鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」に掲げられた地域別の人口推計から地域別の人口規模の順位の変遷を図にした。すでに図録7240で同じ資料から地域別人口の変遷を棒グラフで示したが、順位の変遷として捉えなおした当図録の方が日本史の時代変遷がよりビビッドに浮かび上がるのも不思議である。なお、同じく長期にわたり地域別人口推移を人口重心の移動としてあらわした図録1152も参照のこと。

1.縄文時代から弥生時代以降への変化

 各地域の人口規模の順位の変動で最も変化が激しかったのは図でも明らかな通り縄文時代から弥生時代にかけてであった。縄文時代には南関東、東山、東奥羽、西奥羽の人口規模が畿内、畿内周辺、中四国を大きく上回っていたのが、弥生時代以降は地域が逆転する。すなわち東日本中心から西日本中心へと大きく時代が移り変わる。また、縄文時代・弥生時代には人口規模全国1〜2位の地位を争った東山(信濃、甲斐、飛騨)が奈良時代以降現代まで下から2〜4位の地位にまで低下したのが印象的である。

2.大和政権の成立を支えた関西地方の躍進

 弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。この時代の人口扶養力の根拠はため池灌漑であろう。なお、これら5地域のそれぞれの順位変化は、平安末期以降、別々の動きとなって連動しなくなる。

3.武士の時代のはじまりと関東の躍進

 弥生時代以降、一時期低下した関東(北関東と南関東)の地位が平安時代には再度上昇。武士の時代の到来を告げる。南関東は鎌倉幕府以降事実上の首都となって最多人口集積地域の座を維持した。一方、北関東は平安前期、末期には全国1位、3位の座を占めたがそれ以後は地域を低下させた。ちょうど将門の乱(935年)の頃にはその舞台となった北関東と南関東が全国1〜2位を占めており、他地域を上回る新田開発の進展と経済力の上昇が反乱の背景となっていると考えられる。この時代の人口扶養力の根拠は荘園単位で開発が可能な中小河川水系の新田開発であろう。

4.大河川水系の新田開発

 戦国期から江戸享保改革期までは戦国大名による大河川のコントロールが可能となり日本全国で人口が急増した時期である(図録1150参照)。この時期に先立って北関東の順位が急落、またこの時期に畿内の順位が大きく低下したのは、こうした近世的な全国国土開発の波にによって同等人口規模の地域が多く輩出した反作用と見られる。実際、末尾の参考図のように畿内の人口シェアは関ヶ原合戦前後の時期を除くとそれほど大きく変化していた訳ではない。

5.北前船の時代の到来と衰退

 江戸時代後半から明治時代にかけて、大阪湾〜瀬戸内海〜日本海〜北海道航路の北前船を大動脈とした経済圏が発達・成立し、明治期には北陸が人口規模2位にまで躍進した。江戸期における藩米の流通とともに、明治期にかけての瀬戸内地方の綿、砂糖、藍、菜種、塩と北海道のニシン魚肥の生産と交易を基本とする経済圏だったため、その中央に位置し北前船の船主の一大根拠地だった北陸が栄え、主要産品産地を抱える山陽や四国の人口も北陸と連動して増加した。しかし、その後、海外貿易による国内産業循環の再編(上述国内産品の輸入産品による代替)、北海道開拓、軽工業中心の関西工業地帯の発展、首都東京の拡大などにより、北陸、山陽、四国の地位が揃って低下し、畿内、北海道、北関東のシェア拡大が目立つこととなった。北前船経済については図録7810参照。

6.石炭・鉄鋼業から機械産業への中心シフト

 炭田と鉄鋼業の躍進に伴って両産業の全国中心だった北九州の人口規模が大正9年には全国2位にまで上昇したが、その後自動車産業他の機械産業が発達し、北九州に代わって東海の人口が伸びた。北九州の地位は石炭から石油へのエネルギー革命が進んだ1970年には特に低下している。

7.三大都市圏の形成

 京浜、中京、関西という3大工業地帯の発展にともなって人口規模における南関東、畿内、東海の順位が戦後の高度経済成長期以降には定着した。その後、東京一極集中により南関東のシェアがさらに拡大したがこの順位自体は変わらなかった。

 最後に、参考のため、南関東と畿内の人口規模順位ではなく実際の人口シェアの推移を以下に図示した。



【コラム】奈良時代から鎌倉時代にかけての遊女中心地の変遷

 歴史的な人口分布の変化は交通の要衝のシフトをともなっていたと考えられる。日本法制史の泰斗滝川政次郎は遊女の歴史研究でも優れているが、交通の要衝を拠点とすることが多い遊女の中心地の変化を裏付けにして日本の国土構造の変化をたどっている。以下、奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代に至る変遷についての同氏の記述を引用した。図録の「奈良時代」「平安前期」「平安後期」の人口分布の変化を見ながら読むと興味深い。なお、この後、遊女の歴史は、白拍子の時代を経て、江戸の吉原・深川、京都の島原・祇園へと移り、明治以降の柳橋・新橋・赤坂・芳町といった東京の花柳界に至る。

淀川の本流は琵琶湖に発して浪速に注ぐが、その支流である神崎川は、江口の里で分流して、尼崎で大阪湾に注いでいる。(中略)平安時代には、京都から筑紫の太宰府及び山陽道の諸国に赴く者は、淀から船に乗って淀川を下り、江口から神崎川を下って大阪湾に出て、それから瀬戸内海航路を辿った。(中略)京都から江口までは1日程で、その日のうちに神崎まで出るのは、聊か強行軍である。故に、京都から西国に赴く旅行者は、たいてい江口で一泊した。(中略)江口はまた山陽道と南海道(淀川本流を経て和歌山、四国へ向かう方面−引用者)の駅路の分岐点でもあった。是れ実に江口が遊女群をなす色里となった所以である。(p.1)

江口・神崎の遊女は、奈良時代に難波津(なにわづ)の周辺に集まっていた遊行女婦(ゆうぎょうにょふ)が、帝都が奈良から京都に遷り、交通の要衝が難波津から江口・神崎に移るに従って、江口・神崎に移動してきたものであって、正しく奈良時代の遊行女婦の後身である。(p.6)

(諸国宿駅の遊女である−引用者)クグツの本場は、野上(のがみ)・青墓(あおはか)である。野口・青墓も交通の要衝である。東海・東山の駅路は近江の草津で分岐しているが、平安時代には京都から東海道諸国へ赴く旅行者は、鈴鹿の嶮所と山賊を避けて、現在東海道新幹線の通じている道を辿る者が多かった。故に関ヶ原の附近にあった野上・青墓の両駅は、この道を辿る旅行者と東山道を通って碓氷峠にかかる旅行者との別れ途で、その宿場は賑わった。(p.7)

(平安末期の大江匡房傀儡記によれば−引用者)美濃・尾張・駿遠三のクグツについでは、山陽・山陰のクグツが富裕で、一番貧乏くさいのは、西海諸国のクグツであるという(p.264)

奈良時代およびそれにつづく平安時代の初期においては、京都太宰府を結ぶ山陽・西海二道の駅路が全国第一の交通量を誇った(中略)。しかるに平安末期になると、東海・東山二道が全国第一位となり、山陽・西海(門司より太宰府迄)二道の交通量は第二位に落ちたようである。何となれば、宿場女郎の盛衰は、交通量増減のバロメーターであるからである。平安前期・中期に、東海・東山両道の交通量が増加したのは、桓武天皇の御代に行われた蝦夷征伐が功を奏して東北の経路が順調に進捗したこと、荘園制度の発達に伴って関東平野における新田の開発が激増したことの結果である。この平安末期の交通状況の変化に伴って、江口・神崎の遊女の尤物(ゆうぶつ。逸品。すぐれて美しい女−引用者)にして東海道宿駅に転出した者も少なくなかったであろう。鎌倉時代に至って東海道宿駅のクグツの名称が亡んで、宿々の「遊君」と呼ばれるようになったは、このゆえである。(p.263)
(資料)滝川政次郎「遊行女婦・遊女・傀儡女 −江口・神崎の遊里−」至文堂(1965年)


<文献>
滝川政次郎(1965)「遊行女婦・遊女・傀儡女―江口・神崎の遊里(日本歴史新書)
馬場光子訳注(2010)「梁塵秘抄口伝集  全訳注 (講談社学術文庫)


(2012年8月9日収録)


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