されてあるから、此れと同一であるから許可を受けないでよいと云うのではない、矢張許可を受けるのである。一寸面白い例は阿波の鳴戸
(ママ)の名所スタンプに、逓信省が要塞地帯を模写してあるので要塞司令官に許可を受けて居る。
 録取は記録であるから地図の様に詳しくは書けないが、地図を見ると同じ様な価値のあるものは禁ぜられるから、模写と同じ様に、此の様なものを作製したから発行分配等を許可して頂きたい、と撮影の時と同じ条件を具備して出願すればよい。


 「はしがき」は『です・ます」でやり、本文では、制限は最小限度とへり下ってはいるが、申し出れば許可してやる、との姿勢が「長官の考え一つ」「本人の素行」の言葉に現れている。
 戦前の絵葉書や、本・雑誌などに掲載される、軍事に関係なさそうな写真に『昭和十一年東京湾要塞司令部地乙第二三七号許可済。被許可者石川武見』(『模範住宅二十九種 便利な家の新築集』主婦之友社)と厳めしい文字が入るのは、こう云う背景がある。

写真は本文と関係がありません


七、要塞地帯と地図
 地帯を含む地図は秘密地図であるが、二十万分より小さいもの五十万とか百万とかは秘密でないから手に入れられる。又此の地図は、地帯法の施行してない所でも軍事上の必要があれば販売を禁止してある。それから、二十万分の図をよく見ると、此の区域には水平曲線が描いてないから分る。地図の事は、本誌四月号で鈴木大佐殿が詳しく述べて居られるから再読して戴きたい。


 最近、地方交通の便否を知悉せしむると否とは、文化に甚しく影響するので、要塞地帯交通地図のないことは、要塞地帯内の居住者や旅行者に甚しく不便を感じさせるので、所々交通図と云うものを特に許可せられて販売されて居る。
 東京湾では十万分一が先年出来たが、近々五万分の交通図完成して販売せられる。之が市場に出れば三浦半島とか房総半島とかのハイキング者には、之上もない便利が得られることと思う。昨年は小倉市八幡市付近の五万分地図が発行せられた。


 当時のハイカーは、交通図もロクにない中で汽車に乗り、バスに乗り換え、自分の足で歩いていた。居住者にしてみても、地方から親類が訪ねてきたり、遠方から嫁取り婿取りする際、手紙に入れた地図が犯罪行為に取られかねぬのだから、不便なものだ。
 20万分の1地図での要塞地帯は、「水平曲線が描いてないから分る」とある。地形は分からぬだろうが、地図の上に不自然な空白があれば、何か重要な施設があるに違いない、と給料分の仕事をしている諜報機関員なら思うに違いない。中学生がエロ本を隠しているような、間の抜け方を感じるのは主筆だけだろうか。
 余談はさておき…


八、要注意事項
 要塞地帯内でも、陸海軍で出入を禁じて居る所はほんとに僅少の場所で、此の出入禁止区域の周囲には柵が設けてある。あまり人の通行しない様な所には、極めて単簡
(ママ)な柵があるので、一寸飛び越えられるから何んでもないと思って中に這いると、仮令兵備を視察しなくとも地帯法に触れるから、第一区地帯内をハイキングせられる時には注意が要る。
 写真機の携行は要塞地帯でも禁じてない、持って自由に歩けるが許可なく撮影が出来ない、それで官憲から取締りの必要上、撮影とか経路とかを尋ねられ、又は原板とか写真とかの提供を要求せられることがあるかも知れない。これは、毎年風景がよいからとか、地帯と知らずにとかで撮影するものがある、特に外国人に多いので憲兵や警官も特に写真機携行者には注意して居る。

 ハイキングをやっている内に高い所に出ると、要塞地帯が広広と見える、例えば、房総半島の鋸山とか、三浦半島の衣笠城跡とかに登って、防禦営造物をああのこうのと指示したり、之を記録したりすることは厳禁である。
 地帯内の軍用道路は、特に使用を許可せられてある部分、又は許可せられてある者でなければ、一般の人は使用が出来ない。即ち地方の交通の為、自動車会社に定期運行を許可されてあるからと云って、自家用や其の土地の円タクで乗り入れることは、司令官に許可を受けなければならない。これは国有財産の使用とか、道路の保守維持費とかに関係して居るからである。

 「陸海軍で出入を禁じて居る所はほんとに僅少の場所で、」戦時中に威張りくさっていた、と学んだ感覚から云えば、本当に腰が低い。とは云うものの、ここで書かれていることは「してはいけない」の羅列であり、しかも写真機を持ち歩けば、その筋から何かと干渉されることを匂わせ、果ては軍用道路にクルマで乗り付けるのは、道がすり減るから御免蒙るとまで云う。見晴らしの良い所にいて、同行者に向けて下界をあれこれ指させぬのでは、誰が高い所に登るものかと思う。


九、結言
 軍機の保護は国防上重要なもので、之が維持は軍当事者とか、官憲だけでは完全を期し得ないので、国民全般が国防観念に目醒めることと、法令に帰順するの徳性とに待たなければならない。それで要塞地帯をハイキングせられる場合、又は記事等を作為する場合には、自己が法を犯さないと云う許りではなく、他人特に外国人に非違行為のない様に、注意なり忠告なり訴告なりをして、国防の万全を期して貰いたい。
 個人の極めて偏狭な、御都合主義者になったり、国防上の軍事は文化の破壊者で吾人生活の脅威物だ、等云う考えから蝉脱して、国の力である此の力は、国民全般が付けなけりゃいかぬと云う様に考えて頂きたい。


 本年三月頃に、某国武官が追浜海軍飛行隊付近の水陸の地形を撮影して居る現状を発見した人が、直に憲兵に通告して呉れた為、大事に至る前に処置が出来た実例もある。(終)

 結局のところはハイカー各位の心掛け一つと云う所に落ち着く。
 とは云え、注意・忠告・訴告もゆきすぎれば、相互監視・密告上等社会の入り口だ。
 「国防上の軍事は文化の破壊者で吾人生活の脅威物だ」と斉藤少佐が書くのは、誰かに云われたに違いない。

 「要塞地帯法」は敗戦により廃止されて久しい。本文にある通り、要塞地帯は風光明媚な地に多く、撤去後は観光地として整備された所も多いと云う。携帯電話に写真機(カメラ)がついてこのかた、あちらこちらでバチリやる人を多く見るが、そこが要塞地帯の中だったら、あるいはこれから出掛ける場所が、要塞地帯の中にあったら、どんな写真が撮れるのか、いや、どのあたりから写真は撮れなくなってしまうのか? 地図でも見ながら考えてみるのも面白いだろう。


 寄稿者は、「年々要塞地帯法違反者が増加するのを慨」いてこの文章を書いているのだが、これにさかのぼること約5年前の昭和2(1927)年7月12日に、陸軍省軍務局から海軍省軍務局に「要塞地帯法違反予防に関する件」として、一般国民に注意喚起するため、下記の趣旨の記事を作って新聞等に掲載してもらおうと考えているが、海軍サンの御意見を知らせて欲しい旨照会している(アジア歴史資料センター、レファランスコードC04015507500)。
 載せようと考えている『文案』を、例の仮名遣い・句点・改行を細工して引いてみる。

 追々暑中休暇も近いて段々海岸へ転地をする人が多くなって来た。
 三浦半島や房総半島も此等の人々で賑うことだろうが、此の地方が要塞地帯であることを知らない人や、又知って居っても、つい出来心で要塞地帯内の写真を撮ったり写生をしたり、又は土地の有様を詳しく書いたりして刑罰ニ触れたり、或は思わぬ迷感を被った人が今迄沢山あるのは、誠に気の毒な次第である

 今年は当局でも、此等の誤を未然に防ぎたいと言っているが、避暑客も停車場や海岸其の他の要所に要塞地帯の制令が掲示してあるから、之れに注意することが必要である。
 写真の如きは、成るべく要塞司令部又は鎮守府許可を得た写真屋に撮らせることが一番安全と思うが、記念の為め是非自分で写真が撮りたいとか、写生がしたいとか又は記録をしたいとか言う様な人は、予め要塞司令部なり鎮守府なりの許可を受けて置かねばならぬ。


 海軍側の回答は、「本件ニ関シ七月十二日附防発第二八一号ヲ以テ御照会ノ趣異存無之候 右回答ス (終) 」と云う、ひねりも何も無いもの。
 「気の毒な次第」と同情心を見せ、「写真の如きは(略)写真屋に撮らせることが一番安全」と、地元にお金が余計に落ちるような事まで、気が廻るお節介焼き―もちろん総力戦に耐えうる国家建設のため―の陸軍と、娑婆の事には無関心な海軍の図式が目に浮かぶようだ。
 この記事の案が、実際に新聞等に掲載されたかどうかまでは調べていない。

(おまけ)
 昭和館の図書室で「新聞集成 昭和史の証言(9)」(本邦書籍)と云う本を見ていると、こんな記事が載っていた。

 広重の絵も発禁
 「阿波鳴門」要塞地帯法に触れ
 憲兵隊からお叱り


 広重の浮世絵が憲兵隊を悩ませている話
 京橋区(主筆註・現東京都中央区)銀座3の3審美美書院(代表岡本氏)では30年近く浮世絵の出版を続けて来たが、この程同風景画中の広重画「阿波鳴門」が要塞地帯法に触れるものだと和歌山憲兵隊に摘発され、東京憲兵隊の調べを受けた。

 結局複製の木版刷残品を押収され、今後の出版を禁じられてケリがついたが、浮世に居ない筆者の意向をただす訳にも行かない。

 問題の「阿波鳴門」が要塞地帯法に触れるというのは鳴門海峡のはげしい渦巻と共に点々する島、山、その風景が仮令遠望とはいえ流石大家のものだけに巧緻真に迫るものがあり、現在の要塞地帯を窺知するに足るものであると云う点が触れたものである。
(元記事は『読売』昭和10年5月5日付の由)

 あまりにも露骨な、和歌山憲兵隊の点数稼ぎである。
 信濃毎日新聞主筆(当時)桐生悠々は、関東地方で行われた防空演習を、「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或いは、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。」と評し、軍部を誣告するものと主筆の座を追われたが、鳴門海峡まで敵艦隊が迫るようでは、もはや「城下の盟」の場面に他なるまい。
 先の「ハイキングと要塞地帯法」にも、「此の模写は他人が許可されてあるから、此れと同一であるから許可を受けないでよいと云うのではない、矢張許可を受けるのである」と、模写の複製に制限が付され、また「阿波の鳴戸(ママ)の名所スタンプに、逓信省が要塞地帯を模写してあるので要塞司令官に許可を受けて居る」事を思えば、版画の押収もやむなしと云うところかも知れぬが、帝都の中心・花の銀座で30年も浮世絵版画の出版を、東京憲兵隊の黙認の下に続けていた所にこの仕打ちである!

 新聞記事も半ばひやかし気味で、「浮き世に居ない筆者の意向」とは書いてはあるが、その答えが「俺が死んだ後に出来た、要塞の事なんざぁ知らねぇ」であることは、記者と読者、何より東京憲兵隊の人たちも同じとするところだろう。

 昭和ヒト桁当時の反動が、こんなカタチで出たのだろうが、公務員が、こう云う詰まらぬ事をしでかすようになると、世の中は危うい。