太平洋戦争における米軍の日本空襲は、1942年4月にはじまったが(尾久初空襲)、その後、米軍は航続距離の長いB29を開発し、1944年6月から空襲を本格化させ、同年12月からは連日のように日本に襲来、爆撃は終戦当日まで継続した。

「初期の空襲は軍需工場や軍事関連施設を狙う「精密攻撃」だったが、45年3月10日未明、東京の下町を襲った東京大空襲を皮切りに、街を焼き払う無差別爆撃となった。米軍は木造家屋を焼くのに適した焼夷弾を開発、東京大空襲では一晩で約10万人が犠牲になったとされる。」(東京新聞2014年4月21日)

 都道府県別・主な被災都市別の空襲死亡者数については図録5226e参照。日本各地・各都市の戦災の状況については、総務省作成のホームページがある。また、空襲被害の日欧比較は図録5227b参照。

 以下には、日本各地の主な空襲被害について表にした。

主な空襲被害
空襲日 被害を受けた都市 死者数 空襲目的と被害状況
1942年4月18日 東京、神奈川など 120人 本土初空襲。千葉県犬吠崎沖1150キロ地点の空母ホーネットから出撃したドーリットル中佐率いる米陸軍B25爆撃機16機が東京、神奈川、名古屋、神戸の軍事施設、石油工場、発電所を攻撃、多くの民間人を含む120人が犠牲となった。最大被害地は東京であり、初弾は荒川区東尾久の住宅地だったことからこの本土初空襲を「尾久初空襲」とも呼ぶ。なお爆撃機は日本列島を横断し中国に飛び去ったが16機全てが着陸できず大破した
1944年6月16日 八幡(福岡)など 314人 中国・成都から日本製鉄八幡製鉄所を目標に空襲、B29による日本本土への本格的な空襲の始まり
1944年10月10日 那覇(沖縄)など 330人 艦上機により沖縄本島や奄美諸島を空襲
1944年11月24日 武蔵野(東京)など 62人 マリアナ諸島からのB29本土攻撃の始まり。米軍は7月に制圧したサイパン島などに航空基地を整備、北海道を除く日本全域がB29の爆撃可能圏内に。第一目標の中島飛行機武蔵製作所は計9回空襲され、220人が死亡
1945年3月10日 東京下町地域 約95,000人 東京大空襲(大都市の焼き払い空襲の始まり)。B29約300機が超低空で焼夷弾約33万発を投下。本所、深川、浅草、城東などの住宅密集地を焼き尽くす。史上最悪の無差別、住民殺りくの爆撃といわれる。その後、4月から山の手地域にも空襲は広がった。
1945年3月12日 名古屋(愛知) 602人 名古屋は3月12、19日、5月14、17日の4回の市街地爆撃があり、名古屋城天守閣も焼失。名古屋市の全期間の死者は約8000人
1945年3月13〜14日 大阪 3,987人 大阪中心部の住宅密集地、商業地、官庁街を焼き払った。全期間の大阪市の死者は1万人を超えた
1945年3月17日 神戸(兵庫) 2,669人 神戸は3月17日、6月5日の2回の大空襲があり、神戸市の全期間の死者は6000人以上、住宅密集地の約6割が破壊
1945年4月13日〜5月26日 東京山の手地域 7,304人 東京大空襲に続き、東京では4月13〜14日の城北大空襲(死者2459人)、15日の城南大空襲(同841人)、5月24〜26日の山の手大空襲(同4004人)があった。5月の空襲で皇居宮殿も焼失。

(別資料)東京新聞2015年5月26日「TOKYO発」における「山の手空襲」解説
 1944年11月のB29爆撃機による初空襲から終戦まで、東京は100回近い空襲を受けた。このうち45年4月から5月にかけて4度の大規模空襲が「山の手空襲」と呼ばれている。3月10日未明に下町を襲った東京大空襲と合わせ「東京5大空襲」と呼ぶ場合もある。
 「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区)の推計では、新宿や池袋などが襲われた4月13日夜から14日未明は約2000人が死亡。世田谷や目黒などが被災した15日夜は、約900人が亡くなった。5月24日未明は、品川、目黒、蒲田などで死者約530人。25日は午後10時22分から約2時間にわたり渋谷や赤坂などが徹底的に焼き尽くされた。この夜の死者は約3300人。この空襲を最後に、米軍は東京を大規模空襲リストから除外する。
1945年5月29日 横浜(神奈川) 3,650人 約500機のB29と護衛戦闘機による空襲。35回の横浜への空襲で最悪の被害。横浜市の全期間の死者は役4600人、住宅密集地の4割以上が破壊

(別資料)東京新聞2015年5月29日記事解説
 1945年5月29日午前9時20分ごろからの約1時間、米軍のB29爆撃機約500機が東京大空襲の1.5倍の約2600トンの焼夷弾を横浜市外に投下。直後の警察発表で死者約3700人、負傷者1万人、その後の調査で死者は8000人に及ぶと推定されている。
1945年5月31日 台北(台湾) 約3,000人 70周年となる2015年5月31日に台北市内で催された記念シンポジウム(主催台湾教授協会)「の報告によると、台湾で最初の空襲は1938年2月で、ソ連と中国の軍が連携し、台北市内の松山空港を爆撃した。空襲は44年秋から本格化し、主力はフィリピンのスービック湾から飛来した米軍機だった。45年5月31日の台北大空襲では、B24爆撃機117機が午前10時から3時間余りにわたって市内の総督府(現総統府)周辺に4千発近い爆弾を投下した」(東京新聞)。犠牲者は日本人を含む台北市民約3千人。
1945年6月9日 名古屋(愛知) 2,068人 名古屋市熱田区の愛知時計電機で従業員や勤労女子学生が犠牲になった「熱田空襲」
1945年6月17〜18日 鹿児島 2,316人 米軍は大都市空襲を終え、中小都市空襲を開始。18日に大牟田、浜松、四日市、20日には豊橋、福岡、静岡を爆撃
1945年7月14〜15日 北海道・室蘭など 1,283人 北海道は艦上機による空襲と艦砲射撃により根室306人、釧路202人、室蘭442人、本別40人が犠牲に。青函連絡船で51人が死亡
1945年7月19〜20日 福井 1,585人 127機のB29が来襲。9万人以上が罹災、住宅密集地の85%が破壊
1945年8月2日 富山 2,767人 173機のB29が来襲し、中小都市への1日の空襲では最悪の被害。住宅密集地の98%が破壊
1945年8月15日 熊谷(埼玉)、秋田、小田原(神奈川)など 266人
(熊谷)
14日夜〜15日未明、秋田市の日本石油秋田製油所、熊谷市、群馬県伊勢崎市を目標とする空襲。小田原には帰路余った爆弾を投下
(注)東京大空襲・戦災資料センターが地域史に基づき集計。軍人の被害、原爆による死者を除く
(資料)東京新聞「ニュースがわかるAtoZ:日本の空襲」2014年4月21日、同紙2015年6月1日(台北大空襲)


(2014年4月25日収録、5月20日本土初空襲日付訂正、2015年3月4日東京大空襲の焼失地域図追加、5月26日山の手空襲を図表に追加、5月29日横浜大空襲被災図追加、6月1日台北大空襲追加、8月5日都道府県別死亡者数グラフを図録ページとして独立化(図録5226e)、原図録名の「日本各地の空襲被害」をこちらに引渡し、当図録はメイングラフ名から「主な空襲による死亡者数」に変更)


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