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はじめに

 2017年に刊行が開始した「岩波講座日本経済の歴史」は第1巻〜2巻に近世以前の人口やGDPに関する新しい推計を掲載している。ここでは、これを1図にまとめて示した。

 GDPの推計は古代より税や貢納と関連づけが可能なデータが残っている農業生産量に基づいている。1次産業のGDPはこれに林業と漁業の分を推計して付加すれば求められる。

 全国的に推し量れる2次、3次の生産のデータはないので、1次と2次、3次の生産の比率が、都市人口の割合(都市化比率)及び農村部の人口密度と相関しているという後代の事実から過去にさかのぼって推計されている。

 こうして1次〜3次にまたがる全体のGDPが求められることになる。

 これと別個推計された人口によって1人当りGDPも算出される。ここで掲げた1人当りGDPの推移を日本以外の主要国と比較した結果については図録4546参照。

 古代から近代までを通じて各期の特徴は以下のように要約される。

特徴 時期 人口増加 1人当りGDP成長
@ 「内的充実」期 奈良〜平安中期と江戸・享保以降 ×
A 「水平的拡大」期 中世の「村」創成と近世初期開発の時期 ×
B 「躍進」期 戦国時代と明治以降

 730年〜1600年の人口に関しては、これまでの鬼頭推計に代わる新推計に基づいている。
1.古代・中世

 飛鳥・奈良時代以降の唐・新羅・渤海との頻繁な国際交流によって未知の病原体が待ち込まれた影響で平安中期にかけては人口が減少している。

「その後、東アジアの交流が疎になったことに加え、荘園制の拡大と土地開発の進行があって、人口規模は以前の水準へ回復をした。この背景には武士団の存在があった。所領を複数の子女に分割して譲与するという惣領制は、分割譲与された土地に未墾地が含まれ、その未墾地が子供世代によってさらに開発されたという意味で、開発の時代においては「合理的な」制度であり、かつ人口増加に好都合な仕組みだったからである」(斎藤修・高島正憲(2017)「岩波講座日本経済の歴史1中世第1章」、p.61)。

 しかし、この1150年にかけての人口増加期に農業の生産性はむしろ低下し、1人当りGDPは低下している。

 12〜13世紀には再度人口が停滞あるいは減少する。13世紀の2度にわたる宋銭急増に見られる日宋交易の活性化に伴いインフルエンザ禍が新登場したことなどによるものとされる。

 その後、14世紀から人口の持続的な増加傾向が顕著となる。これは、13世紀末から14世紀にかけて「12世紀後半に萌芽的なかたちで始まった集村化への動きが現代にまでつながる定住地の形成となった」(同上、p.63)からと考えられる。つまり、この頃になって、やっと日本の農村部の特徴である「村」の存在が一般化したからである。太古の昔から村があったわけではないのである。

 平安中期の荘園の成立とともにはじまった中世の耕地開発は、鎌倉時代半ばから南北朝時代のころ、13世紀半ばから14世紀ごろには、平地部の好条件の土地の開発はあらかた達成され、「残された開発可能地は河川沿いのようなリスクの多い場所、傾斜地のような高度な土木技術の必要な場所、あるいは大規模な人員動員の必要な海岸湿地など」となったという史学界の見方がある(榎原雅治「室町幕府と地方の社会」岩波新書、2016年、p.113)。戦国大名があらわれこうした開発を容易にするまで、経済の拡大は水平的であるに止まり、1人当りGDPは伸び悩んだと捉えることができるだろう。

 なお、13世紀半ばから14世紀ごろに好条件の土地について開発の飽和期に達したというこの見方に立つと、同時期における集村の発生の要因として、上記のような土地開発を促進する役割というより、限られたバイをめぐる争いの増加の中で利害を共有できる人々が結束を固める機能に焦点が当たられているようだ(同、p.115)。

 人口の持続的な増加傾向が可能となったのは、「モンゴル軍による占領がなかったため、西欧と異なり、ペストのような致死率の高い感染症に悩まされなかった」(同上、p.63)のも大きいと見られる。また、16世紀後半からは戦国大名の一円支配による飢饉頻度の縮小も加わって人口増が加速する(飢饉頻度については図録0288参照)。

 1600年の人口はこれまでの定説1200万人ではなく、1700万人に達したと考えられる。

 1人当りGDPの単位は農業生産量である石(玄米180リットル)であらわされている。1石は2.5俵=150kgにあたり、人一人が一年間に消費する米の量に当るとされていた。一人当たりGDPが2石なら1人の生産者がもう1人の非生産者(子ども、職人、武士、遊女など)を養える勘定となる。

 室町期から織豊政権期にかけて一人当たりGDPの0.5石の増加は大変なインパクトをもった訳である。この時期の一人当たりGDPの増加要因については、戦国大名の領国支配に伴う生産拡大、及び16〜17世紀における海外との技術交流の拡大(鉱山開発ブームなどを伴う)を基礎にした流通経済の発達、それによる2次・3次産業の発達が考えられる。鎖国以前に外洋航海のための朱印船は国内で自前建造されていたばかりでなく、建造単価の安さや良質な船材や造船技術への信頼からフィリピンに輸出もされていたのである(岩生成一「鎖国」中公文庫、p.209)。
2.近世

 近世を通じてGDPが伸び続けているというデータの主要な根拠は、諸資料の吟味からこれまで以上に農業生産に関して表高より実収石高が増え続けていたという推計結果によっている。「幕藩体制下における封建領主・幕府が農民の全生産を把握できておらず、その傾向は近世後半になってより顕著になっていった可能性」が高いのである(高島正憲・深尾京司・今村直樹(2017)「岩波講座日本経済の歴史2近世序章第1節成長とマクロ経済」(p.10)。

 元禄時代を経て、享保期に至るまでの近世前期とそれ以降の近世後期とでは、人口・経済の動きのパターンが180度変化する。

 江戸前期には、近代以前の最大の人口増加期となりGDPもそれに応じて増加した。人口が増えたが1人当りのGDPは増えなかった。新田開発による農地と人口の水平的な拡大だけがもっぱら経済成長の要因だったからであろう。鎖国による貿易の縮小や平和の代償としての技術開発の抑制によって、生産性の上昇はむしろ人為的に抑えられたのである。例えば3本マストで竜骨構造をもつ外洋航海船は禁じられ、1本マストの沿岸航行船のみが許された。

 下図にも見られるように、近世前半には大きく人口が増加し、これと比例して、江戸やその他の城下町が成長し、都市化が進んだ。この結果、都市の商業・サービス業中心に非1次産業が成長したと考えられる。元禄文化につながる経済成長である。これが水平的拡大の一側面だったといえよう。

 ところが、江戸後期には、人口が長らく横ばい傾向となり、のちの江戸期停滞イメージのもとにもなった。ところが、GDPは江戸後期も伸び続けており、1人当りGDPは江戸前期の横ばい傾向から転じて、大きな上昇傾向を記している。

 近世後期の人口停滞期には、都市化はむしろ後退したが、人口密度自体は増加している。加工品・特産品生産や農村工業の発達によって農村部の人口密度が高まったためと考えられる。北前船などの水運に媒介された魚肥肥料などの中間投入の拡大や地域間分業の拡大によって実収石高が更に増加し、実効税率が下がって農村部の消費が拡大するという新しい経済循環のパターンが全国を被うようになったことが高い経済成長に結びついたものであろう。


(2017年12月22日収録、12月23日人口推移拡大図、12月27日近世のコメント改訂、12月28日中世のコメント改訂)


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