モノは無くても広告はあるぞ

戦争のゆくえと広告


 「マツダランプ」である。知っている人はご存じの、古雑誌の裏表紙一面を常に占有している、アレである。

マツダランプS14

 これは、昭和14年の会報「万博」3月号の裏表紙である。

 昭和15年=紀元2600年は、アジア初の万博とオリンピックの年であった。日本が国際社会への発言力をさらに高める絶好の機会である。で、かような会報が発売されて、資金集めと宣伝なんぞをやっていたわけである。

 ところが周知の通り、中国との戦闘の行く先が戦闘をしている当事者にも判らなくなってしまったがために、万博もオリンピックも返上し、「きーんしかがやくニッポンの〜」と云う歌でおなじみの「紀元2600年記念式典」などと云う代用品を挙行して、帝国は米英と戦闘状態に入れり、とさらなる墓穴にはまり込んでしまったのであった。


 「マツダランプ」の広告は、その後もしぶとく雑誌裏面を占拠し続けたのであるが、昭和20年に入ると、とうとうこんな広告を打つようになってしまったのである。


マツダランプS20

 「科学朝日 報道と解説」昭和20(正確には2605)年1月1日号の裏表紙である。

 「二割明るく二割のお徳(ママ)」で青空、桜、国会議事堂と云う「躍進ニッポン」が、「手持ち電球で御辛抱下さい」と云うまでに疲弊してしまったと云うオハナシである。


 これが戦争末期になると、更に悲惨な状態になってしまう…

マツダランプS20_7

 これは「航空朝日」昭和20年7月号。ついに航空雑誌も「ザラ紙」となりはて、綴じられてもいない。

 ちなみにこの号の記事は「B29のレイダー」「P47見聞の記」「大馬力発動機の将来性」等々で、「最近の海外航空事情」では、米国が戦後の世界一周旅客輸送計画を発表したり、アメリカ余剰資産局が員数過剰の軍用機及び備品を教育機関に払い下げる旨を発表したなどと云う、戦争に負けてるやんけ!としか云いようのない記事までも掲載されているのである。




 戦争が終わっても、「マツダランプ」の地位は揺るがなかった。平和になっても電球の需要はありますからね。
 では、最期に「科学朝日」昭和20年11、12合併号から。

マツダランプ1945_11

 シンプルそのものである。
 モノがあれば飛ぶように売れる時代が始まっていたのである。

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