半世紀ごとの歴史的な飢饉の頻度の推移を原因とともに集計した結果を掲げた。

 ここでは、史料記録から、全国的あるいは広域的な飢饉は累積年数、地域的な飢饉は×0.5で集計されている。局地的な飢饉はカウントしていないのでやや過少推計だとされる。

 また、単なる不作、凶作、あるいは旱魃、霖雨といった記載だけでは飢饉と見なさず、飢饉、飢荒、餓死等への記載がある場合のみ飢饉と見なしているので、豊凶の指標ではなく、死亡危機の指標だと捉えられる。

 例えば半世紀に10飢餓ポイントということは、50年に10年は広域的な飢饉年だったということであり、近世以前の日本人は一生の間に何度も飢饉に遭遇するのが常態だったと考えることができる。

 飢饉の歴史を大きく特徴づけると、日本では、飢饉頻度が3回にわたり大きく低減してきたといえる。すなわち、

@律令時代の8〜9世紀から中世12世紀にかけての低減

A16世紀の前半から後半にかけて、すなわち戦国時代以前から以後、近世にかけての低減

B19世紀前半から後半にかけての江戸幕藩体制から近代国家への移行に伴う低減

 Aの要因として、資料の出所である斎藤修・高島正憲(2017)「岩波講座日本経済の歴史1中世 第1章労働と人口」は、歴史的は気候変動、および農業改良の有無が要因とは思えないので、「戦国大名の一円支配の間接的効果」によって「凶作が飢饉となってしまう蓋然性を低めることにつながった」(p.67)点を主たる要因としている。

 飢饉の原因別の推移としては、17世紀後半から「旱(ひでり)」による飢饉が減り、代わって「霖雨(長雨)/冷夏」による飢饉が増えている点が目立っている。

 旱魃による飢饉が少なくなったのは、戦国時代以降に土木工事が発達し、大河川の治水、灌漑用水路の整備が実現したためであろう。

 逆に、水不足に代わって、「霖雨/冷夏」が飢饉の原因として増えたのは、東日本や山間部など寒い地域にまで稲作が普及していったためではあるまいか。

 Bの低減は、西欧の先進技術の導入の効果というよりは、統一国家建設にともない、隣の藩で飢饉が起こっても助けられないという政治的な制約が取り払われたためであろう。ノーベル賞経済学者のアマルティア・センは政治的な体制のいかんが飢饉の発生や防止にとって大きな要因となると中国とインドの比較を例にとって指摘している(図録8210【コラム1】参照)。

(2017年12月6日収録)


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