第2次世界大戦末期、1944年〜45年に、米軍による本土爆撃に備えて、大都市の国民学校初等科(現在の小学校)3〜6年生を個人的あるいは集団的に、より安全な地域に移動させた。これを「学童疎開」という。

 ここでは、疎開先の児童数について都道府県別にグラフにした。

 東京からの疎開児童数は長野が3.7万人と最も多く、福島、群馬、静岡が2.7〜2.8万人でこれに次いでいる。

 横浜・川崎・横須賀、名古屋、大阪、神戸・尼崎からはそれぞれ同一県内の神奈川、愛知、大阪、兵庫への疎開が最も多い。大阪からは滋賀、奈良、香川などへの結構な数が疎開している。

 この他、沖縄からは南九州の熊本、宮崎などへ、鹿児島県の離島からは鹿児島県への疎開が行われた。

学童疎開とは

 学童疎開は空襲が激しくなった1944(昭和19)年夏に始まりました。対象は全国の小学3年生〜6年生100万人以上でした。まずは親類らを頼る「縁故疎開」が進められました。次ぎに学校単位の「集団疎開」が行われ、合計70万人弱の児童が地方に向かいました。疎開には戦争完遂のために次世代兵士を温存するという目的もありました。

  疎開児童数(人)
縁故疎開 322,887
集団疎開 347,780
残留 327,033
その他(死亡、行方不明など) 25,530
(注)1944年12月末時点。立命館大学国際平和ミュージアム特別展パンフレットから
(資料)東京新聞大図解シリーズ「学童疎開」2010年8月15日

 疎開しない児童も約33万人いました。親が「子どもといっしょにいたい」と疎開を希望しなかったり、集団疎開に伴う食費(1人当たり当時10円、月収の15〜20%程度)や布団などが負担できなかったからです。病弱などで疎開に適さないと判断された児童もいました。

 また米軍上陸の可能性や食糧難などを理由に最初の疎開地からさらに移動する「再疎開」も一部地域で行われました(本土決戦が視野に入った45年5月ごろに、千葉、茨城、静岡など太平洋沿岸に疎開していた東京都の集団疎開学童は、青森、岩手、秋田、富山などへ再疎開)。

 当初1944年7月に40万人の疎開が計画された際には、疎開の対象は東京、横浜、川ア、横須賀、名古屋、大阪、神戸、尼崎、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の13都市で、45年4月に京都、舞鶴、広島、呉の4都市が追加指定されました。
(資料)東京新聞大図解シリーズ「学童疎開」2010年8月15日

(2010年8月19日収録)


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